届けていただきたいものが、あります
処分用の廃棄箱は、廊下へ出て、すぐのところにある。
いつもなら、要らない紙をまとめて、ここへ放って終わりだ。何百枚と、そうしてきた。名前が書いてあろうと、印が押してあろうと、期限が切れれば同じこと。処分すべき紙は、処分すべき紙でしかない。
封書を持ったまま、その前まで行った。
蓋を、開ける。今日、その役目を終えた紙が、もう何枚も入っていた。誰かの署名も、判の跡も、隅で折れて、混ざっている。この上へ落とせば、それで終わる。四人の名前も、まだ読んでいない中身も、まとめて。
手を、上げた。箱の口の、すぐ上まで。
あとは、指を、開くだけだ。だというのに。
開かない。指が、封書を放さない。
箱の底の紙が、こちらを見ている気がして、一度、目を逸らした。逸らしても、手は動かない。
……蓋を、閉めた。金具が、かちりと鳴る。
封書は、まだ、手にある。
手のひらが、少し汗ばんでいた。廊下は、今年一番の寒波で、冷えているのに。
どうすればいいのか、分からないまま、自席へ戻った。
とりあえず、台帳の脇へ、置く。すぐに、別の紙を上へ載せた。見えなければ、いい。そう思った。
なのに、次の書類を動かすと、下から出てくる。四人の名前が、また、こちらを向く。
邪魔だから、脇へ寄せた。判を押して、束をそろえて、伝票を数えて――気がつくと、いつのまにか、また、手の届くところへ戻していた。自分で、動かしたらしい。覚えが、ない。
あの人の机で、一日、伏せられていた一通だ。
今度は、私の机の上で、片づかないでいる。
仕事が、終わる時刻になった。
机を、片づける。残して帰れないものは、所定の場所へ戻していく。台帳は、棚へ。判は、抽斗へ。未処理の束は、翌朝の箱へ。ひとつずつ、いつもの場所へ収まっていく。手が、順番を覚えている。
最後に、封書だけが、残った。
いつもの場所が、ない。
処分箱は、まだ廊下にある。あの人の机も、戻ろうと思えば、まだ戻せる。伏せて置いてくれば、明日の朝には、私が持ち出したことも、なかったことにできる。
どちらも、しなかった。
外套を、着る。袖を通しながら、机の上の封書を、見ていた。
鞄を、持つ。念のため、箒も。
――そして、封書も、その鞄へ入れた。
なぜ、と自分に聞かれても、答えられない。捨てられない。戻せない。だから、持つ。それだけのことだったのかもしれない。
入れてから、しばらく、鞄の口を、閉じなかった。まだ、出せる。今なら、机へ戻せる。そう思いながら、指は、留め具にかかったまま、動かない。
それでも、最後には、閉じた。
外は、もう暗い。
戸を出ると、冷えが、いっぺんに首筋へ入ってきた。日中はずっと室内にいたから、体が、外の寒さを忘れている。ふぅっと吐いた短いため息が、白く伸びて、消える。
いつもの道を、箒を持って歩く。雪は、街灯の下だけ、白い。少し離れると、もう、黒い。
家はそんなに遠くないのだから、箒など、荷物になるだけ。それでも、何故か今日は手にもって局を出た。
歩くたび、鞄の中で、封書の角が、台帳か何かに当たっている。こつ、こつ、と、控えめな音がする。中身も知らない一通が、そこにいる、と、そのたびに思い知らされる。
このまま帰れば、一晩、これを持っていることになる。
家の机の上に置くのか。それとも鞄に入れたまま、朝まで見ないふりをするのか。そして明日、また、あの箱の前まで、持っていくのか。
そこで、足が、止まった。
少し先に、分かれ道がある。まっすぐ行けば、家。右へ折れれば、そうでないほう。
一度、家のほうの道へ、足が入りかけた。いつもの帰り方だ。体が、そっちを覚えている。
でも、二歩で、戻った。
決めたわけじゃない。あの人を助ける、とも、命令に背く、とも、思っていない。ただ、この鞄を持ったまま、家の戸を開ける気に、どうしても、なれなかった。
もう、箒と手紙を持ち出した時点で決めていただろうに。箒へ跨り、あっという間に空へ飛びあがる。
場所は、知っている。ローデンの外れ。私設の郵便屋だから、中央の割り振りには載らない。それでも、そこに誰がいるかは、知っていた。
クラリス・ヴェイン。少し前に、査問室で、その人の外套を取り上げた側に、私もいた。色んな事情が有ったにせよ、あなたのような魔女がいると、配達不能の判定が意味を失う——そう言ったのは、紛れもない、私だ。
そんな相手のところへ、今度は私が、捨てろと言われた手紙を、持っていこうとしている。
夜の雪道は、思ったより、長い。指の先が、かじかんでくる。冷たい風と、雪による視界の悪さが、ここまで身を削るとは。現場から離れて久しい自分を、少し、戒めた。
それでも、引き返さなかった。引き返せば、また、あの箱と、あの人の机の前に戻るだけだ。
やがて、灯りが、見えてきた。
風待ち郵便局。小さな灯りが、雪の向こうで、にじんでいる。
発着場に降りて、戸口の前で、一度、立ち止まった。ここまで来て、まだ、どうやって頼むのかも、決まっていない。
それでも、戸を、押した。
入口の鐘が、鳴る。
中は、暖かかった。外との差で、頬が、ひりつく。
閉店前らしかった。奥から出てきた若い女の子が、受付箱の中身を、一度、卓へあけたところだった。この店の、店番、だろうか。
暖炉の上に、鍋が二つ、掛かっている。湯気が、上がっている。片方の脇には、盆に食事が一人分、よそったまま、置いてあった。手を付けた跡はない。湯気のそばに、それだけが、残されていた。
その子が、卓の紙を脇へ寄せて、こちらへ向き直る。
「いらっしゃいませ」
私が、客に見えたのだろう。……客、なのだろうか。それすら、自分では、分からない。
「ええと、クラリスさんは」
思わず、名前が、口から出ていた。
「あ……配達で、出ています。もうすぐ、戻ると思いますけど……」
そう、とだけ答えて、次が、続かない。
いなかった。渡してしまえば、もう戻せない。そうしてしまいたかったのかもしれない。
鞄だけが、まだ、腕に残っている。
店番の子が、私の顔と、抱えた鞄を、順に見た。
「……ご依頼、ですか」
すぐには、答えられなかった。
依頼、なのか。宛先は、あの人だ。もう、届いている。その一通を、捨てろと言われた私が、勝手に、ここまで持ってきた。差出人でもない。中身も、読んでいない。――これを、どう言えば、頼んだことになるのか、分からない。
黙っている私を、その子は、急かさなかった。ただ、待っている。
鞄の留め具に、手をかけた。開けるのに、少し、手間取った。指が、冷えていた。
一日、あの人の机にあって、今日は私の机の上で片づかなかった封書を、取り出す。
四人の名前が、その子のほうを、向いた。
受付の台へ、置いた。
置いた手を、すぐには、離せなかった。まだ、依頼だとは、言えない。正式に頼みます、とも、言えない。それでも、これを鞄へ戻して持って帰ることは、もう、できなかった。
指を、離す。
「……届けていただきたいものが、あります」
やっと、言えた。声が、少し、掠れた。
その子は、台の上の封書を見て、それから、私を見た。急いで受け取ろうとはしない。無理に、聞き出そうともしない。少し考えるそぶりを見せて。
「直接、お話しされますか?」
少しだけ、待つことになると思いますけど。と少女はつづけた。
それでも、鞄はもう、空だった。




