寒いのは、大嫌いだ
早朝便は、貧乏くじだと思う。
箒の穂に、雪が残っている。受付の脇へ立てかけると、溶けかけた雪が、床へ数滴落ちた。手袋を外す。指が、赤い。
「ううー、寒かった、やっぱり冬は苦手だぁ」
誰へ言うでもない。返事も、なかった。
奥で、テアが仕分けをしていた。届いた束を、行き先ごとに分けている。手を止めずに、
「レナ、お湯、沸いてるよ」
とだけ言う。
窓際で、グレタが、これから出る支度を進めていた。留め具が固いらしく、二度、掛け直している。
机の端では、ソフィが、箒の留め具を替えていた。古いほうを外し、新しいものへ通す。外した金具を、卓の隅へ寄せた。脇のお茶には、まだ手をつけていない。
みんな思い思いにそれぞれが為すべきことをしている。自分も、早く温まらなくては。
お湯を使って、自分でお茶を淹れる。茶葉に熱湯をっけた時に広がる、少しだけ香る酸味の利いた匂いは、いつも自分を落ち着かせてくれるように感じるのは、何故だろうか。
卓に、布巾が一枚、丸めて置いてある。昨日、誰かが畳み忘れたものだ。テアがそれを見て、グレタへ言った。
「これ、絶対あんたでしょ」
「違う」
「昨日、最後まで残ってたの、あんただったじゃん」
「……畳んだ気は、する」
「気だけされてもねぇ……」
グレタが笑って、布巾を畳んだ。
テーブルに置かれたままにされた、中央からの書面が、目に付いた。
特別な扱いのものではない。確認を求める書類の束に、ほかの紙と一緒に挟まっている。テアが、いつものように、めくっていく。
途中で、彼女の手が止まった。何かあったのだろうか。
気になり、後ろから覗き込む。支線の名前。日付。その下に、一つの名前。
「どうかした、の?」
テアは答えず、紙を少し傾けた。レナにも、見えるように。
あの支線の、あの日の判断が、最終の審議にかかる。判断した者の、進退まで。そう書いてある。
名前は、レオンハルト。
グレタが、鞄の手を止めて、寄ってきた。書面の日付へ、指を置く。少しのあいだ、動かさなかった。
ソフィは、茶を持ったまま、立っていた。飲まずに、器を卓へ戻した。
書面には、あのときの調書が、写しで添えられていた。四人が、聞き取りで話した分だ。
テアは、そのうちの一枚に、自分の署名を見つけた。
必要なことは、書いてある。
テアが、紙から、自分の右手へ目を落とした。あの日、中継局へ着いた直後、この指は、うまく曲がらなかった。今は、束をめくれる。記録には、負傷なし、とある。間違ってはいない。
レナは、窓際の箒を見た。あの日、目の前を飛んでいた仲間の箒が、風に沈んだ。一瞬、視界の下へ消えた。本人は、落ちなかった。だから、どの記録にも、載っていない。
私たちは、紙と、互いの顔を、見比べた。
あの日。
私たち四人は、山間支線を飛んでいた。背に、次の区間まで届ける郵便がある。路線は現役で、出るときの空は、特に異常がなかったと思う。
今朝なんて比較にならないくらいの寒さだったと思う。
私は、少し後ろから、三人を見て飛んでいた。先を行くグレタの箒が、一度、風に沈んだ。すぐに上がってくる。だが、一瞬、下の雪へ紛れて、見えなくなった。
声を出さなかった。呼べば、グレタが振り返る。振り返れば、箒が、また乱れる。だから、ただ、見ていた。グレタが体勢を立て直して、また前へ出る。それを確かめてから、息を吐いた。
中継局へ降りたのはそれから少ししてからだった。
全員、自分の足で、地面へ立ったはずだ。
グレタの箒には、薄く氷が張っていた。穂の先を、指で払う。氷が、細かく落ちた。
テアは、外套の留め具に、指がかからなかった。一度、滑る。もう一度。留め具は、外れない。反対の手を添えて、ようやく外した。
それを、体を震わせながら、私は見た。テアは、見られたことに気づいて、少し背を向けて隠そうとした。
暖炉に、火が入っていた。濡れたものを、火のそばへ広げる。手袋。外套の裾。箒の穂。
次に運ぶ鞄を、確かめた。中継局の風標は、まだ灯っている。次の便も、まだ止められてはいない。
グレタが、鞄を、肩へ掛け直した。留め具を、閉める。まだ、進むつもりなのだろう。
テアも、箒を取った。留め具を、締めようとする。指が、滑った。一度。もう一度。締まらない。
テアは、反対の手を添えて、締めた。その表情には覚悟のようなものが滲んで見えた。
誰も、何も言わなかった。
その中継局に、彼がいた。冬の運行を、見て、回っていた。
彼は、氷の張った箒を見た。テアが、反対の手で留め具を締め直すのにも、目をやった。
グレタが、外へ出ようとしたのを、彼が、その前に立って、進路をふさいだ。
「ここまで、だ」
グレタが、止まった。
「まだ、飛べます」
「行かせることは、できない。鞄の中身をこちらへ」
同じようなことを、もう一度、言った。危ないとも、無理だとも、言わない。
グレタは、鞄の紐を、握ったままだった。
「これ、今日が期限のものが、入っています。少し遅れていますが、今出れば十分間に合います!」
彼が、手を差し出した。
グレタは、鞄を渡さなかった。しばらく、握ったまま、動かない。
ソフィは、そのあいだ、黙っていた。
グレタが鞄を握って食い下がるのを、見ている。それから、口を開いた。
「……私も、まだ」
そこで、止まった。
誰も、その先を、促さない。彼の瞳を見れば、理解できる。
四人は、背の鞄から、次の区間の分を出した。卓に、置く。
テアは、封を、指で確かめてから置いた。指先が、封蝋の縁を、二度、滑った。
ソフィは、一通だけ、角を揃えた。ほかより、丁寧に。束の上へ、そっと載せた。
グレタは、いちばん上の一通を、最後まで見ていた。封に、期限の印がある。それも、置いた。
私は、グレタを見てから、自分の分を、いちばん最後に置いた。
誰かが、中継局の係へ訊いた。
「……明日の便には」
「天候が、戻れば」
係も、それ以上は言わなかった。天候が回復するかは、誰にも分からない。
レオンハルトは、帰りの分の灯石だけを、四人へ渡した。
四人は、来た道を、戻った。
グレタが、先頭へ出た。いつもより、速い。腹を立てると、少し速くなる。みんな、それを知っている。
ソフィは、その後ろについた。
私は、ずっと、グレタを目で追っていた。往きで沈んだ箒だ。今は、乱れていない。
テアは、締めた手で、箒を握っていた。締まりの浅いところを、庇うように。
途中で、少し休憩をはさんだ。
地面では、ほとんど、だれも口を開かなかった。
テアが、凍って固くなったパンを、膝で割った。半分を、私へ渡す。
水筒の口が、凍りついて開かない。それを手のひらで包んで、しばらく持つ。寒いのは、大嫌いだ。
グレタは、座らなかった。立ったまま、静かに一人、空を見ていた。
ソフィが、肩へ、手をやった。物足りなさが、そうさせたのだろうか。
所属の局へ、四人とも帰った。
予定より、早い。
局の者が、四人を見た。
「随分、早いな」
誰も、すぐには答えない。
グレタが、言った。
「中継局で、止められました」
「誰に」
訊かれて、初めて、名前を出した。
「監察官の、レオンハルトさん」
濡れた外套を、掛けにいく。この時刻に四人分は、掛ける場所が足りなかった。テアが、一枚を、椅子の背へ広げた。
グレタが、空の鞄を、いつも置く棚の前で、一度、止まった。
届けていれば、受け取りの印を挟んで返すところだ。今日は、挟むものがない。
箒を、片づけていると、夕食当番が、奥から顔を出した。
「四人分、作っておいて正解だったね」
まだ、温かかった。
その晩は、だれも口を開かず、それでも一緒にご飯を食べた。翌朝も、通常通り、配達へ出た。
何日か経って、聞いた。
あの先の区間の風標が、あの日のうちに、止まっていたらしい、と。
グレタは、何も言わなかった。
ソフィも、何も言わなかった。
それから、二、三か月が経った。
紙を前にして、四人が、少しずつ、あの日の話を始めた。
ソフィが言った。
「……止められた時、安心したんだ、私」
あの日、言いかけて、やめた。まだ飛べる、とは、言えなかった。
グレタが、顔を上げた。
「そう、だったの」
うすうす、分かっていただろうに。だから、私たちは余り口を開けずにいたのだから。
そのグレタが、言った。
「それでも、届けなきゃいけないものだってあるじゃない」
「分かってる、けど」
私は短く受け止める。けど、の先がうまく、まとめられない。
「けど、グレタ、途中で……」
グレタは、それには、何も言わなかった。
テアが、自分の手を、また見た。
「指、暖炉で温めたら動くようになった。聞き取りのとき、言わなかったけど」
四人が、紙を見た。
テアが、新しい紙を一枚、抜いた。インク壺を、卓の真ん中へ寄せる。
グレタが、筆を取った。
ひと息に、少し強い言葉を書いた。
テアが、その一行を、指で示した。
「これ、本当に、そうだった?」
グレタが、自分の書いた行を、読み直した。消した。
代わりに、あの日、自分たちが見たことを書いた。中継局へ降りたとき、箒に氷が張っていたこと。暖炉の前で、指が戻るまで、少しかかったこと。
仲間の箒が一度沈んで、それでも上がってきたことは、後ろから見ていた自分が書き足した。
グレタが、その行を見た。
「それ、書かないでよ」
私は首を横に振る。絶対に、これだけは譲ってはいけないと思った。
グレタは、その行へ、手を伸ばしかけて、やめた。そのまま、残した。
まだ行ける、と自分が言ったことも、グレタは消さなかった。
ソフィが、その一行を、しばらく見ていた。何も、言わなかった。
あとで風標が止まったと知ったことを、レオンハルトが把握していたのかはわからない。。
清書が、終わった。
四人が、順に、名前を書いた。筆跡が、違う。
戻ると決まって安心した、と言ったソフィも。最後まで、行けると言ったグレタも。同じ紙に、名前が、並んだ。
誰かが、封をした。
それで、終わりだった。
封書は、通常の便へ預けた。ほかの郵便と、同じ袋へ入る。
そのあと、グレタは、次の便へ出ていった。テアは、仕分けへ戻った。ソフィは、冷めた茶を飲んだ。
私は、受付の脇の箒から、まだ溶けきらない雪を、払った。
私たちの一日は、続いていく。
その、続いていく一日から一通だけが、彼のもとへ飛び立っていく。




