いつか、きっと
室内へ戻った。
借りていた寝台を整える。
毛布は、やはり元の折り目には戻らない。畳んで、伸ばして、もう一度畳む。それでも合わない。
ニルスが横から見ていた。
「それ、逆」
「寝るぶんには、問題ありませんでしたが……」
「そういう話じゃないだんだよ! ああ、もう! もう、いい。それで、いい」
「……ですが」
そこまで言われてしまってはなんだか悪いことをしてしまったように思う。
「次に使う奴も、そこまで見ないだろうしな……」
「そういう問題でしょうか」
「どの口が言うんだよ……」
ニルスはあきれながら、深いため息をついた。
彼は、それでも、次に使う奴、と言った。
さっきとは、少し違うように思う。
何も言わず、毛布を置いた。
鞄を閉じる。
いつも観測針を入れていた場所が、空いている。
振り返れば、針は鐘の道具の棚にある。油布。予備の紐。工具。その隣に、観測針。
ニルスがその棚を、あごで示した。
「これ、使ったあと、どうすればいいんだ?」
「留め具を戻してください」
「ああ、こうか」
「問題は」
「ああ、大丈夫そうだ」
外套を着る。
着ているあいだも、ニルスは鐘のことをしていた。予備の紐を切って、さっき見つけた縄の毛羽立ちを直している。
「お仕事が、早いようですね」
「気づいちゃったからな、放っておくの気持ち悪いんだよ」
「次は、いつになるんでしょう」
「次がいつか分からないから、今やっといたほうがいいだろ」
指に、紐が巻いてある。爪の脇に、油。朝、縄で擦れたところには、軟膏。それでも、縄を直していた。
借りていた器を、卓へ戻そうとした。置く場所が分からず、手に持ったままでいると、ニルスが黙って受け取り、棚の端へ伏せた。そこだったらしい。
外套の留め具に、塩が噛んでいた。一度では閉まらない。指で塩を落としてから、掛け直す。手袋は、まだ乾ききっていない。
外へ出て、箒を出した。昨日置いた場所に、うっすら雪が積もっている。柄を立てて、払った。
ニルスは、切った紐と観測針を持ったまま出てきた。
泊まった部屋の戸は開いたままだ。畳み方を間違えた毛布が見える。
戸の外には、新しい風標が点いていた。
「上、まだ荒れてそうだな」
早速使ってみたくなった、といったところでしょうか。
「ええ、そのようですね」
本日の風路は、どうやら、少しだけご機嫌ななめのようだ。
「じゃあな」
「はい」
箒に跨った。
柄を上げると、下からニルスが手を上げた。
クラリスも片手を上げようとして――やめた。両手で柄を握る。昨日、子どもへ手を振って横風に流された。二度はやらない。
「ホント、薄情な奴だな」
聞こえなかったことにした。たいへん便利である。
高度が上がってから、一度だけ下を見た。
ニルスはもう見送りを終えて、塔へ戻っていく。開いた戸の向こうに、油布の棚が一瞬だけ見えた。
海の上に、新しい風標の灯があった。
昨日は灯のなかった風標が、今日は海の上へ一本の道を伸ばしている。その脇を飛んだ。
下に漁村が見えた。
塩をまいていた女が、今日も魚に塩を振っている。ただ、手元の魚は昨日より少ない。桶の水に、薄い氷が張っていた。
昨日、子どもが追っていた鳥が、今日は屋根の端にとまっている。干した魚を狙っているのだ。追う者が、本日はいない。
低い家々の煙が、海風に押されて、屋根に沿って流れる。まっすぐ立つ煙はない。
干し網は、場所が変わっていた。
女はこちらを見なかった。忙しいのだろう。クラリスも止まらなかった。
谷へ入る前に、風路が少し崩れた。
予定していた高さより、横風が強い。飛べない風ではない。だが、飛ばないほうがいい風だ。
高度を落として、岩陰へ降りた。
箒を横へ寝かせる。手袋についた塩が、乾いて白くなっていた。指でこすると、粉になって落ちる。穂先にも、白いものが残っている。
岩へ背を預けると、海に向いた面のほうが冷たい。片耳の奥に、まだ鐘の音が籠もっている。もう片方は、風の音だけだ。
足もとの小石を、一つ拾った。意味はない。少しして、捨てた。
飛べる風が来た。一度、行けると思って立った。二歩で、やめた。すぐ落ちる風だ。座り直す。
そのあとも、何度か来た。だが、短い。乗らない。
十分に続く風になってから、立った。
また飛べるようになってから、認可路の中継所へ降りた。
壁際に、濡れた箒が数本、立てかけてある。便札を束ねる紐が、壁から下がっている。
別の郵便屋が一人、先に来ていた。濡れた外套を脱ぎ、靴の縁を叩いて雪を落としている。便札を一本くわえたまま、荷紐を結び直していた。こちらを見て、軽く顎を引く。それだけだ。
暖炉には火が入っていた。外套を脱ぐほどではない。手袋だけ外して、指先を温めた。
係の者が、伝言箱から札を一束、抜いていく。別の郵便屋は、荷紐を結び終えて、先に出ていった。便は、絶えず動いている。
指が温まると、また外へ出た。
谷へ入ると、塩の匂いが薄くなった。湿った雪が、乾いた雪に変わる。行きの逆だ。
やがて、風待ち郵便局の屋根が見えた。煙突から煙が上がっている。火を消さずに待っていた。
着陸場へ降りた。扉が開いた。
「おかえりなさい」
「ただいま、戻りました」
ノエルは、届きましたか、とは訊かなかった。外套の肩を見て、眉を寄せる。
「雪……、すごいですね」
「白いもの、という意味では同じかもしれませんね」
外套を叩いて纏わりついた塩と雪を払う。
「わー! わー! ちゃんと拭かないとだめですって!」
布を渡された。外套の塩と雪を、改めて払う。局内の床を濡らすと、あとで拭いてくれるのだろうが。
外套を脱ぐと、ノエルが濡れた布を別の桶へ放った。塩を含んだ布は、ほかの洗い物と分けるらしい。
箒の穂先にも塩がついていた。暖炉の近くへ立てかけようとすると、
「入り口横に!」
と、動かされた。穂先が乾きすぎると割れの原因にもなる。
箒を置きなおしたノエルが、何か言った。うまく聞き取れなかった。
「もう一度」
「耳、まだおかしいんですか」
「少し」
「大丈夫、なんです?」
「逆風を飛んだあとは、いつもこんな感じになりますが……」
そこまで続けて、ふと、あの少年が鳴らした鐘の音色を思い出す。
「たいへん、大きい音も聞かされましたから」
ノエルは、少し考えてから、頷いた。たぶん、伝わっていない。
茶が出てきた。今日のは、温かい。
一口飲んで、何も言わなかった。茶器を置く音が、片側だけ、妙に響く。まだ耳が戻っていない。
ノエルは、こちらにかまわず、濡れた布を絞っていた。帰ってきたからといって、手を止めはしない。もう一口飲む。
量は、いつもどおり少なめだった。飲みきらないことを、この子は知っている。
荷を片づける。
鞄から灯石を出した。帰りの分だ、とノエルが持たせたものだ。使わずに済んだ。
「お返しします」
「はい」
ノエルは受け取って、棚へ戻した。それから、鞄の中をもう一度見て、手を止めた。
「クラリスさん、観測針は?」
「置いてきました」
「……忘れ物、でしょうか?」
「いいえ」
「では」
「彼のほうが、必要だと思いましたので」
「……伝える気、ないですよね?」
ノエルが、鼻を、少し動かした。
「まぁ、いつもの気まぐれなんでしょうけど、説明くらいちゃんとしてください!」
それ以上は訊かれなかった。
受付帳の、帰着見込みの隣へ、帰着の時刻を書いた。
書き終えて、入口の鐘を見た。
まだ、凍ったままだった。
ノエルが先に手を伸ばした。
「わたしが、やりますよ」
朝と同じだ。
凍りを割る。かけらが床へ落ちて、ノエルが布で拾った。金具を外す。水気を拭いて、蝶番へ少しだけ油を差した。
鐘楼のあの巨大な鐘とは違う。手のひらに収まるほどの、小さな入口の鐘だ。
金具を掛け直す。試しに扉を開けた。音が、鈍い。掛かりが、まだ浅い。
金具を少し戻して、もう一度。閉めて、開けた。
小さな鐘が、ちりん、と鳴った。




