毛羽立つ綱
冷えた茶を、飲み終えた。
外へ出て、帰りの風を見た。
昨日よりは、穏やかだ。だが、海面近くの流れが、まだ定まらない。上は帰れても、降りるところで、持っていかれる。昼までは、待つ。
配達は、済んだ。鐘も、鳴った。それでも、まだ、帰る時刻ではない。
することが、なかった。
ニルスは、普通に、暮らしへ戻っていた。昨日の魚の板を洗い、薪を取り込み、雨水桶の氷を除く。仕事の続きではない。ただの、朝のあとだ。
クラリスも、何か手伝おうとした。
魚は、無理だ。薪なら、運べる。
抱えて運ぼうとして、止められた。
「それ、そっちじゃない」
「こちらでは?」
「濡れてるのと、乾いてるの、混ぜるな。乾いてるのが、湿る」
たいへん、細かい。
だが、乾いた薪が湿れば、夜に困るのは、この男だ。もっともだった。
言われたとおり、乾いた薪を、乾いたほうへ積んだ。二度目だからか、これは、すぐに分かった。
海の上を、郵便魔女が一人、通った。
クラリスが、先に気づいた。
今朝の、石を運んだ魔女ではない。荷は、負っていない。新しい風路の、確かめの便だろう。
今朝、旧風路を通った位置では、なかった。もっと高く、もっと安定したところを、まっすぐ、抜けていく。
鐘は、鳴っていない。ニルスも、何もしていない。それでも、海峡を、渡っていった。
ニルスが、見上げた。
「速いな」
「ええ」
「揺れてないな」
「こちらから見る限りは」
ニルスは、素直に、感心していた。
「こっちより、いいな」
「安全だと思います」
「なら、その方がいい」
本当に、そう思っている声だった。
通った魔女は、そのまま、遠ざかった。
さっきの旧路なら、この鐘楼が、経路の目印だった。今日は、遠くを通る。こちらを、見ない。手も、振らない。
用が、ないからだ。
ニルスは、しばらく、見送っていた。
「あれ、定期便も、あっちになるのか」
「おそらくは」
「そっか」
まず、それだけだった。
ニルスが、部屋のほうへ、目をやった。切りかけのパンが、まだ机にある。
「じゃあ、次から、パン、下まで取りに行くのかな」
鐘楼から、近くの漁村へ降りれば、受け取れる。
「配達先が変われば、そうなるかもしれません」
「面倒だな」
まずは、面倒、だった。
新聞も。替えの紐も。塩も。点検の者も、要るときだけになる。部屋のあちこちにあった、この前の便のもの。あれが、次からは、ここへは来ないかもしれない。
「まあ、歩けばいいけど」
ニルスは、そう流した。実際、それで済む。
少し、間が空いた。
ニルスが、何でもないように、言った。
「じゃあ、町の話も、聞けなくなるな」
昨夜、この男は、鐘の話より、赤い屋根の数を訊いた。広場の木と、冬祭りを訊いた。
「別に、下へ行けば、聞けるけどな」
強がりでは、なかった。行こうと思えば、行ける。
ただ、これまでは、誰かが、ここへ来た。その違いは、まだ、言葉になっていない。
クラリスは、新しい風標を見た。ニルスも、見た。
「あれがちゃんと動けば、この鐘、ほとんど要らなくなるんだろ」
ようやく、本人が、口にした。
否定は、しなかった。
「通常の運用では、そうなると思います」
「そっか」
また、それだけだった。
ニルスが、鐘を、見上げた。だが、寂しい、とも、仕事がなくなる、とも、言わなかった。
「楽に、なるな」
毎日の点検。鳴らすたびに、擦れる手。それが、減る。
「手も、ああならなくなりますね」
ニルスが、軟膏を塗った手を、見た。
「それは、助かる」
本当に、助かる、という手だった。
ニルスが、鐘ではなく、寝台のほうを見た。点検の者が使う、長く畳まれたままだった寝台だ。
「鐘が要らなくなるのは、別にいいんだよ」
言葉が、少し、変わった。
クラリスは、待った。
「こっちのほうが、安全なんだろ」
「はい」
「速いし」
「はい」
「じゃあ、使わない理由、ないだろ」
「はい」
ニルスは、新しい風路を、否定してほしいわけではなかった。
しばらくして、
「ただ」
そこで、止まった。
クラリスは、続きを、埋めなかった。分からないものは、こちらで埋めない。埋めた分は、たいてい、間違っている。
ニルスが、自分で言うまで、待った。
少し、時間が空いてから、ニルスが言った。
「誰も、来なくなるんだな」
クラリスは、そんなことはありません、とは、言えなかった。
実際、便も、点検も、減る。
「そうなるかも、しれません」
「そこ、否定するとこじゃ、ないのか」
「確約できないことは、申し上げられません」
「君、本当に、そういうとこだな」
ニルスは、鐘へ背を向けて、外の石段に、腰を下ろした。
「安全になるなら、それでいいんだよ」
もう一度、言った。
「この鐘が、いらなくなるのも、別にいい」
それから、
「でも、誰も来なくなるのは、別の話だろ」
クラリスは、何も、言わなかった。
新しい道は便利だ、とも、町へ行けば人はいる、とも、別の仕事がある、とも。どれも、この人には、意味がない。言えば、こちらが、楽になるだけだ。だから、言わなかった。
「もう、郵便魔女も、来ないか」
「分かりません」
「分からないばっかりだな」
「次に、ここへ届けるものがあれば、来ます」
「次が、あると思うか」
「分かりません」
「やっぱり、約束になってないな」
「はい。約束は、していません」
ニルスが、少し、笑った。
クラリスは、鞄へ手をやった。
今朝、ニルスが、便利だ、と言った観測針だ。
記念に、残すつもりでは、なかった。実際のところを、考えた。
鐘は、通常の運用から外れる。だから、次にこれを鳴らすとしたら、急ぎのときか、旧路を使うときだ。周りに、助けの少ないときだ。そのとき、鳴らす本人には、自分の作った風路が、どこへずれたか、見る手立てが、ない。
観測針を、取り出した。
「こちらを」
「何?」
「置いていきます」
「いや、それ、君のだろ」
「わたしには、風路が見えます」
「……見えるのか」
「はい」
「じゃあ、それ、要らないのか」
「わたしには、なくても困りません」
ニルスが、少し、嫌そうな顔をした。
「ですが、あなたは、見えません」
「二回言うな」
「事実です」
「悪かったな」
「ですから、これは、ここにあったほうが、いい」
ニルスが、黙った。
クラリスには、海の上を走る風路が、見える。昨日も、今朝も、針より先に、道そのものを見ていた。
ニルスには、それが見えない。鐘を鳴らし、風路を作れても、その道がどこへ寄ったかは、誰かに訊くしかない。今朝も、こっちからじゃ分からない、と言って、こちらへ訊いた。
なら、置く場所は、こちらではない。
記念では、ない。道具を、いちばん要るところへ、置くだけだ。
ニルスが、針を手に取った。
昨日、縄の扱いには、迷わなかった手だ。観測針では、少し、ぎこちない。今度は、逆だった。
「ここを、外します」
「これ?」
「そちらは、筒です」
「同じに、見える」
「見えません」
「……昨日の布と、同じだろ」
「違います」
ニルスが、笑った。それから、留め具を、もう一度、間違えた。針が、筒の中で、鳴る。
「貸してください」
「今、覚えてるんだけど」
「壊される前に、です」
「そんな、簡単に壊れるのか」
「壊さないで、ください」
クラリスは、一度、取り上げた。留め具を外して、針を落ち着かせてから、また、手のひらへ戻す。
「ですが、次に鐘を鳴らすとき、これは、役に立ちます」
「これ、返すときは」
「返さなくて、けっこうです。ここに、要るものですので」
「どこ置けばいい」
「湿気の、少ないところへ」
「ここ、海なんだけど」
「では、なるべく、少ないところへ」
ニルスは、鐘の手入れ道具の棚へ、持っていった。油布と、予備の紐の、となりだ。
鐘の道具が、一つ、増えた。
外へ出た。
風が、帰れる風へ、変わってきていた。
クラリスが、空を見る。
「そろそろか」
「はい」
ニルスは、新しい風標を見た。次に、古い鐘を見た。それから、観測針を置いた棚のほうを、一度だけ、見た。
何も、言わなかった。
「昼、過ぎるな」
「ノエルには、そのように、伝えてあります」
「待ってる奴、いるのか」
「はい」
ニルスが、言った。
「じゃあ、帰ったほうが、いいな」
「ええ、約束、しましたから」




