↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/64

毛羽立つ綱

 冷えた茶を、飲み終えた。


 外へ出て、帰りの風を見た。


 昨日よりは、穏やかだ。だが、海面近くの流れが、まだ定まらない。上は帰れても、降りるところで、持っていかれる。昼までは、待つ。


 配達は、済んだ。鐘も、鳴った。それでも、まだ、帰る時刻ではない。


 することが、なかった。


 ニルスは、普通に、暮らしへ戻っていた。昨日の魚の板を洗い、薪を取り込み、雨水桶の氷を除く。仕事の続きではない。ただの、朝のあとだ。


 クラリスも、何か手伝おうとした。


 魚は、無理だ。薪なら、運べる。


 抱えて運ぼうとして、止められた。


「それ、そっちじゃない」


「こちらでは?」


「濡れてるのと、乾いてるの、混ぜるな。乾いてるのが、湿る」


 たいへん、細かい。


 だが、乾いた薪が湿れば、夜に困るのは、この男だ。もっともだった。


 言われたとおり、乾いた薪を、乾いたほうへ積んだ。二度目だからか、これは、すぐに分かった。


 海の上を、郵便魔女が一人、通った。


 クラリスが、先に気づいた。


 今朝の、石を運んだ魔女ではない。荷は、負っていない。新しい風路の、確かめの便だろう。


 今朝、旧風路を通った位置では、なかった。もっと高く、もっと安定したところを、まっすぐ、抜けていく。


 鐘は、鳴っていない。ニルスも、何もしていない。それでも、海峡を、渡っていった。


 ニルスが、見上げた。


「速いな」


「ええ」


「揺れてないな」


「こちらから見る限りは」


 ニルスは、素直に、感心していた。


「こっちより、いいな」


「安全だと思います」


「なら、その方がいい」


 本当に、そう思っている声だった。


 通った魔女は、そのまま、遠ざかった。


 さっきの旧路なら、この鐘楼が、経路の目印だった。今日は、遠くを通る。こちらを、見ない。手も、振らない。


 用が、ないからだ。


 ニルスは、しばらく、見送っていた。


「あれ、定期便も、あっちになるのか」


「おそらくは」


「そっか」


 まず、それだけだった。


 ニルスが、部屋のほうへ、目をやった。切りかけのパンが、まだ机にある。


「じゃあ、次から、パン、下まで取りに行くのかな」


 鐘楼から、近くの漁村へ降りれば、受け取れる。


「配達先が変われば、そうなるかもしれません」


「面倒だな」


 まずは、面倒、だった。


 新聞も。替えの紐も。塩も。点検の者も、要るときだけになる。部屋のあちこちにあった、この前の便のもの。あれが、次からは、ここへは来ないかもしれない。


「まあ、歩けばいいけど」


 ニルスは、そう流した。実際、それで済む。


 少し、間が空いた。


 ニルスが、何でもないように、言った。


「じゃあ、町の話も、聞けなくなるな」


 昨夜、この男は、鐘の話より、赤い屋根の数を訊いた。広場の木と、冬祭りを訊いた。


「別に、下へ行けば、聞けるけどな」


 強がりでは、なかった。行こうと思えば、行ける。


 ただ、これまでは、誰かが、ここへ来た。その違いは、まだ、言葉になっていない。


 クラリスは、新しい風標を見た。ニルスも、見た。


「あれがちゃんと動けば、この鐘、ほとんど要らなくなるんだろ」


 ようやく、本人が、口にした。


 否定は、しなかった。


「通常の運用では、そうなると思います」


「そっか」


 また、それだけだった。


 ニルスが、鐘を、見上げた。だが、寂しい、とも、仕事がなくなる、とも、言わなかった。


「楽に、なるな」


 毎日の点検。鳴らすたびに、擦れる手。それが、減る。


「手も、ああならなくなりますね」


 ニルスが、軟膏を塗った手を、見た。


「それは、助かる」


 本当に、助かる、という手だった。


 ニルスが、鐘ではなく、寝台のほうを見た。点検の者が使う、長く畳まれたままだった寝台だ。


「鐘が要らなくなるのは、別にいいんだよ」


 言葉が、少し、変わった。


 クラリスは、待った。


「こっちのほうが、安全なんだろ」


「はい」


「速いし」


「はい」


「じゃあ、使わない理由、ないだろ」


「はい」


 ニルスは、新しい風路を、否定してほしいわけではなかった。


 しばらくして、


「ただ」


 そこで、止まった。


 クラリスは、続きを、埋めなかった。分からないものは、こちらで埋めない。埋めた分は、たいてい、間違っている。


 ニルスが、自分で言うまで、待った。


 少し、時間が空いてから、ニルスが言った。


「誰も、来なくなるんだな」


 クラリスは、そんなことはありません、とは、言えなかった。


 実際、便も、点検も、減る。


「そうなるかも、しれません」


「そこ、否定するとこじゃ、ないのか」


「確約できないことは、申し上げられません」


「君、本当に、そういうとこだな」


 ニルスは、鐘へ背を向けて、外の石段に、腰を下ろした。


「安全になるなら、それでいいんだよ」


 もう一度、言った。


「この鐘が、いらなくなるのも、別にいい」


 それから、


「でも、誰も来なくなるのは、別の話だろ」


 クラリスは、何も、言わなかった。


 新しい道は便利だ、とも、町へ行けば人はいる、とも、別の仕事がある、とも。どれも、この人には、意味がない。言えば、こちらが、楽になるだけだ。だから、言わなかった。


「もう、郵便魔女も、来ないか」


「分かりません」


「分からないばっかりだな」


「次に、ここへ届けるものがあれば、来ます」


「次が、あると思うか」


「分かりません」


「やっぱり、約束になってないな」


「はい。約束は、していません」


 ニルスが、少し、笑った。


 クラリスは、鞄へ手をやった。


 今朝、ニルスが、便利だ、と言った観測針だ。


 記念に、残すつもりでは、なかった。実際のところを、考えた。


 鐘は、通常の運用から外れる。だから、次にこれを鳴らすとしたら、急ぎのときか、旧路を使うときだ。周りに、助けの少ないときだ。そのとき、鳴らす本人には、自分の作った風路が、どこへずれたか、見る手立てが、ない。


 観測針を、取り出した。


「こちらを」


「何?」


「置いていきます」


「いや、それ、君のだろ」


「わたしには、風路が見えます」


「……見えるのか」


「はい」


「じゃあ、それ、要らないのか」


「わたしには、なくても困りません」


 ニルスが、少し、嫌そうな顔をした。


「ですが、あなたは、見えません」


「二回言うな」


「事実です」


「悪かったな」


「ですから、これは、ここにあったほうが、いい」


 ニルスが、黙った。


 クラリスには、海の上を走る風路が、見える。昨日も、今朝も、針より先に、道そのものを見ていた。


 ニルスには、それが見えない。鐘を鳴らし、風路を作れても、その道がどこへ寄ったかは、誰かに訊くしかない。今朝も、こっちからじゃ分からない、と言って、こちらへ訊いた。


 なら、置く場所は、こちらではない。


 記念では、ない。道具を、いちばん要るところへ、置くだけだ。


 ニルスが、針を手に取った。


 昨日、縄の扱いには、迷わなかった手だ。観測針では、少し、ぎこちない。今度は、逆だった。


「ここを、外します」


「これ?」


「そちらは、筒です」


「同じに、見える」


「見えません」


「……昨日の布と、同じだろ」


「違います」


 ニルスが、笑った。それから、留め具を、もう一度、間違えた。針が、筒の中で、鳴る。


「貸してください」


「今、覚えてるんだけど」


「壊される前に、です」


「そんな、簡単に壊れるのか」


「壊さないで、ください」


 クラリスは、一度、取り上げた。留め具を外して、針を落ち着かせてから、また、手のひらへ戻す。


「ですが、次に鐘を鳴らすとき、これは、役に立ちます」


「これ、返すときは」


「返さなくて、けっこうです。ここに、要るものですので」


「どこ置けばいい」


「湿気の、少ないところへ」


「ここ、海なんだけど」


「では、なるべく、少ないところへ」


 ニルスは、鐘の手入れ道具の棚へ、持っていった。油布と、予備の紐の、となりだ。


 鐘の道具が、一つ、増えた。


 外へ出た。


 風が、帰れる風へ、変わってきていた。


 クラリスが、空を見る。


「そろそろか」


「はい」


 ニルスは、新しい風標を見た。次に、古い鐘を見た。それから、観測針を置いた棚のほうを、一度だけ、見た。


 何も、言わなかった。


「昼、過ぎるな」


「ノエルには、そのように、伝えてあります」


「待ってる奴、いるのか」


「はい」


 ニルスが、言った。


「じゃあ、帰ったほうが、いいな」


「ええ、約束、しましたから」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。