明日を創る音色
目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは、鐘ではなかった。
階下の音だ。薪を割る音。鍋の蓋を戻す音。水を汲む音。
鐘楼の朝は、鐘から始まると思っていた。始まるのは、暮らしのほうが先だった。
昨日借りた毛布を、畳んだ。
畳んであったときの折り目には、戻らない。少し直す。もう一度。やはり、同じにはならない。
諦めた。
たいへん、難しい。
下へ降りると、ニルスは、もう起きていた。寝癖が、片側だけ、はねている。直す気は、なさそうだった。
朝食は、昨日の魚の残りだった。器は、昨日と同じ、縁の欠けたものだ。欠けているのは、ニルスが口をつけるほう。欠けていないほうを、客のこちらへ回してある。
パンは、端が残っていた。少し硬い。ニルスは、それを汁へ浸して、崩れる手前で、口へ運ぶ。沈める時間が、決まっている手つきだった。
大きな仕事の朝に、大きな朝食は、出てこない。昨日の魚と、パンの端と、欠けた器。昨日の朝も、こうだったのだろう。明日の朝も、たぶん、こうだ。
ニルスが、欠伸をした。
「眠そうですね」
「早いんだよ」
「昨日、ご自身で、早いと」
「分かってても、眠いものは眠い」
たいへん、理屈が通っていない。
だが、眠気とは、だいたい、そういうものなのかもしれない。
食べ終えると、二人で、塔へ上がった。
空は、冷えていた。昨日荒れていた風は、収まっている。海面は、まだ暗い。遠くに、東岸が見えた。人までは、見えない。
ニルスは、鐘を確かめた。縄。金具。鐘の縁。凍り。昨日と、同じ順番だ。
ただし今朝は、確かめるだけではない。本当に、鳴らす。
ニルスが、手袋を外した。
「素手なのですか」
「縄が滑る」
それだけだった。手が冷えるとか、決まりだとか、続きはない。
ニルスの指が、すぐに赤くなった。昨日、魚を洗った手と、同じ手だ。
クラリスは、鞄から、観測針を出した。
布の内から、針の筒を取り出す。留め具を、指先で外した。外すと、針が自由になる。風の筋があれば、触れずとも、そちらへ向く。
目を落とさなくても、指が、順番を覚えていた。昨日、この同じ手が、鐘の金具に触ろうとして止められ、油と塩の布を取り違えた。二度、邪魔になった手だ。それが今朝は、迷わない。道具が、違うだけだ。
ニルスが、気づいた。
「それ、何だ?」
「観測針です」
「何を見る?」
「風路を」
「へえ」
それで、終わった。由来も、仕組みも、訊かれない。
ニルスは、縄を、見ずに持ち直した。手だけで、握る位置を決めている。金具の一つを、目ではなく、指の腹で確かめた。
こちらは針、あちらは縄。どちらの手も、今朝は、迷っていない。
時刻が、近づいた。
さっきまで、ニルスは軽口を叩いていた。それが、止まった。
縄を、持ち直す。海を、見る。耳を、澄ませる。
クラリスは、観測針を見た。針は、まだ落ち着かない。細かく揺れて、どこも指さない。指す先が、まだ、ないからだ。
海の風の音に、別の音が、混じった。
最初は、本当に小さい。風と、聞き分けられないほどだ。
「来た」
ニルスが、言った。
縄を、引いた。
音より先に、足の裏へ来た。
石の床が、震える。縄を引くニルスの肩が、沈み、その反動が、腕へ返っていくのが見えた。頭の上で、鐘が、重く動く。
その次に、音が、落ちてきた。
上から、細かな埃と、氷のかけらが、こぼれてくる。古い塔が、鳴るたびに、少しずつ、自分を落とす。
近すぎて、顔を、しかめた。耳の奥まで、来る。
一度。
鳴り終える前に、次へ、身構えてしまう。まだ、だ。間を、置く。
二度。
ニルスは、決まった間隔で、鳴らしていく。急がない。速すぎず、遅すぎず。縄を引き、戻り、また引く。同じ深さで、肩が沈む。東の音へ、合わせている。
鳴るたびに、観測針の震え方が、変わった。
東の鐘と、西の鐘が、噛み合う。噛み合ったところで、針が、一方向へ揃いはじめた。
海の上が、変わった。
海面を走っていた細かな波が、一筋だけ、向きを揃える。低い霧が、細長く、流れはじめる。雪が、そこだけ、同じ方向へ飛ぶ。
観測針が、その線を、指した。
道が、見えた。
ニルスが、鐘を鳴らしながら、訊いた。
「出たか?」
「はい」
「ちゃんと?」
「少し、西へ寄っています」
「まずい、のか?」
「いいえ。通れます」
ニルスは、海の上の風路を、こちらほど細かくは読めない。鳴らしている本人が、鳴らした結果を、こちらへ訊く。
ニルスが、一度、観測針へ目をやった。
それだけだった。
東岸のほうに、小さな人影が見えた。
昨日、局員が言っていた。石を運ぶ者が、もう東岸で待っている、と。その者だ。昨日から待っていて、今、ようやく飛ぶ。
背に、細長い箱を負っている。大きくはない。だが、堅い。中の石を、揺らさないための箱だ。
人影が、風路へ入った。
クラリスは、観測針を追った。針が、一度、揺れた。
輸送の魔女が、高度を、少し変える。
「どうした?」
「風が、少し落ちました」
ニルスは、海を見なかった。東の音を、聞いている。それから、縄を引く間を、わずかに縮めた。数えているのではない。長く聞いてきた間合いを、指のほうが、ずらしている。
鐘のわきで、金具が一つ、動いた。昨日、こちらが締めようとして、止められた金具だ。動くように、してある、と言われた。
鐘の間を詰めると、その金具が動き、海の上の線が、また、揃いはじめる。
あれは、このために動くのか。
鐘守は、時刻に鐘を鳴らすだけの係ではないらしい。東の音と、海の顔を読んで、間合いのほうで、風路を保たせている。
風路が、また、落ち着いた。
「昨日、あの金具を締めなくて、よかったです」
「だから、触るなって言っただろ」
「はい」
「今さら、納得したのか」
「実物を見るほうが、分かりやすいので」
ニルスが、笑った。縄は、握ったままだ。
輸送の魔女が、鐘楼の近くを、通った。
こちらを見て、片手を上げる。
ニルスも、手を上げかけた。だが、片手は、縄にある。一瞬だけ上げて、すぐ、戻した。
クラリスは、手を振らなかった。今は、針を見ている。
輸送の魔女は、新しい風標のほうへ、抜けていった。
鐘の役目は、まだ続く。通り切るまで、鳴らす。
やがて、ニルスが、縄から手を離した。
鐘の揺れが、小さくなる。最後の一音が、海へ、消えた。
ニルスは、自分の手を見た。縄で、赤くなっている。皮の薄いところが、擦れて、白く浮いていた。
「痛そうですね」
「毎回、こうなる」
「手袋を、したほうが」
「滑るって、言っただろ」
昨日から、同じだ。
クラリスは、観測針を、しまおうとした。
「それ、便利だな」
ニルスが、初めて、針のほうへ、興味を見せた。
「便利でしょうか」
「こっちからじゃ、風路がどこまでずれてるか、分からない」
それだけだった。
クラリスは、留め具を掛け、観測針を、鞄へ戻した。
遠くの、新しい風標のあたりで、人影が動いていた。
石が、据えられる。
すぐには、光らなかった。小さな灯が、一度、点いた。消えた。また、点いた。何度か調整されて、ようやく、残った。
ニルスも、見た。こちらも、見た。
新しい塔に、初めて、灯が入った。
「点いたな」
「はい」
ニルスは、縄を、戻した。
新しい灯のほうを、一度だけ、見た。それから、鐘へ、向き直る。
縄の毛羽立ちを、指の腹で探した。ささくれを、一本、より合わせて戻す。鐘の縁の塩を、昨日の布で、塩を落とすほうの布で、拭いた。
さっき、間合いで動かした金具を、二度、確かめる。指で押して、渋くないかを、見た。
「今、見るのですか」
「使ったからな」
擦れて白く浮いた自分の手のことは、後回しだった。
下へ、戻った。
朝は慌ただしかったので、淹れた茶が、冷えていた。
ニルスは、そのまま飲んだ。
「冷えています」
「喉、乾いてるんだから、いいだろ」
「温めれば、よいのでは」
「面倒だ」
鐘は、毎日見る。茶は、温めない。
たいへん、基準が分からない。
帰る支度をする前に、窓から、海を見た。
昨日まで灯っていなかった風標に、灯がある。その手前に、さっき鳴った鐘楼の、影。
ニルスは、その景色を、特別には見ていなかった。ようやく、縄で擦れた手へ、軟膏を塗っている。
「点いています」
「見えてる」
振り返りも、しなかった。
「昼になったら、風、見るんだろ」
「はい」
「まだ早い。茶でも、飲んでろ」
冷えた茶が、もう一杯、注がれた。
温めては、くれなかった。
鐘は、鳴った。石も、届いた。灯も、点いた。
それでも、朝は、まだ終わっていない。




