海の暮らし
男は、封書と、自分の手を、しばらく見比べていた。
それから、雨水桶へ戻った。
さっき、板を流した水だ。魚の血が、薄く回っている。その薄氷を、もう一度、肘で割った。割った下の水で、指を洗う。冷たいらしい。指先が、すぐに赤くなった。
鱗を落としてから、鐘楼の中へ入った。乾いた布で手を拭いて、また出てくる。
クラリスは、待った。
急かさない。汚れた手で受け取りたくない、という手間に、こちらが口を出す筋はない。
男が、手を出した。
「悪い。もう、いい」
「はい」
封書を渡した。
受付の控えへ、受領の時刻だけ書く。署名だの、宣誓だのは、要らない。届いた、という一事が済めば、それでいい。
男は、封を切った。
立ったまま、読みはじめる。
読み終える前に、声が漏れた。
「明日の朝?」
「はい」
もう一度、紙へ目を落とす。
「急だな」
男の目が、紙の一行で止まった。通過するものの欄だ。
「あっちの石か」
視線だけ、海の向こうの新しい塔へやった。毎日、そこにあるものだ。何なのかを、こちらへ訊きはしない。
「最後の一つだそうです」
「へえ」
それだけだった。
クラリスは、封書に書いてあった一行を、思い出した。明朝まで、鐘を鳴らせる状態で待機。
鐘楼を、見上げた。
「鐘は、鳴らせますか」
「鳴るよ」
あっさりと、そう言った。
昨日まで、使う予定のなかった設備だ。
「確認は」
「してる」
「今日も?」
「毎日」
依頼状が来たから、慌てて整えたのではなかった。来る前から、毎日、見ている。
「使わなくても、ですか」
「使わないから壊れていい、って話でもないだろ」
たいへん、まっとうである。
話が済むと、男は、地面の板へ目をやった。
「……あ」
忘れていたらしい。
板の上で、一尾が途中まで開かれ、二尾が、まださばかれずに残っている。
「夕食でしたか」
「今からな」
男は、板を拾い上げた。
「話は、中でいいか。手が冷えた」
鐘楼の戸を、肩で押して開ける。下の角が、石にこすれた。
クラリスも、続いた。
中は、広くなかった。下の階が、そのまま暮らしの場所だ。
炉のわきに、薪が積んであった。外から見えていた、あの薪だ。細く割ってあるのは、火持ちのためではない。少ない薪を、長く保たせるためだ。一本を、二本の細さにして焚く。
クラリスは、外套を掛ける場所を探した。壁の釘に、布が一枚かかっている。手を伸ばすと、男が、こちらより先にどけた。
「そこ、使っていい」
「こちらは?」
「鐘の。乾かしてるだけだ」
油の匂いのする布だった。
男は、魚の続きを始めた。
クラリスは、立ったまま、することがなかった。客として、ただ座って待つのは、少し落ち着かない。
「お手伝いしましょうか」
「魚、さばける?」
「いいえ」
「じゃあ、座っててくれ」
たいへん、明快である。
言われたとおり、椅子に座った。包丁の手つきを、見るともなく見る。
「郵便物なら、扱えます」
「魚は、届かないからな」
軽口は、それで終わった。
男は、豪華なものを作る気は、なさそうだった。いつもの夕食に、魚を一尾足す。鍋の水を、少し増やす。パンを、半分ではなく、もう少し切る。
一人分が、二人分になっただけだ。
鍋を火にかけながら、男が言った。
「そういや、名前は?」
「クラリス・ヴェインです」
「クラリス」
「はい」
「ニルスだ」
それだけだった。名乗り合う、という儀式ではない。一晩、同じ場所にいることになって、そういえば、聞いていなかった。それだけのことだ。
戸の隙間から入る風が、さっきより重くなっていた。外は、もう日が落ちかけている。
ニルスが、窓を見た。
「帰るのか?」
「明朝、風を見てから、戻ります」
「なら、下の寝台、使えよ」
「よろしいのですか」
「点検の奴が泊まる用だ。最近は、誰も使ってない」
「では、お借りします」
夜の海の上を、無理には飛ばない。理由は、言わなかった。言うことでも、なかった。
魚と、汁と、パン。湯気が、狭い部屋にこもった。
ニルスは、鐘の話を、しなかった。
「ローデン、もう雪積もったか」
「朝は、霜でした」
「今年、遅いな」
「こちらは」
「雪より、塩だな。窓が、真っ白になる」
しばらく、食べた。
「町の南に、パン屋あるだろ」
「どちらでしょう」
「赤い屋根の」
「赤い屋根は、三軒あります」
「増えたのか」
「存じません」
赤い屋根が一軒だった頃の町を、知っているらしい。
「広場の、大きい木は、まだあるか」
「あります。冬は、何も付いていませんが」
「そうか」
ニルスは、汁をすすった。
「冬祭りは、まだ広場でやってる?」
「冬祭り」
「知らないのか?」
「配達で通ることは、あります。参加したことは、ありません」
「……君、町に住んでるんだよな?」
「外れです」
「そういう問題か?」
そういう問題ではない、とは、こちらも思う。だが、うまくは言えない。
「じゃあ、何なら知ってるんだ」
「南通りの郵便箱は、冬になると蝶番が固くなります」
「聞いてない」
ニルスが、笑った。
ニルスが、切りかけのパンを見た。
「昨日、来た奴が置いてった」
「毎週、ですか」
「今はな」
「以前は」
「もう少し、来た」
ニルスは、魚を食べた。それだけだった。
昨日の便が置いていったものが、部屋のあちこちにあった。切りかけのパン。机の新聞。塩の袋。壁の釘に、替えの紐が一巻き。届いた日に、まとめて置いていくのだろう。次の便まで、これで足りる分だ。
食べ終えると、ニルスは、食器を水の桶へ浸けた。
片付けるのか、と思ったら、先に、油布を手に取った。
「どちらへ?」
「上」
鐘を、見に行くらしい。依頼状が来たから、ではない。毎晩のことだ。
クラリスも、続いて上がった。
階段は、狭かった。一人が、やっと通れる幅だ。壁の隙間から、風が入る。上へ行くほど、寒くなった。
鐘が、あった。
外から遠く見ていたものが、手の届くところにある。
大きい。表面に、塩が薄くこびりついている。縄は、手の脂で、色が変わっていた。木の部分には、何度も継いだ跡がある。
新しい設備ではない。だが、放ってもいない。
ニルスは、金具を見て、縄を確かめ、縁の凍りを落とし、油を差した。手順を、口では言わない。手のほうが、順番を覚えている。
クラリスは、邪魔にならない場所に立った。
金具の一つが、緩んで見えた。ねじが、少し浮いている。手を伸ばした。
「そこ、触るな」
「緩んで、いるように見えます」
「動くように、してある」
「失礼しました」
「挟むぞ、それ」
たいへん、危ない。
手を、引いた。
ニルスが、少し笑った。
せめて何か手伝おうと、手近な布を取った。鐘の縁の塩を、拭こうとする。
「それは、油だ」
ニルスが、手を止めさせた。
「塩を拭く布と、油を差す布は、別だ」
「……失礼しました」
布は、二枚、並べてある。見た目は、同じだ。見分けは、つかなかった。速達と書留の封を、裏から見分けろと言われたようなものだった。
一通り見終えると、ニルスは、縄を軽く引いた。
鐘は、鳴らさない。中の金具が、小さく動く。金属が触れ合う、ちいさな音が、しただけだ。
ニルスは、上を見た。
「大丈夫」
「鳴らせますか」
「明日は、鳴るよ」
そう言って、すぐに肩をすくめた。
「下、行こう。指、なくなる」
二人で、下へ戻った。
クラリスは、借りた寝台の支度をした。
毛布は、洗ったまま、きちんと畳んであった。広げると、折り目が、まだ残っている。長く、畳まれたままだったらしい。枕だけが、妙に硬い。使う者がいなければ、へたる暇もない。
ニルスは、炉の火が落ちすぎないよう、薪を一本だけ足した。細く割った、あの薪だ。
外で、風が鳴っている。
寝床へ入る前に、ニルスが言った。
「明日、早いからな」
「はい」
「寝坊するなよ」
「善処します」
「そこは、します、でいいだろ」
クラリスは、借りた寝台へ入った。
上の階に、明日鳴る鐘がある。
だが、今夜は、鳴らない。
上の階で、風に、縄が擦れる音がした。
鐘は、鳴らなかった。
明日の朝までは、それで、よかった。




