鐘鳴依頼状
冬の朝は、受付箱が凍る。
ローデンの外れは、谷から吹き下ろす風がまともに当たる。夜のあいだに、蓋と縁が、薄い氷でつながってしまう。
ノエルが、湯を張った器を持って、外へ出ようとした。凍った蓋を、溶かすつもりだ。
クラリスは、先に手袋をはめた。
「わたしが行きます」
湯をかければ、その場は開く。だが、かけた分は、次の朝、余計に厚く凍る。溶かすより、割ったほうがいい。
蓋の下から一度、上へ突いた。薄い氷が、音を立てて割れる。
中は、空だった。
冬の便は、日が高くなってから回ってくる。急ぐ手紙は、寒い朝には来ない。
店へ戻ると、卓の端に、布が一枚、広げてあった。
濡れた手袋を、置くための布だ。頼んではいない。
たいへん、抜かりがない。
手袋を、そこへ置いた。
卓に、器が二つ。片方はノエルの、片方はこちらの分だ。こちらの器は、竈から少し離れた、熱くなりすぎない場所に置いてある。湯も、縁までは注がれていない。少なめだ。
この子は、見ている。こちらが、器を空にしないことを。淹れた茶を、いつも少し残すことを。だから、残る分を、はじめから引いてある。
……たいへん、勘定が細かい。
少し前まで、この器は棚の奥にあった。客へ出すことはあっても、こちらが使うことはなかった。
今朝は、ノエルの器と、同じだけ湯気が立っている。
温かいうちに、一口飲んだ。
外から、戸を叩く音がした。
入口の鐘は、鳴らなかった。凍っている。
「鳴りませんでしたね」
「あとで直します」
入ってきたのは、局章のある男だった。
外套の、片側だけが濡れている。右の肩から裾へ、水の筋が下りていた。海峡を横切って飛べば、風は同じ側から当たり続ける。片側だけ濡れるのは、横風を受けた者の濡れ方だ。
今日、海の上の風は、あの向きから吹いている。西へ渡るとき、こちらも、同じ側で受ける。
人の濡れ方は、地図より正直だ。
男は、外套を脱ごうとして、指が動かなかった。かじかんで、留め具にかからない。ノエルが、黙って布を差し出した。
男は、指を拭いてから、懐へ手を入れた。濡らさないように、外套の内側で包んでいた封書を、そっと出す。
ノエルが、もう一つの器へ、湯を注ごうとした。
「温まってからでも」
「いや、戻らないと」
男は、首を振った。
「石を運ぶ者が、もう東岸で待っています。俺が着いたと知らせないと、あっちも動けない」
海の向こうにも、朝がある。
「西岸の鐘守へ。今日中に、届けてほしいんです」
クラリスは、封書を受け取る前に、宛名を見た。西岸鐘楼の、鐘守。
その横に、差出人の添え書きが、一行あった。
明朝まで、鐘を鳴らせる状態で待機願います。
待機、とある。
鐘守は、まだ、これが来ることを知らない。知らせるのが、この一通だ。
「日没まで、ですね」
「はい」
「明朝、鐘を鳴らす」
「新しい風路の石を、通します」
ノエルが、封書を覗き込んだ。
「新しい風路なのに、古い鐘を使うのですか」
男は、少し笑った。それから、笑いを収めて、封書のほうを困ったように見た。
「完成していない道は、まだ使えませんから。……おかしな話でしょう。俺も、昨夜からこれに振り回されて」
上が決めて、下が飛ぶ。いつものことだ。
「鐘守の方には、まだ」
「この手紙が、知らせになります」
「承りました」
クラリスは、封書を受け取った。
男は、頭を下げると、また片側の濡れた外套を引き寄せて、出ていった。
窓の外を見た。西の空の低いところに、雲が横へ流れている。店先の風標が、いつもより速く回っていた。夕方から、西が崩れる。
いつもの外套に手をかけ、少し考えて、厚いほうへ替えた。あの男の、片側だけ濡れた外套を思い出す。海の上の風は、こちらが思うより、長い。
棚から、灯石を一つ取る。
ノエルが、もう一つ、差し出した。
「予備は、あります」
「帰りの分です」
クラリスは、受け取った。
「明日は、昼を過ぎるかもしれません」
「では、火を消さずに、待ちます」
「夜までは、かかりません」
「そう言って、前も遅れました」
「……連絡します」
ノエルは、灯石を布で巻いて、鞄の側面へ入れた。それから、扉を開けた。
「いってらっしゃい」
「行ってまいります」
箒に跨り、風を確かめてから、柄を上げた。
凍ったままの入口の鐘は、扉が閉じても、鳴らなかった。直すのは、帰ってからだ。
谷を抜けると、風が変わった。
谷の風は、行儀がいい。背中から、まっすぐ押してくる。海の風は、行儀を知らない。下から巻いて、箒の腹をすくい上げる。ひと息ごとに、当たる面が変わった。柄を、そのたびに握り直す。
雪も、変わった。乾いた雪が、湿って、重くなる。睫毛に粒が乗り、瞬きをすると、溶けて視界を濡らした。
手袋の革に、塩が残りはじめる。海の風は、飛んでいるだけで、こちらへ塩を置いていく。
屋根の形が、変わっていった。
山間の家は、煙突が高い。煙を、風の上へ逃がすためだ。海沿いの家は、低い。屋根を風下へ長く伸ばして、地面に貼りつくように建っている。
この土地の家は、風と喧嘩しない。喧嘩しても勝てないと、知っているのだろう。
低い屋根のひとつから、細い煙が、横へ流れていた。まっすぐ立ちのぼる煙は、ここでは見ない。
高度を落とすと、匂いが近くなった。炊事の煙と、魚を焼く匂い。海の塩の下に、暮らしの匂いがある。
岸で、干した網が凍っていた。漁師が一人、木槌で、氷を叩き落としている。一打ちごとに、白いかけらが飛ぶ。乾いた、固い音だ。少し離れて、女が一人、桶の魚へ、塩をまいていた。
さらに向こうで、子どもが海鳥を追っている。干した魚に寄る鳥を、腕を振って散らしていた。
子どもが、ふと空を見上げた。箒の影に気づいて、手を振る。
クラリスは、片手を上げた。
その拍子に、横風が箒をずらした。柄を握る手が、片方になったからだ。少し流れて、すぐに持ち直す。
子どもが、笑った。危ないと思うより、面白かったらしい。両手で、さらに大きく振ってくる。
もう、片手は上げなかった。今度は、両手で柄を握る。
子どもは、手を振り終えると、すぐに鳥を追いはじめた。
二度目は、振ってこなかった。
魚のほうが大事らしい。
当然である。
塩をまいていた女が、こちらを見上げた。よそ者の降り方を、見慣れている目だった。
「西へ行くのかい」
「はい」
「その高さじゃ、濡れるよ」
もう濡れている。
「少し、遅かったようです」
「そりゃ悪かったね」
女は、桶のほうへ戻った。
クラリスも、柄を上げた。
海峡が、正面に開けた。
遠くに、新しい中継塔が見える。輪郭が新しく、大きい。その先の風標だけが、まだ灯っていない。据えるべき石が、まだ着いていないからだ。
その塔を、通り過ぎた。
用があるのは、そこではない。
岬の突端に、古い鐘楼が立っていた。
近づくまで、それと分からなかった。石を積んだだけの塔で、地形に埋もれている。灰色の岩に、灰色の石。輪郭が、背後の崖に溶けていた。
まず、目に入ったのは、鐘ではなかった。
窓辺に、欠けた鉢。夏に育てた香草だろうか、枯れた茎が一本だけ、土に残っていた。
壁ぎわに、薪。多くはない。よく見ると、一本を、細く割り直してある。太いまま燃やさず、細くして、長く保たせているのだ。
岩陰に、シャツが一枚、干してあった。風で飛ばないように、上へ、古い金具が重しに載せてある。
軒下に、雨水を受ける桶。表面に、薄氷が張っていた。
クラリスは、鐘楼の脇の、平らな岩へ降りた。
波が、岩の下で崩れている。低く、絶え間ない音だ。山では、聞かない音だった。
塔の陰へ回ると、若い男が、しゃがんでいた。
二十歳を、少し過ぎたくらいだ。膝に板を置いて、魚をさばいている。手が、水と鱗で濡れていた。板の脇には、まださばいていない魚が、二尾。その一尾から、細い糸が伸びて、壁に立てかけた釣り竿へつながっている。自分で釣って、そのまま夕食にするらしい。火のない炉の上に、小さな焼き網が置いてあった。
男は、雨水桶の薄氷を、肘で割った。割った水で、板を流す。
それから、降りてきたこちらに気づいて、包丁を止めた。
「定期便なら、昨日来たぞ」
「本日は、別の配達です」
「忘れ物か」
「鐘鳴依頼状です」
男の目が、鞄へ移った。
「俺に?」
「はい」
男は、さばきかけの魚を、板へ置いた。
濡れた手を、服の脇で拭う。指の間に、鱗が残った。
クラリスが、鞄から封書を出す。
男は、すぐには受け取らなかった。封書と、自分の手を、見比べている。
汚れた手で、宛名を汚したくないらしい。
郵便を、雑には扱わない人だ。
たいへん、よろしい。




