おかえりなさい
二番鐘より前に、目が覚めた。
眠れた、とは言いにくい。床は硬く、戸の隙間から風が入る。古い蝶番が、夜のあいだに何度か鳴った。
床へ置いた灯石は、まだわずかに熱を残していた。
窓から、外を見た。
観測所の予備灯は、消えていた。
昨夜は点いて、今朝は消えている。分かるのは、そこまでだ。
ヨナスは、朝早く出ると言っていた。たぶん、そのとおりになった。
出る前に、小屋の中を見た。
戸を二度動かす。下の角が、床石に引っかかる。強く押せば開く。閉めるときは、持ち上げる必要がある。
屋根を見上げた。梁は残っている。傾いてはいるが、抜けてはいない。壁の北側に、雨漏りの跡が筋になって下りている。
積んである薪を一本、折ろうとした。折れない。湿っている。火には向かない。
一人が一晩、風を避ける分には、使える。
帳面を出して、書いた。
戸の建てつけ。梁。雨漏りの位置。薪は不可。
朝の谷筋は、昨日より風が弱かった。
代わりに、霜が降りている。箒の柄が滑る。手袋の上から握り直した。
第三風標は、暗いままだった。
旧経路図へ、書き加えた。第三風標、消灯。昨日の北西風では、岩陰で待てたこと。
飛行可能、とは書かなかった。
谷を半ばまで下りたところで、北西風が強まった。
飛べないほどではない。だが、飛ばないほうがよかった。
高度を落とし、昨日確かめた岩陰へ降りた。
風が落ちるまで、待った。
待った時間も、帳面へ書いた。
北支局の風標が、三基とも見えてきた。
来訪者用の端へ降りる。局員用の線には、今日も入らない。
受付にいたのは、昨日の若い局員だった。
こちらを見て、それから、戸口の時計を見た。
手にしていた筆を、置いた。
「お戻りですか」
「途中です」
「……ここへの、です」
「それでしたら、はい」
局員は棚から昨日の記録票を出し、時刻を書き入れた。
独立郵便取扱者、北支局へ再来。負傷なし。携行物、損失なし。
「届いたんですか」
「受領署名があります」
票を渡した。
局員は、宛名と、署名と、受領時刻を、一つずつ確かめた。
よくやった、とは言わなかった。危なかったですね、とも言わなかった。
届いた、という事実を、紙の上へ置いただけだった。
たいへん結構な扱いである。
昨日の旧経路資料を、もう一度出してもらった。
自分の帳面を横へ置いて、見たものを順に伝えた。消えた風標。傾いた小屋。霧の出た場所。昨日、風を避けられた岩陰。
どれも、資料の空白へ入る話だった。
局員は、書きながら訊いた。
「旧支線は、使えますか」
クラリスは、すぐには答えなかった。
「昨日は、通れました」
「それは、使えるということでは」
「違います」
局員の筆が、止まった。
「昨日の風を読んで、古い図を見て、灯石を二つ持って、途中で止まって、通れました。どれか一つ欠ければ、違います」
「それでも、あなたは飛べた」
「わたしは、です」
クラリスは、記録の文言を指定した。
旧北峰支線。北支局の風況と旧経路資料を参照し、独立郵便取扱者一名が、途中待機を挟んで往復。
第三風標、消灯。避難小屋、現存。
継続運用の可否は、未確認。現地確認を要する。
局員は、そのとおりに書いた。
書き終えてから、顔を上げた。
「ずいぶん、慎重ですね」
「飛べた者が書く記録は、慎重なくらいで結構です」
局員は、記録票の下へ、自分で一行足した。
旧北峰支線、設備確認を要請。
その下に、もう一行。
配達便ではなく、点検便の申請を検討。
「便は、出るのですか」
「点検便なら、申請できます」
「配達便ではなく」
「はい」
「よろしい」
局員が、椅子を少し引いた。
クラリスは、座らなかった。
局員は、記録票へ北支局からの出発時刻を書き入れた。
「風待ち郵便局へ着いたら、連絡をください」
昨日にはなかった言葉だった。
「承知しました」
北支局からローデンまでは、認可された風路を使う。
風標は灯っている。箒を置けば、正しい高度へ持ち上がる。曲がる場所も、灯りが教える。
本線は、たいへん親切だった。
今日は、素直に使う。
急がない。急ぐ理由は、もうない。
やがて、店が見えた。
煙突から、煙が上がっている。
戸口の札は、まだ閉店の側だ。受付箱の上に、雪はない。朝のうちに、誰かが払っている。
上空から、探しはしなかった。いつもの場所へ降りて、箒を置く。
戸へ手を伸ばす前に、内側から開いた。
ノエルが立っていた。
駆け寄っては、こない。
外套を見て、手袋を見て、鞄を見て、箒を見た。順に、目が動いた。
髪が、いつもより少し乱れている。
「おかえりなさい」
クラリスは、すぐには入らなかった。外套の雪を、戸の外で払う。床を濡らすと、あとで拭くのはこの子だ。
それから、中へ入った。
「ただいま、戻りました」
業務の報告のようにも聞こえる。
それで構わない。実際、報告である。
ノエルは受付帳を開いた。
帰着見込みの欄の隣へ、実際に戻った時刻を書き入れる。
その下の欄には、すでに名前がある。
書き終えて、ノエルが言った。
「確認しました」
「何をですか」
「帰ってきたことです」
「見れば分かります」
「書かなければ、残りません」
昨日、北支局で自分がしたことと、同じだった。分かりきった時刻を、わざわざ記録させた。
反論は、しなかった。
「灯石は」
ノエルが、鞄のほうを見た。
「二つとも、使いました」
勝ち誇る様子はなかった。
「そうですか」
空の包みを受け取って、棚へ戻す。中身のない包みを、丁寧に畳んでいる。
クラリスは、茶葉の棚を見た。
減っている。
「飲みましたね」
「待っていましたので!」
「一杯分、多いです」
「クラリスさんの分です」
机の上に、器が二つあった。片方は空。片方には、茶が残っている。
湯気は、立っていない。
「冷えていますね」
「淹れ直します」
「そのままで、構いません」
クラリスは、その器を取った。
「そのために、置いてあったのでしょう」
「冷たいですよ……!」
「見れば分かります」
一口、飲んだ。
たいへん趣味の悪い温度である。
それでも、置いて待たれた一杯を、淹れ直させる理由はなかった。
ノエルは、何も言わなかった。
こちらも、それ以上は言わなかった。
冷めた茶を飲みながら、伝言票を書いた。
風待ち郵便局へ帰還。三番鐘前。負傷なし。
最後の行に、確認者、と書いて、名前を続けた。
「私の名前も、送るんです?」
「確認者ですので」
「北支局の人は、わたしを知らないと思いますけど……」
「確認したのは、あなたです。」
ノエルは、伝言票を、朝一番の便の棚へ置いた。
クラリスは、受付帳を閉じようとして、手を止めた。
北支局で作った飛行記録の写しを、後ろの頁へ挟む。
「店にも、残すんですか」
「飛んだことではなく、止まった場所を」
火は、残っている。
時刻は、欄に入った。
茶は、冷めたままだ。
クラリスは、それを飲みきった。




