できること
観測所の風下へ、降りた。
斜面の途中に、風の当たらない窪みがある。そこへ箒を置いて、最後は歩いた。石の多い道だ。夜に飛んで近づく場所ではない。
小屋は、古い図のとおりの形をしていた。石積みの壁。屋根に風向計が二つ。片方は、確かに回っていない。
ハンナが言ったとおりだった。道からだと、屋根の落ちた物置が先に見える。それも、あった。
依頼人の言葉は、正確だった。正確な依頼人は、たいへんありがたい。飛ぶ前に聞いた形が、そのまま目の前にある。
着いたのは、四番鐘の少し前だった。
北西風は、まだ強まっていない。支局員が示した時刻まで、わずかに余裕がある。霧で一度降りたぶん、着くのは遅れた。それでも、風より先に着いた。
戸を、叩いた。
返事はない。
もう一度、強く叩いた。耳が遠いと聞いている。留守と、聞こえていないのは違う。灯りが点いているうちは、いないとは決められない。
しばらくして、戸が内側から開いた。
白髪の男が、灯りを背にして立っていた。
「閉鎖の準備なら、もう済んでいるがね」
「郵便です」
「……ここへの便は、止まったと思っておったが」
「だから、私が来ました。風待ち郵便局所属、クラリス・ヴェインです」
男は、こちらの外套を見た。局章のない、深緑の外套だ。それから、手の中の封筒を見た。
差出人の字を見て、手が止まった。
「ハンナから……。わざわざこれを?」
「どうしても届けてほしい、とのことでしたので」
「なぜ」
「それは、私が申し上げることではございません」
ヨナス・ヴェントは、封筒を受け取った。
受け取ってから、しばらく、宛名を見ていた。
受領票を出した。
郵便は、渡ったところで完了する。その先は、受け取った人のものだ。
男は、署名した。字は、しっかりしている。
聞き取りにくそうな様子はあっても、筆先は迷わなかった。
署名は、ある。
受取人も、合っている。
封筒も、渡した。
帰ってよい。
たいへん整った配達完了である。
明日の朝、この人と娘が、別々の道を下りることが無ければ。
クラリスは、戸のほうへ体を向けた。
ヨナスは、封筒を持ったままだった。開ける気配は今のところ見られない。机の上には、畳んだ観測記録と、下山の荷が半分ほどまとめてある。
「明日は、どちらから下りられますか」
余計なお節介、とでも言われるのでしょうか。
「西だ」
「そうですか」
それでは、会えない。たいへんよろしくない。
ヨナスは、封筒を机の脇へ置いた。
受け取ることと、開けることは、別である。
以前にも、扉の外側で止まった手紙があった。あのときは、受け取られるまでに二日かかった。
今日は、署名まで済んでいる。
それでも、明日の朝まで机の上に置かれれば、間に合わない。
「本日中に、開けてください」
ヨナスの手が、止まった。
「郵便屋が、そこまで言うのか」
「普段は、言いません」
「では、何故今日は」
「このまま、帰れません」
これは、押しつけだ。配達人は、渡すところまででいい。それは、分かっている。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ」
「……そう、ですね」
「俺も暇じゃない」
「読んで変えることがあるなら、発つ前でないと、間に合いません」
ヨナスは、裏返した封筒を、また表に返した。
しばらく、宛名を見ていた。
それから、封蝋へ指をかけた。一度、止まる。
切った。
便箋を出して、広げた。
読むのに、そう時間はかからなかった。短い手紙だ。便箋の重さから、そのくらいだと分かっていた。
一行で、目が止まった。止まってから、もう一度、最初へ戻った。
クラリスは、中身を見なかった。便箋を持つ指に、少し力が入った。読んでいる。それで、足りる。
ヨナスは、その手で、机の上の地図を引き寄せた。
西の斜面に、下山の線が引いてある。今朝までに引いたものだろう。
その線を、指で一度たどった。それから、消した。
手は、止まらなかった。今朝まで使うつもりだった線が、一本消えた。
東側に、新しい線を引いた。
クラリスは、その線の行き先までは見なかった。見なくても、書き足した線の意味は分かる。
ヨナスは、地図から顔を上げた。
「今夜は、戻れまい」
「途中の避難小屋まで、と思っています」
「ああ、あれか、そうだな、野宿よりはマシだろう」
男は、地図の一点を指した。第三風標の、少し手前だ。
「去年、雪で傾いちまったがな。屋根は、落ちていない。中も、まぁ、使える」
支局の記録は、撤去されていないことしか言わなかった。点検に行った者は、いない。
目の前に、去年そこを見た者がいる。今夜、その差は埋まった。
それから、棚の灯りを取った。予備灯だ。油差しを傾け、注ぎ足していく。手は、迷わなかった。長く、この灯りの世話をしてきた手だった。
「小屋までなら、この灯りが見える」
それは、明日で閉じる場所の灯りだ。すぐには、礼を言えなかった。
「明日だ」
灯りを、窓辺へ戻す。
「ええ、今夜では、ありません。ありがとうございます」
クラリスは、頭を下げた。
断る理由は、なかった。もともと、記録のために点す灯りだ。それが、今夜だけ、こちらの帰り道にも重なる。
「東の降り口は、分かりますか」
ヨナスは、すぐには答えなかった。
「いつも、西から下りている。東は、昔、一度きりだ」
「では――」
「道は、覚えている」
ヨナスは、書き換えた線を、指で押さえた。
「西より遠い。だから、朝早く出る」
娘が東で待っている、とは言わなかった。東へ引き直した理由も、言わなかった。
それは、この人の分の言葉だ。こちらが代わりに言うものではない。
避難小屋は、地図のとおりの場所にあった。
傾いてはいたが、屋根はある。戸を押すと、内側に埃と、古い薪の匂いがした。誰も使っていないが、崩れてもいない。
使えるかどうかは、来てみるまで分からない。今、分かった。
分からなかったものが、都合のよいほうに片づいた。たいへん珍しいことである。
箒を壁へ立てかけ、灯石を一つ、床へ置いた。二つ持たされたうちの、まだ使っていないほうだ。
朝、ノエルが二つ目を入れた。夜になる前に着きます、と言った自分に、帰りは、と返した。
二つとも、使うことになった。片方は霧の中で、片方はこの小屋で。反論のしようがない。
窓から、観測所の灯りが見えた。ヨナスの言ったとおりだった。小さいが、消えない。
今夜は、帰らない。決まったのは、そこまでだ。
早くて、明朝。空が荒れれば、その先。
配達は済んだ。今夜は、安全に越せる。夜に無理をして帰る理由も、もうない。
少し前なら、帰りの時刻を先に決めて、それに自分を合わせた。今は、しない。
空けたまま出てきた欄は、いまも空けたままだ。それでいい。
ノエルは、店を閉めた頃だろう。
戸締まりは、日が暮れる前に。火は絶やさないように。どちらも、念を押す必要のないことだった。
それでも、言った。
茶葉は、少なかった。あれは、勝手に飲まないでいただきたい。次の入荷まで、日がある。
帰ったら、棚と、受付帳と、火の番を確認する必要がある。
クラリスは、外套の前を合わせた。
灯石の熱が、膝のあたりに溜まる。夜は、まだ長い。
窓の外で、観測所の灯りが点いている。
あの灯りは、こちらが頼んだものではない。
配達を受け取った者が油を足し、帰る道へ残してくれた。
順序としては、たいへん不格好である。
明日の朝、あの灯りは消える。人が下りるからだ。
下りた先で、ハンナは待っているだろうか。
それは、こちらの見届ける場面ではない。
手紙は、届いた。読まれた。地図は、書き換わった。
郵便屋の仕事は、そこまでである。




