許可など、必要ありません
一刻ほど飛ぶと、北支局の風標が見えてきた。
現役は三基。すべて灯っている。冬の低い日差しの中でも、光の位置は遠くから分かる。
旧北峰支線の方向にも、風標はあった。
台座だけだ。導風石は外されている。近づかなければ、ただの石積みにしか見えない。
現役の風標は、遠くからでもよく見える。
使われなくなった風標は、近くまで来なければ見つからない。
たいへん公平な扱いである。
着陸場へ降りた。
局員用の降着線には寄らない。来訪者用の、端のほうへ箒を置いた。線の内側は、局章のある者の場所だ。
鞄からは、何も出さなかった。
配達を頼みに来たのではない。
受付にいたのは、若い局員だった。
こちらを見て、一度手が止まった。深緑の外套と、黒い手袋。それだけで、名前まで思い当たったらしい。
追い返しはしなかった。かといって、椅子も勧めなかった。
「……ご用件を」
「本日の北方風況を、拝見したいのですが」
「配達先は」
「旧北峰観測所です」
局員の目が、配達鞄のほうへ動いた。
「旧北峰支線は、閉鎖されています」
「承知しています」
「飛行許可は、出せません」
「求めていません」
局員が、こちらを見た。言い返された、と思ったのだろう。
そうではない。ここは、こちらへ許可を出せる場所ではない。それだけのことだ。
「風況の掲示は、認可風路の分だけです」
「それで結構です。」
局員は、しばらく黙っていた。
それから、掲示の綴りを持ってきた。持ってきたが、机の上に置いたまま、開かない。手が上に乗っている。
書類を隠すには、机が小さすぎる。
支局員の腕も、それほど太くはない。
たいへん無理のある抵抗だった。
「見せれば、行くでしょう」
「見なければ、行かないと?」
「……そうは、思っていません」
「では、見せてください」
手が、どいた。
北方の風況を、上から順に読んだ。
高層は西寄り。地表付近は冷えて重い。
北西風は、四番鐘を過ぎる頃から強まる。谷筋は、それに合わせて荒れる。
旧支線へ入るなら、それより前だった。
これが、今日ここへ寄って確かに得たものである。
「旧支線の状態を、最後に確認したのは」
「支線閉鎖の前です」
「それ以降は」
「便がありません」
「便がなければ、風路も見ない」
「人手が、ありません」
この局員が怠けているわけではないのは、机を見れば分かる。
経路票が積んである。処理済みの束と、未処理の束が、同じくらいの高さだ。奥では別の局員が名簿を抱えて、誰かを探している。
途中で、その者が呼びに来た。西の救援便が、折り返してくるという。予定より早い。
「北西です」
と、呼びに来たほうが言った。
「もう、上がってきています」
若い局員は、待ってください、とだけ返した。
今しがた掲示で読んだ風だ。四番鐘を過ぎれば強まる、その風が、西の便を先に帰している。
支局は、現役の空でもう手一杯だった。廃止支線の一通まで手が回らないのは、道理である。
「旧支線に、避難小屋の記録はありますか」
局員の手が、止まった。
「小屋、ですか」
「古い経路図に、第三風標の脇に印があります」
しばらくして、局員は奥の棚から別の綴りを出してきた。
頁をめくる指が、途中で遅くなる。
「……記録は、あります。撤去の記録は、ありません」
「点検は」
「支線閉鎖の前です。それきり、誰も行っていません」
撤去されていない。それだけが分かった。
建っているとは書いていない。倒れているとも書いていない。誰も見ていないものは、記録の上では、あることになる。
あることになっているものを頼りにするのは、たいへん心もとない。
それでも、何もないよりはましだった。
「これで飛ばれたら」
局員が言った。
「こちらが、送り出したことになります」
クラリスは、経路図から顔を上げた。
「あなたが、配達を命じたのですか」
「命じていません」
「では、そのように書けばよろしい」
局員は、少し口を開けた。それから、記録票へ一行だけ書いた。
配達指示なし、と。
「これで、よいですか」
「たいへん正確です」
落ちても、飛ぶと決めたのは、こちらだ。
少なくとも、この人の落ち度には、ならない。
「もう一つ、お願いがあります」
「……まだ、あるんですか」
「出発の時刻を、記録に残してください」
局員が、筆を持ち直した。
「それは、どういう」
「私の都合です。そうしていただけないと、たいへんまずいのです」
局員は、戸口の時計を見た。
「三番鐘半です。記録しておきます」
記録票へ、時刻が入った。
「それから、戻らなかった場合です」
クラリスは、そこで一度、間を置いた。
「明朝までに帰着しなければ、店の者が、ここへ照会に来ます。受けていただけますか」
局員は、すぐには答えなかった。
答えない権利はある。私設郵便屋の照会を受ける義務は、この支局にはない。
「……来るのは」
「ノエルという、女の子です」
局員は、少し迷ったように、視線を泳がせた。やがて、小さくため息をつき。
「……わかりました」
それだけ言って、記録票の下へ、もう一行足した。
照会先、当支局。
「来たら、こう伝えてください。旧支線で夜を越して、明るくなってから動く、と」
局員は、それも書いた。
まだ飛んでもいないうちから、今夜は戻らないと言っている。
ただ、風は読んだ。掲示は四番鐘からと言うが、西の便はもう帰されている。荒れは、それより早いかもしれない。
この風なら、行ってみる。続けられれば、今夜は戻らない。早く荒れれば、入ってすぐ引き返す。それなら、今日のうちに戻れる。
どちらになるかは、空を見てから決める。決められるのは、そこまでだ。
明朝のことは、まだ空の話だ。
待つ者へ渡すのは、こちらの都合のよい見込みではない。決まったことだけを、置いていく。
クラリスは、記録票を読んだ。読んでから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
本線風路は、たいへん親切だった。
箒を置けば進む。風標を見れば曲がれる。落ちれば、救援も出る。
旧支線には、そのどれもない。
代わりに、静かである。中央局の指示も届かない。救援も届かない。
前者だけなら、悪くなかった。
支線へ入って、すぐに分かった。
風路が、想定より低い。
古い図の高度で入ると、上が抜ける。抜けた分だけ、箒が浮かなくなる。高度を落とした。落とせば、谷の壁が近くなる。
第三風標は、やはり灯っていなかった。
閉鎖前の記録では、ここまでは使えたことになっている。
今、目の前にあるのは、暗い台座が一つだった。
その先で、霧が出た。
下から湧いてくる種類の霧だ。谷が冷えているときに出る。観測所があるはずの斜面が、見えなくなった。
箒を止めて、風を聞いた。
引き返せば、手紙は間に合わない。
進めば、何も見えないまま斜面へ寄ることになる。
降りれば、夜になる。
どれも、あまり趣味がよくない。
しばらく、そのまま浮いていた。
斜面へ、降りた。
岩の張り出した場所を選ぶ。風の当たらない側だ。箒を横へ置き、外套の前を合わせた。
避難小屋は、この霧の先のはずだった。記録には、ある。目には、ない。
記録の小屋より、いま寄っている岩のほうが、確かだった。
旧支線で夜を越して、明るくなってから動く。
支局で、自分でそう言った。
まだ夜ではない。
困難でもない。
そのように言い張る余地は、あった。
ノエルには、おそらく通らない。
霧の中で、灯石を一つ出した。二つ持たされたうちの一つだ。使う予定はなかった。
包みを解いて、膝の上へ置いた。
持っていて使わずに済んだ道具は無駄ではない、と朝は思っていた。
訂正する。
使うことになった道具も、無駄ではない。
霧は、思ったより早く切れた。
谷を上がってくる風が、下から押し上げていったらしい。切れ目から、山の中腹が見えた。
黒い斜面の途中に、光がある。
小さい。灯石より、少し大きい程度だ。揺れてはいない。風で消える灯りではない。
記録を取るために夜は点けている、と聞いていた。
旧北峰観測所の、灯りだった。
店では、聞いた話で、まだいると言った。
今度は、目で見た。
まだ、そこにいる。
クラリスは、灯石を包み直した。
箒を起こす。
高度は、上げない。谷筋の風は、下のほうが素直だった。




