帰着見込み
手紙は、配達鞄の書状入れにある。
角を揃えて入れた。ほかの手紙は重ねない。取り出すときに、探さずに済む。
ノエルは朝の仕事を始めた。通常便の仕分けをして、暖炉へ薪を足して、湯を足す。いつもの順序だ。
受付帳だけが、開いたままだった。
閉じる素振りもない。
クラリスは、棚から経路図を出した。
現行の図と、古い図。二枚を卓へ並べる。
現行の図では、旧北峰支線は途中で切れている。線がそこで終わり、その先は白い。
古い図には、観測所まで線がある。中継の風標の位置まで、点で打ってある。
山がその間に半分なくなったのでなければ、どちらかが不親切である。
おそらく、新しいほうだ。
道がなくなったのではない。使わなくなったから、描かなくなった。
クラリスは、古い図の折り目を伸ばした。
風標の点は、支線に沿って四つある。最後の一つが、観測所の手前だ。
四つとも生きているとは思っていない。中央局が支線を落としたなら、灯を入れる係も、そのとき引き上げている。
消えた灯を数えても、道の形は分かる。谷の向き、尾根の切れ目、風の抜ける場所。そこは、線を消しても残る。
古い図には、前の代の書き込みが残っている。
印刷の線の脇に、鉛筆で細く引き直した跡。風標の位置が、一つだけ、内側へ寄せてある。
図のとおりに飛んで、図のとおりでなかった者が、次のために直したのだろう。名前は書いていない。直した場所だけが、残っている。
最後の風標の先、峰を越えるところだけ、線が太い。冬はそこで風が巻く、という古い印だ。引いた者は、たぶん一度巻かれている。
三つ目の風標の脇に、小さな四角が描いてあった。凡例を見る。避難小屋。
現行の図には、この印はない。線を消したときに、一緒に消えたのだろう。
小屋が建っていたのは確かだ。今も建っているかは、別の話である。屋根が落ちていることもあるし、板を剥がして持っていかれていることもある。
支局で訊く。訊いて分からなければ、行ってみる。
当日の風況も、支局で見る。それから決める。
ローデン北支局には、風況の掲示がある。認可風路の分だけだが、隣り合う空の話だ。旧北峰支線の風は、そこから外れて吹いているわけではない。
掲示を見せてくれるかどうかは、支局の判断による。私設郵便屋に見せる義理はない。義理はないが、断る規則もない。
帰着の時刻は、まだ書けない。
ノエルは何も言わなかった。
言わずに、配達鞄の脇へ、荷物を並べ始めた。卓の端から、順に。
並べ方に、順序がある。先に使うものが手前だ。誰にも教わっていないはずだが、この子は最初からそう並べる。
雨布を広げて、破れがないか確かめている。先月、裾を引っかけた場所だ。繕った糸が、少し色が違う。
留め紐は、一本だけ新しい。前に濡らして硬くしたぶんだ。古いほうは捨てずに、束ねて棚へ戻してある。短いのが要る日のために、なのだろう。
保存食を二つ入れてきた。
黙って、一つ戻した。
ノエルが灯石を一つ足した。
クラリスは、鞄を持ち上げて重さを確かめた。
どうやら、食料では譲っても、灯りでは譲らないらしい。
交渉としては、たいへん片寄っている。
「灯石は一つで足ります」
「夜になるかもしれません」
「夜になる前に着きます」
「帰りは」
クラリスは、鞄を卓へ戻した。
「……二つ。入れてください」
ノエルが、灯石を包み直した。布を巻いてから、鞄の側面へ入れる。中で動かない場所だ。
どこへ入れるか、もう訊かない。前に、手を添えて教えた場所だ。指が、そのまま同じところへ行く。
夜間飛行をするつもりはない。
灯石を二つ持つのと、夜に飛ぶのは、別のことである。
持っていて使わずに済んだ道具は、無駄ではない。無駄になったほうがよい種類の荷物だ。
受付帳は、まだ開いている。
帰着見込みの欄も、まだ空いている。
クラリスは、筆を取った。
行きは、今日。
配達は、今夜。
帰りは、風路が帰してくれれば、明朝。
書式としては、たいへん曖昧である。
空のほうにも、書式を守っていただきたい。
筆先を、欄へ置いた。
明朝、と書けば簡単だった。
「明」の一画目を引いて、止めた。
止めているあいだに、筆先で墨が膨らんでいく。
簡単な予定は、たいてい飛行中の判断を邪魔する。夜のうちに戻れそうな気がしてくる。あと少し無理をすれば、書いたとおりになる、と思えてくる。
特に、店で可愛い弟子が待っているのであれば。
それに、風況を見ていない。図に印のある小屋が、まだ建っているかも分からない。
クラリスは、筆を欄から外した。
膨らんだ墨が、欄の隅に一つ落ちた。
帰着見込みの欄には、時刻を書かなかった。落ちた墨のほかは、白いままだ。
ノエルが、帳簿の下の余白を指した。指を置いたまま、離さない。
「ここは」
帰着確認者、という欄だった。
この欄は、自分で引いた。理由などない。ただ、習慣として、引いた。
中央局にいた頃は、この欄に意味があった。帰らなければ、誰かが気づく。気づいた者が、次の手を打つ。その手が正しかったかどうかは別として、少なくとも、放っては置かれなかった。
私設郵便屋には、その相手がいない。落ちても、誰も拾いに行かない。追放の日に、そう説明された。説明は正しかった。
いないから、空けてあった。
頁をさかのぼっても、その欄は白いままだ。引いた線だけがあって、字がない。
「ノエル・フィンセントと書いてください」
クラリスは、そこへ筆を下ろした。
ノエル・フィンセント。
その名前を書くのに、少しかかった。
ノエルは、書かれた自分の名前を、一度だけ読んだ。
「帰ってこなかったら」
ノエルは、帳簿を見たまま言った。
「朝まで待って、それでも帰らなかったら、北支局へ行きます」
「……お願いします」
「歩けば、二番鐘で開門に間に合います」
その時刻を、もう調べてある。
外套を着た。
鞄を肩へ掛ける。灯石が二つ入っているぶん、いつもより重い。重さは、掛けてしまえば、そのうち気にならなくなる。
箒を取った。
扉を開けると、外の風が入ってきた。冷たいが、まだ荒れていない。着陸場の霜は、日が当たって少し溶けている。
「火を、絶やさないでください」
「はい」
「薪は裏に積んである。足りなければ、ロットさんのところへ」
「知っています」
「戸締まりは、日が暮れる前に」
「分かっています」
「夕方に、客が一人来るかもしれない。来なければ、それでいい」
「はい」
すでに何度も伝えていることだ。
出発前になると、同じことを確かめたくなるらしい。
たいへん効率が悪い。
クラリスは、箒に跨った。
「それでは、行ってきます」
風を確かめてから、柄を上げた。
朝の空気は、まだ素直だった。着陸場の上で一度旋回して、風の層を見る。下は冷えて重い。上は、まだ読める。
ここの空は、今日は問題ない。
問題があるのは、この先だ。ここが穏やかであることは、向こうが穏やかである証明にはならない。
店の屋根が下がった。
着陸場の隅で、ノエルがこちらを見上げている。
受付帳は、開いたままにしてきた。
帰着見込みの欄は、まだ空いている。
帰着確認者の欄には、名前が一つ入っている。
空欄は、一つ減った。
もう一つは、帰る時刻が決まってから埋める。




