まだ、そこにいます
霜が降りる朝だった。
着陸場の石畳が白い。扉を開けると、外の冷たさのほうが先に入ってくる。暖炉に火を入れ、湯を沸かした。二番鐘の前だった。
ノエルが来る前に、受付箱を開けた。二通。近くの村宛が一通、町の職人宛が一通。
冬は、この店へ回ってくる手紙も減る。二通は少ないほうだが、少ないから楽になるわけではない。難しい一通は、たいてい数と関係なく来る。
その客は、湯が沸くより先に来た。
若い女で、椅子を勧めても座らなかった。両手に、封筒を一通持っている。
卓の上に置くわけでもなく、こちらへ差し出すわけでもない。持ったまま立っている。
封筒には、やはり赤い判が押してあった。
赤い線が、宛名を横切っていた。受取人の名前より、返送理由のほうが読みやすい。
「もう、そこへ行く理由がないんだそうです」
女が言った。
「拝見します」
返送票のほうを、先に読んだ。
受取地廃止。宛先照合不能。返送。
受取地が廃止されたのなら、照合できないのは当たり前で、照合できないなら返送するしかない。一つ目が言えれば、あとの二つは自動的に出てくる。
それでも三つ書く。理由の数だけ、判断が丁寧に見えるからだろうか。
たいへん格式のある返送理由である。
「受取人は、どこにいますか」
「観測所です。旧北峰の」
「今も」
「はい」
女は、封筒を持ち直した。
「明日の朝、下ります」
クラリスは、返送票の日付を見た。
昨日。
観測所が閉じるのは、明日の朝。住所が消えたのは、昨日。
一日早い。
中央局は、手紙を遅らせることにはたいへん寛容だが、場所を消す仕事だけは早いらしい。
「閉鎖の日は、確かですか」
「役所の掲示で見ました。父も、そう言っていました」
「では、今夜まではいらっしゃる」
「はい」
封筒を、裏返させてもらった。
差出人は、ハンナ・ヴェント。宛先は、旧北峰観測所、ヨナス・ヴェント。
薄い。便箋が一枚か、二枚。中身を推し量る趣味はないが、重さは分かる。長い手紙ではない。
「お父様ですか」
「はい」
ハンナは、そこで一度、言葉を切った。
「父がどちらから来るのか、わからないんですよね。」
「あなたは」
「東で待ちます」
この手紙が届けなければ、彼女の優しさは博打と変わらないことになる。
「だから、手紙を……」
そこで、声が止まった。
止まったところは、訊かない。
どうして直接言わないのか、と訊けば、この人はそれを説明することになる。説明できるなら、たぶん手紙にしていない。
クラリスは、手を出した。
ハンナは、封筒を卓の上へ置いた。置いたが、指は離さない。
「危ないと、言われました」
「正しい説明です」
実際、正しい。あの風路は止まっている。止めたのは中央局で、止めた理由もある。危ないと言った者は、仕事をしただけだ。
「中央局の方が、そう」
「はい」
「それでも、行ってくれるんですか」
クラリスは、受付帳を開いた。
封筒ではなく、帳簿のほうを見て言った。
「まだ、お預かりしていません」
ハンナの指が、離れた。
「配達困難郵便、承りました」
「差出人のお名前を、念のため」
「ハンナ・ヴェントです」
裏口の戸が鳴った。
ノエルの足音が、受付卓の手前で止まった。客がいるときは、呼ばれるまで出てこない。
「お届け先の目印を、伺えますか」
「石の小屋です。屋根に、風向計が二つ。片方は、もう回りません」
風向計、二基。片方停止。そう書いた。
「東側に物置があります。屋根が落ちています。道からだと、そちらが先に見えます」
「灯りは」
「夜は点けています。記録を取るので」
灯り、あり。
これは、たいへん有用な情報である。屋根の落ちた物置よりも、夜の灯りのほうが、遠くから見える。
「戸を叩いても、開かないことがありますか」
「……あるかもしれません。父は、耳が遠いので」
耳が遠い。戸は内側から閉める。
叩いて出てこなかった場合に、いないと判断してはいけない。
これは、書いておく必要がある。留守と、聞こえていないのとは違う。
前者なら出直すが、後者で出直したら、こちらの落ち度だ。
叩いて反応なき場合、灯りを確認のこと。そう書き足した。
配達料を告げた。通常の距離に、山越えの分を足した額だ。
ハンナは、鞄から布の袋を出した。中で音がする。銅貨を卓へ並べ、数えた。数え終えてから、もう一度数えた。
「足りますか」
「はい、確かに」
受領の控えを切って渡した。
「配達の結果は、お知らせします。ご在所は」
「町の南の宿に、2泊だけ」
ハンナは控えを受け取り、卓の上の封筒を見た。もう、こちらの封筒だ。
「あの」
「はい」
「……いえ」
頭を下げて、出ていった。
扉が閉まる。外の冷たさが、一度だけ入ってきた。
言いかけてやめたことが何だったのかは、分からない。
分からないものは、こちらで埋めない。埋めた分は、たいてい間違っている。
届けてください、だったのかもしれない。無理はしないでください、だったのかもしれない。どちらでも、こちらのすることは変わらない。
ノエルは、返送票を見ず、受付帳のほうを見ていた。
「明日の朝ですか」
「配達に出るのが、でしょうか」
ノエルの指が、帳簿の欄をなぞった。
「クラリスさんが戻るのは」
帰着見込み。その欄は、空白のままだった。
たいへん余計な欄である。こんなものは作った覚えがない。どうやら、見ないうちに色々思いついたのだろう。
……たいへん、優秀である。
配達の予定だけ書いておけば、郵便帳簿としては足りるのだから、どこへ、いつまでに、何を届けるか。それが仕事の本文であり、帰りの時刻は、仕事の内容ではない。
少し前の自分なら、そう思ったのだろう。ただ、少し前に言った一言が頭をよぎる。
ノエルにとっては、それが一番大事なことだったのだろう。
空欄のままでも、飛ぶことはできる。飛べる。これまでにも飛んでいる。
ノエルは、その空欄を見ている。封筒でもなく、期限でもなく、そこだけを見ている。
たいへん見ないふりが難しい。
「風況を見てから、です」
「見てから……? それって出るまでに埋めないってことでは?」
この弟子は、なんと頭が回ることか。たいへん喜ばしい。が、それは今必要なものではない。
ノエルは帳簿を閉じずに、その頁を開いたまま、卓の端へ寄せた。
書き足す場所は、残されていた。
湯が沸いていた。ノエルが火から下ろし、器へ注ぐ。片方をこちらへ置いた。
置く位置が、いつもより手前だった。
外で、風が鳴った。着陸場の柵のあたりだ。
ノエルが窓のほうを見て、また帳簿へ戻った。何も言わなかった。
封筒を、もう一度見た。
宛名の上の赤い線は、消せる。削れば消える紙質だ。消してしまえば、ただの封筒に戻る。
消さないことにした。
消せば、この一通が返されたという事実も消える。返された日と、人が下りる日が一日ずれていたことも、残らなくなる。
あの一日は、実際にあった。紙の上でなかったことにするなら、こちらは残す。
赤い線の下へ、受付番号を書いた。
線の上には書かない。中央局の判の上に自分の字を重ねるのは、趣味が悪い。下でいい。
受付帳の番号と、同じ数字だった。
赤い線があっても、この封筒は、今日から風待ち郵便局の受付簿に載っている。
配達鞄の、いちばん上へ入れた。角を揃える。
「消さないんですね」
ノエルが、横から覗いていた。
「向こうの記録では、ない場所ですけど」
「はい」
鞄の留め具を閉めた。
「まだ、そこにいらっしゃいますから」




