期限内配達不能
閉鎖した風路に残された郵便は、全部で十九通あった。
翌朝、マルタはそれを卓へ並べた。
昨日、工房で何も答えられなかった。
返せない。届けられない。相手が失うものも止められない。
同じことを、残りの十八人にも告げるつもりはなかった。
テオと一通ずつ宛先を調べた。
原本の到着を待たず、差出人の意思だけで手続きを延ばせるものがあった。期限の延長を申請できるものも、途中の支局まで陸で運べるものもあった。
届かない手紙の代わりになるものを探した。
代わりが見つかるたび、封筒を別の卓へ移した。
午前が終わる頃には、残りは五通になった。
昼を過ぎると、一通だけになった。
厚い封筒だった。
行政局の封蝋があり、宛先には、閉鎖風路の先にある山間共同区の名が書かれている。
土地使用許可の更新原本だった。
添付された規定を開いた。
最初の頁に、期限がある。
今日の日没。
その下に、短い一文があった。
原本の到着をもって、更新の効力を生じる。
テオが写しと照らし合わせた。
「発行されたことだけなら、行政局で確認できます」
その先は言われなくても分かった。
原本が届かなければ、更新は成立しない。
写しも、発行記録も、届かなかった原本の代わりにはならない。
「明日からは」
口にした声が、自分のものではないように聞こえた。
「共同区は、無許可で土地を使っていることになるんですね」
「書類上は、そうなります」
期限の延長は、共同区が災害指定を受けた場合に限られていた。
閉じたのは、共同区ではない。
中央局が使う風路だ。
共同区の人々は、何も遅らせていない。
何も止めていない。
それでも明日になれば、期限を守らなかった側に置かれる。
もう一度、規定の最初へ戻った。
欄外まで見た。
次の頁も、その次も読んだ。
昨日、見落としたものがあった。
今日もあるかもしれない。
テオも隣で頁を戻した。
二人で最後まで読み直した。
なかった。
行政局へ照会を出した。
返ってきた回答にも、例外はなかった。
原本未着の場合、更新不成立。
卓の上に、封筒だけが残った。
まだ日没前だった。
届けば間に合う。
届かなければ、もう戻らない。
その事実だけが、封筒の重さになっていた。
午後、配達計画の局員が経路票を持ってきた。
正規風路を避け、西側の支線から旧連絡路へ入る経路だった。
計算上は、日没前に共同区へ着く。
マルタの指が、到着予定時刻から、経路の端へ移った。
旧連絡路。
最後に使われたのは、四年前だった。
点検記録は、二年前で止まっている。
「却下だ」
レオンハルトが経路票を卓へ戻した。
局員は受け取らなかった。
「飛行禁止というわけではない、と思いますが」
「安全だという記録もない」
「それでも、通れないと決まったわけでは」
「通れると決まっていない道へ、人を出すつもりはない」
局員の目が、土地使用許可の封筒へ落ちた。
「このままでは、今日で切れます」
「分かっている」
「それでも、飛ばさないんですか」
「飛ばさない」
背後で外套の擦れる音がした。
振り返ると、扉のそばにナディアが立っていた。
箒を持ち、飛行鞄まで着けている。
「私が行きます」
レオンハルトは、ナディアの支度を一度見ただけだった。
「行かせることは、できない」
「旧連絡路の手前までは知っています。そこまで異常がなければ、その先を見ながら進めます!」
「それがどうした、戻る道について説明が出来るのか」
「消えるとは限りません!」
「残っている保証もない!!」
「日没まで、まだ時間があります」
「だから、出さない」
ナディアの手が、箒の柄を強く握った。
「向こうでは、そんなことは分かりませんよね!?」
誰も答えなかった。
「風路が危なかったことも、旧連絡路を使えなかったことも」
土地使用許可の封筒を見ていた。
「届かなければ、私たちが来なかったことしか残りません!」
「止めたのは俺だ」
レオンハルトの声は変わらなかった。
「君の責任にはならない」
ナディアが顔を上げた。
「それは、どこに残るんですか」
レオンハルトの視線が、こちらへ向いた。
答えを探して、卓の書類を見た。
期限内配達不能票。
そこにある欄は三つだけだった。
配達担当者。
中止理由。
帰投時刻。
誰も飛ばない。
だから、配達担当者はいない。
帰投した者もいない。
空欄だけが残る。
あとからこの紙を見た者には、なぜ誰も飛ばなかったのか分からない。
ナディアの名が書かれていなくても、担当するはずだった者が届けなかったという結果だけが残る。
「残りません」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
ナディアは何も言わなかった。
レオンハルトから目をそらし、そのまま部屋を出ていった。
外套の裾が、扉の向こうへ消えた。
飛行鞄を外す音はしなかった。
期限内配達不能票を手元へ引き寄せた。
空白の配達担当者欄が、目の前にある。
「誰の名を入れますか」
テオが訊いた。
「飛行担当者は、いません」
「では、空欄になります」
その空欄を見た。
誰も飛んでいない。
誰も戻っていない。
誰も命令に背いていない。
それなのに、誰が止めたのかだけが消える。
この一年、同じ空欄をいくつも見てきた。
届かなかったという結果だけを残し、判断した者を紙の外へ逃がす空欄だった。
レオンハルトが票を取った。
「俺の名を入れろ」
「ここは、配達担当者の欄です」
「なら、別に作れ」
顔を上げた。
「運航停止を決めた者の欄を、ですか」
「そうだ」
「今の票にはありません」
「今、作れ」
テオが別紙を出した。
すぐには筆を取れなかった。
名前だけを書いても、数年後には、なぜその名があるのか分からなくなる。
「名前だけでは足りないかと」
本当にこの人は。
レオンハルトが待っている。
「止めた時刻と、根拠にした記録が要ります。代替経路を検討したことも、使わなかった理由も」
「受取人への通知も必要、でしょうか」
テオの言葉に頷いた。
「次に、いつ見直すかも残しましょう」
届かなかった日の責任だけでは足りない。
そのあと何もしなければ、止めた判断も、いずれ放置へ変わる。
レオンハルトが票を卓へ置いた。
「書け」
新しい欄を作った。
運航停止決定者。
停止時刻。
判断根拠。
代替経路の検討結果。
受取人への通知状況。
次回配達判定日。
最初の欄へ、レオンハルトの名を書いた。
共同区へは、今日中に知らせる手段がなかった。
正規風路は閉じている。
旧連絡路にも、人は出さない。
行政局を経由する陸の巡回便では、着くまでに数日かかる。
期限が切れる前に、共同区が事情を知ることはない。
マルタは通知書を書いた。
土地使用許可更新原本、発行済み。
風路異常により、中央局の判断で運航を停止。
原本、期限内到着不能。
共同区側の申請遅延ではない。
原本の配達は継続する。
不利益に関する申立ては、中央局で受け付ける。
救済ではなかった。
届く頃には、共同区の許可は切れている。
それでも、向こうの者に、なぜ届かなかったのかを自分たちで探させることだけはしたくなかった。
レオンハルトが文面を読んだ。
「補償する部署は、まだ決まっていないな」
「窓口は」
「監察課だけでは決められない」
「では、受け取ってから、こちらで回してください」
語気が強くなった。
レオンハルトがこちらを見る。
責任を避けようとしている。
一瞬、そう決めつけていた。
自分の中に生まれた言葉へ気づき、口を閉じた。
「書くなとは言っていない」
レオンハルトは通知書を卓へ戻した。
「窓口が決まっていないなら、中央局、とだけ書け。回す先は、こちらで決める」
「……はい」
最後の一行を書き直した。
申立ては、中央局で受け付ける。
誰が償うのかは、まだ決まっていない。
それでも共同区に、窓口を探すところから始めさせない。
通知書を、土地使用許可の封筒へ添えた。
今はまだ、どちらもここから動かせない。
日没が近づいた。
着陸場の脇を通ると、ナディアがいた。
外套を着たまま、壁際に立っている。
箒も、飛行鞄も、そのままだった。
柄に結ばれた鞄留めすら解かれていない。
「まだ、待っていたんですか」
「旧連絡路を測るだけでも、許可が出るかもしれないと思っていました」
「出せません」
ナディアは西の空を見た。
山の端へ、日が触れかけている。
「もう、着けませんね」
「はい」
「今から許可が出ても」
「間に合いません」
箒の柄を握っていた指が、ゆっくり離れた。
「私が飛ばなかったと、書かれますか」
「何を、聞いていたんですか」
新しく作った票を出した。
ナディアの目が、上から順に欄を追った。
運航停止決定者。
その下に、レオンハルトの名がある。
指が、その名の上で止まった。
「止めた人の名前が入るんですね」
「はい」
長いあいだ、その欄を見ていた。
やがて、土地使用許可の封筒へ目を移した。
「それで、向こうの土地は戻りますか」
「戻りません」
「今日には、間に合わない」
「はい」
言い換えなかった。
鐘が鳴った。
日没を知らせる鐘だった。
音を聞きながら、期限の欄を見た。
共同区の人々は、そのことをまだ知らない。
明日の朝になってから、自分たちの許可が切れたことを知る。
ナディアは箒を壁から外した。
鞄留めを解き、外套の留め具を外した。
その手元を、最後まで見ていた。
夜、行政局から照会への回答が届いた。
原本が期限後に到着しても、更新の効力を遡らせることはできない。
共同区側に過失がないことは、記録へ付記する。
それだけだった。
土地使用許可の封筒は、まだ卓の上にある。
明日届けても、更新には使えない。
五日後に届けても、同じだった。
期限内配達不能票へ追記した。
原本、期限内配達不能。
運航停止決定者、レオンハルト。
代替経路、安全未確認につき不採用。
受取人への通知、未達。通知文書を原本に添付。
共同区側の申請遅延、なし。
原本配達、継続。
筆を置こうとして、最後の欄が空いていることに気づいた。
次回配達判定日。
継続とだけ書けば、この票も棚の中で止まる。
期限を過ぎた郵便は、急ぐ理由を失う。
誰にも見直されないまま、届かなかったという結果だけが残る。
「次の確認は、いつですか」
レオンハルトが保全の予定表を引き寄せた。
「五日後だ」
五日後の日付を書いた。
正規風路の修理状況。
陸路へ切り替えられるか。
旧連絡路を測定できるか。
差出元に再発行を求めるか。
その日に、もう一度すべてを見る。
テオが封筒を持ち上げた。
「期限後に届けても、更新には……」
「はい」
「差出元へ返したほうがよいのではありませんか」
封蝋の下に、行政局が更新を認めた日付がある。
共同区は、許可が実際に出ていたことさえ、まだ知らない。
「差出元には、再発行できるか確認します」
「では、この原本は」
「届けます」
「ですが、そんな意味はもう……」
「許可が出ていたことは、これを届けることでしか伝えられない」
テオの手から封筒を受け取った。
期限内に届かなかった。
土地を守れなかった。
共同区が明日から困ることも、止められなかった。
それでも、中央局が届けられなかったために、許可そのものまで存在しなかったことにはさせない。
継続案件の箱を開けた。
昨日、作ったばかりの箱だった。
底には、身元引受書が一通だけ入っている。
期限には間に合わなかった。
受取人も、もう元の場所にはいない。
その隣へ、土地使用許可の封筒を置いた。
二通で、まだ底が見えた。
一通は、迎えに行くという言葉を間に合わせられなかった。
もう一通は、土地を使う権利を間に合わせられなかった。
どちらも、失った期限は戻らない。
それでも、届けなかったことにはしない。
「次の判定まで、閉じるな」
レオンハルトの声がした。
「はい」
蓋へ手をかけた。
閉めれば、また見えなくなる。
手を止め、箱を卓の端へ残した。
五日後まで、誰の目にも入る場所に。
期限は過ぎた。
配達は、まだ終わっていない。




