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二つの期限

 翌日の夕方、マルタは中央局の馬車を坂の下で降りた。


 工房は、町外れへ続く坂の途中にあった。


 支局から定型の通知を送らせることもできた。配達不能票を一枚、封筒に入れて出せば、それで手続きは終わる。


 けれど、その紙を受け取る者の顔を、見ないままにはできなかった。


 坂を上り、作業場の戸口で声をかけた。


 機械の音が止まった。


 出てきた女は、前掛けを着けたままだった。指に細い糸くずが絡んでいる。


「中央局から参りました。マルタ・キールと申します。北部療養院宛てにお預かりした郵便について――」


 ユリア・ベルクは、手元の封筒を見た。


 角を傷めないように運ばれてきた封筒だった。宛名も、封も、出したときのまま残っている。


「届かなかったんですね」


「はい。風路に異常があり、昨日の朝、こちらの判断で便を止めました。現在も、飛ばせる状態ではありません」


「期限は、昨日です」


「承知しています」


「私は、三日前に出しました」


 卓から受付票を持ってきた。


 期限の三日前の日付。工房の判。受け付けた支局の印。


 間に合うものとして、確かに受け取られた手紙だった。


「妹は、明日の朝、移されます」


 受付票の隣へ、もう一枚の紙が置かれた。


 療養院からの通知書だった。何度も開いたのだろう。折り目が白く擦れ、端が柔らかく潰れている。


「昨日までに、この手紙が届けば、私が引き取れることになっていました」


 通知書の一行を、指で押さえた。


「届かなければ、空いている施設へ移すそうです。どこへ行くのかは、今夜決まります」


 工房の奥で、止まっていた機械が小さく軋んだ。


 窓際には、仕上げを待つ服が積まれていた。籠から溢れ、卓の端にまで重なっている。


「妹を迎えるために、仕事を増やしました」


 ユリアの目も、積まれた服へ向いた。


「部屋を空けました。寝台も借りました。あの子は寒がるから、毛布も買いました」


 声は静かだった。


 静かなまま、ここに妹が来るはずだった跡を、一つずつ並べていく。


「明日の朝には迎えに行けると、手紙にも書きました」


 封筒へ目が戻った。


「妹は、それを読んでいません」


「……はい」


「私が来ることも、知りません」


 前掛けを握る指に、力が入った。


「知らないまま、別の場所へ連れていかれます」


 風路に異常があった。


 帰投する郵便魔女が続いた。


 人を飛ばせる状態ではなかった。


 どれも必要な説明だった。


 どれも、この人の妹を明日の馬車から降ろしてはくれない。


「私は、間に合う日に出しました」


「確認しています」


「間に合うように、出したんです」


 受付票を押さえる指が震えた。


「それなのに、どうして、妹を迎えに行けないんですか」


「申し訳ありません」


「謝ってほしくて出したんじゃありません」


 初めて、声が強くなった。


「妹を、ここへ帰すために出したんです」


 受付票が、封筒の前へ押し出された。


「ここに日付があります。私が遅れたんじゃないことくらい、分かるでしょう」


「はい」


「だったら、妹を連れていかないでください」


 その言葉だけが、工房に残った。


 中央局には、療養院の移送を止める権限などない。


 手紙を受け付け、運び、届かなければ記録する。それだけだ。


 けれど、そんな答えを返すために、ここまで来たのではなかった。


「……今のままでは、止められません」


 ユリアの顔から、力が抜けた。


 怒鳴られるよりも、そのほうが苦しかった。


「今のままでは」


 小さく繰り返した。


「では、何か変わるんですか」


 答えはなかった。


 調べます、と言うことはできた。


 けれど、妹が移されるのは明日の朝だ。この人に、中央局が調べ終わるまで待てとは言えない。


 ユリアは、届かなかった封筒を見た。


「返されても、困ります」


「返却に来たのではありません」


「届けてくれるんですか」


「今は、できません」


 それきり、声が途切れた。


 受付票と、療養院の通知書と、届かなかった封筒が、同じ卓に並んでいる。


 ユリアだけが、その前に立っていた。


「何をしに来たんですか」


 手には、答えの代わりになるものが何もなかった。


 中央局へ戻ったのは、夜だった。


 テオが、止めた便に関する記録を机へ並べていた。


 差出時刻。受付時刻。通常の所要時間。風標異常の最初の報告。保全への点検要請。配達停止を決めた時刻。


 外套も脱がず、紙の前へ座った。


 私は、間に合う日に出しました。


 並んだ日付を追うあいだも、その声が離れなかった。


 途中で、指が止まった。


 風標異常の最初の報告は、ユリアが手紙を出すより前に届いていた。


「受け付けたときには、もう報告があったのね」


「はい」


 テオの声にも、疲れがあった。


「期限内に届かない可能性はありました」


「それでも、飛べた日もあった」


 口にしてから、唇を閉じた。


 飛べた日もあった。


 事故は起きていなかった。


 だから受け付けた。


 昨日まで、自分たちはそうしていた。


 そして昨日になって、危険だから止めた。


 受け付けるときには可能性を軽く扱い、止めたあとは、その可能性だけを理由にした。


 その間で、ユリアの手紙が動かなくなった。


「誰が、運航の継続を承認したの」


 テオが綴りを引き寄せた。


 今回は、名があった。


 消されてもいない。空欄でもない。


 配達計画を継続した承認者の名だった。


 その脇に添えられていた根拠は、風路管理から届いた一枚だけだった。


 点検予定。


 それだけだった。


 危険ではないとは書かれていない。


 危険だとも書かれていない。


 いつまで飛ばしてよいのかも、誰が止めるのかも、どこにもなかった。


「この人は、異常を隠したわけではありません」


 テオが言った。


「届いた通知を見て、点検までは運航できると判断した」


「点検が、いつかも知らずに」


「はい」


 紙をめくる音が止んだ。


 誰かが悪意を持って遅らせたのなら、その者の名を書けばよかった。


 けれど、誰もユリアの妹を移そうとはしていない。


 誰も手紙を止めようともしていない。


 誰も止めると決めないまま、手紙だけが止まった。


 その結果を、誰の名も書かれていない配達不能票が引き受ける。


「明日の朝までに」


 声に出すと、療養院の通知書に書かれた時刻が浮かんだ。


「この手紙を届けられないとしても、何か残っていないか調べます」


「療養院の規定ですか」


「それも。先に、なぜ昨日まで飛ばしていたのかを決めます」


 決めなければ、同じことがまた起きる。


 けれど、それだけでは足りない。


 明日の朝、妹は馬車へ乗せられる。


 その時刻だけは、調査が終わるまで待ってくれない。


 翌朝、保全担当を呼んだ。


 確認飛行へ同行した男だった。作業着のまま現れ、椅子には浅く腰を下ろした。呼び出された時間さえ惜しいらしい。


「風標が一基消えただけでは、閉鎖にはできません」


 男は先にそう言った。


「隣の風標で補えることがあります。冬場に一基ごと止めていたら、飛べる風路がなくなる」


 卓の上には、三枚の報告があった。


 イルゼの原票。ナディアの簡易帰投票。エヴァの事故報告。


 三人とも、同じ風路から戻っている。


 三人とも、風路が沈んでいると書いていた。


「三人が、同じ異常を報告しています」


 テオの声は、すでに硬かった。


「無視してはいません」


 保全担当は三枚へ目を落とした。


「測定が必要だとは判断しました」


「予定は、十二日後ですね」


 テオが、点検予定の紙を出した。


「そのあいだも、あそこを飛ばすつもりだったんですか」


「そう言われても、こちらにも順番があります」


 作業着の胸元から、折り畳んだ紙が出された。


 卓へ広げられたのは、修理の一覧だった。


 傾いた風標塔。亀裂の入った基部。消えかけた誘導灯。冬を越せるか分からない中継柱。


 地名が、紙いっぱいに並んでいる。


「この塔は、根元から傾いています。ここを止めて北部へ向かえば、冬のあいだに倒れるかもしれない」


 指が、次の地名へ移った。


「こちらは二基とも不安定です。片方が消えれば、夜間飛行はできません」


 さらに次へ。


「全部、後回しにすれば誰かが落ちる場所です」


 テオは何も言えなくなった。


 男の声にも、苛立ちだけではないものが混じっていた。


「報告が来るたび、すぐに見に行けるわけではありません。人が足りないんです。私たちにも、間に合わせなければならない場所があります」


 期限があります。


 昨日、ユリアも同じことを言った。


 一枚の手紙を間に合わせようとした者。


 塔が倒れる前に修理を間に合わせようとする者。


 どちらも、間に合おうとしている。


 そのあいだで、妹が明日連れていかれる。


「一基が消えたとき、何日までなら待てる」


 窓際から声がした。


 レオンハルトだった。


「状態によります」


「その状態を見ないまま、十二日待たせるのか」


「今日見ろと言うなら、どこの修理を止めます」


 保全担当が椅子から立った。


「どこを選んでも、そちらに人がいます」


 レオンハルトは答えなかった。


 北部の風路を見に行かせれば、別の塔が後回しになる。その塔を優先すれば、北部を飛ぶ者が危険に晒される。


 どちらを選んでも、紙の外に人がいる。


 修理の一覧から、三枚の帰投記録へ目を戻した。


「今日、直してくださいとは言いません」


 保全担当がこちらを見た。


「直すかどうかを決める前に、飛ばしてよいかだけを見てください」


「測定だけを先にしろと」


「はい。最後に安全だった地点まで進み、そこから測る。危険区間には入りません」


 ナディアの帰投票には、引き返した地点が残されている。


「毎回は無理です」


「同じ風路から二人以上が戻っている。風標と風路の両方に異常がある。そこへ期限便が入っている」


 三枚の紙を中央へ寄せた。


「その三つが重なったときだけです。翌朝までに、飛ばせるか、止めるかを決めてください」


 保全担当は、修理の一覧を見下ろした。


 それから、三枚の帰投記録を見た。


「測るだけなら、一人出せます」


「郵便側からも一人つけます」


「測定結果で止めた場合、期限便が遅れます」


「その責任はこちらで持ちます」


 男の目が、レオンハルトへ向いた。


 レオンハルトは頷いた。


「また試行ですか」


「正式に変えるまで待っていたら」


 届かなかった封筒が浮かんだ。


「間に合わない人がいます」


 男は、それ以上何も言わなかった。


 測定は、その日の午後に行われた。


 結果は、夕方までに戻った。


 閉鎖相当。


 風路の沈下は、飛行側の感覚ではなかった。数字が付いた。誰が見ても、人を出せる状態ではなかった。


 便を止めた判断は、間違っていなかった。


 その紙を見ても、何も軽くならなかった。


 妹は、明日の朝、移される。


 北部療養院の規定を開いた。


 身元引受に関する条項。


 原本の到着期限は、昨日で切れていた。


 移送先は今夜決まり、明日の朝に出発する。


 期限を過ぎた原本を、あとから受け取った場合の記載はあった。


 新しい施設へ転送し、身元引受の手続きを改めて行う。


 明日の移送を止める方法は、どこにもなかった。


 頁を戻した。


 もう一度、最初から読んだ。


 それでも、なかった。


 ユリアは間に合わせた。


 中央局は、間に合わせられなかった。


 その違いをどれだけ紙へ残しても、明日の朝には、妹がここから遠ざかっていく。


 規定を閉じた。


 工房へ着いたとき、日はほとんど沈んでいた。


 昨日と同じ窓から、灯りが漏れている。


 声をかけると、機械の音が止まった。


 ユリアは、昨日と同じ前掛けを着けていた。


 こちらを見ると、指に絡んでいた糸を外した。


「妹さんの移送を、止める方法はありませんでした」


 ユリアは、何も言わなかった。


 期待していた顔ではなかった。


 それでも、言葉を受けた瞬間、肩がわずかに落ちた。


「明日の朝には、予定どおり移されます」


「あの子は」


 声が掠れた。


「私が迎えに来なかったと思います」


 否定できなかった。


 妹は手紙を読んでいない。


 部屋を空けたことも、寝台を借りたことも、毛布を用意したことも知らない。


 姉が間に合う日に手紙を出したことも知らないまま、明日の朝、別の場所へ連れていかれる。


「約束したんです」


 ユリアは言った。


「今度こそ、迎えに行くと」


 鞄から封筒を出した。


 ユリアの指が、一度だけ動いた。


 けれど、触れなかった。


「返してもらっても、もう遅いんです」


「返しません」


「届けられないのに」


「妹さんの移送先を確認します。分かり次第、この手紙をそこへ届けます」


 ユリアが顔を上げた。


 怒りがあった。


 昨日よりも、はっきりとした怒りだった。


「いつですか」


「まだ分かりません」


「どこまで連れていかれるかも?」


「分かりません」


「手紙が届く頃には、あの子がどこにいるかも分からないんですね」


 返せる言葉はなかった。


 ユリアは目を伏せた。


「昨日までに届いてほしかったんです」


 卓へ、手をついた。


「知らない場所へ行ってからではなく」


 指先に力が入った。


「ここへ帰ってこられるうちに、読んでほしかったんです」


 封筒は軽かった。


 この中に書かれた言葉は、もう期限に間に合わない。


 いつか届いたとしても、昨日までに届いた手紙と同じものにはならない。


「申し訳ありません」


「謝っても、明日は来ます」


 ユリアは、窓の外を見た。


「妹も、行きます」


「はい」


「私が行かなかったと思ったまま」


「……はい」


 機械のほうへ背を向けた。


 仕事へ戻るのだと思った。


 けれど、その場から動かなかった。


「妹の行く場所が分かったら」


 こちらを見ないまま言った。


「教えてください」


「必ず」


「手紙も」


 一度、息を吸った。


「捨てないでください」


「捨てません」


 ユリアは、それ以上何も言わなかった。


 機械の前へ戻り、止まっていた布を手に取った。


 針を動かそうとして、何度か糸を取り落とした。


 拾うために屈んだ背が、小さく震えていた。


 それでも、声はかけられなかった。


 届かなかった封筒を持ったまま、工房を出た。


 中央局へ戻ると、テオが受取人の移送先を照会する書類を用意していた。


 北部療養院から通知が届くまで、数日はかかる。


 そのあいだに、妹は新しい施設へ着く。


 手紙より先に。


 配達不能票を手元へ寄せた。


 これまでなら、一行で終わる紙だった。


 風路異常に伴う運航停止につき、期限内配達不能。


 その下へ書き足した。


 原本、期限内配達不能。


 受取人移送予定につき、移送先照会中。


 宛先確認後、配達を継続する。


 テオが横から見ていた。


「届いても、もう間に合いませんね」


「はい」


「妹さんが読んでも、帰れるとは限らない」


「はい」


「それでも、届けるんですか」


 封筒を、配達不能の箱には入れなかった。


 未配達の便の中へ戻した。


「間に合わなかったことと、届けなくてよいことは、同じではありません」


 北部療養院と書かれた宛名は、明日の朝には古くなる。


 それでも、封筒の中には、姉が迎えに行くと書いた言葉が残っている。


 妹がそれを知らないままなら、この手紙はまだ届いていない。


「終わらせないんですね」


「終わっていませんから」

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