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簡易帰投票

 朝一番に、扉が開いた。


 ノックはあった。返事を待たずに開いただけだ。


 入ってきたのは、飛行外套を着た郵便魔女だった。肩に鞄の跡がついている。今朝、一度は着陸場まで行った者の身なりだった。


 ナディア・ロルフは、配達予定票を机へ置いた。


「誰が、止めたんですか」


「私だ」


 窓際にいたレオンハルトが答えた。


 ナディアはそちらへ向き直った。息を吸ったのは一度きりだった。


「理由を、聞いても」


「同じ風路で、帰投が続いている」


「そのうち一件は、私です」


「知っている」


「なら、私が飛べることも知っていますよね」


 マルタは昨夜、この人の飛行記録を読んでいた。


 風標の消灯を確認し、進行を中止した。無理に越えず、所属局へ帰投した。


 戻るべきときに戻れる魔女だった。


「帰ったから、もう飛ばせないんですか」


 机に置かれた予定票が、指先でわずかにずれた。


「一度戻ったら、そういう扱いになるんですか」


「違います」


 マルタは、原票と台帳の写しを並べた。


「まず、こちらを確認してください」


 ナディアは原票を手前へ寄せた。


「これは、私が書きました」


 次に、台帳の写しへ移る。


 読む手が止まった。


「……これも、私の記録ですか」


「台帳上は」


「違います」


 紙の一行を、爪の先でなぞる。


「私は、風標が消えていたから戻ったんです」


 写しには、経路継続困難のため、本人判断により任務中止、とあった。


 異常を見て戻ったのではない。


 続けられないと判断し、やめた。


 似ている。だが、同じではなかった。


「これでは」


 ナディアの指が震えた。


「私が、勝手にやめたみたいではないですか」


 テオが確認票を差し出した。


「この変更を申請しましたか」


「していません」


「変更後の内容を確認したことは」


「ありません」


「なら、誰が――」


「そんなことを調べて、今日の便に間に合うんですか」


 テオの問いが切られた。


 ナディアは、予定票をもう一度押し出した。


「期限は今日です。私が飛ばなければ、この手紙は届かない」


「それでも、今の状態では出せない」


 レオンハルトの返答は変わらなかった。


「昨日までは出していたでしょう」


「昨日まで把握していなかった。こちらの落ち度だ」


「調べたから、止めるんですか」


「異常が続いていると分かったから止める」


「では、いつなら飛べるんですか」


 誰も答えられなかった。


 風標が直る予定はない。


 異常が消えたと確かめた者もいない。


 確かめに行けば、その者も同じ空を飛ぶことになる。


 ナディアは、返されない答えをしばらく待った。


「止めるだけなら、簡単ですよね」


 声はもう強くなかった。


「止めた人は、落ちませんから」


 机の上には、二つの記録がある。


 本人が書いたものと、本人の知らない理由に変えられたもの。


 マルタは、その間へ手を置いた。


「帰投を決めたとき、ほかに見ていた者はいましたか」


「いません」


「同行者は」


「いませんでした」


「なら、風標が消えていたと証明できるのは、この原票だけです」


「だから書いたんです」


 ナディアは、すぐに返した。


「私しか見ていなかったから、書いたんです」


 テオの筆が止まった。


 本人しか見ていないものは、本人の紙にしか残らない。


 その一枚が書き換えられれば、帰った理由そのものが失われる。


「では、何を残せばいいですか」


 マルタは訊いた。


 ナディアの眉が寄る。


「今後、同じことをさせないためにです。帰投した直後に、あなたが残せるものは」


「空で書けと言うんですか」


「安全な場所へ降りたあとです」


「局へ戻る前に?」


「戻ってからでは、意味がないのです」


 ナディアは、台帳の写しを見た。


 外套の内側へ手を入れ、小さな厚紙を取り出す。


 配達控え。中継地と受領時刻を書き込むためのもので、角が丸く擦れている。


「これくらいなら、持っていますけども」


 掌に収まる大きさだった。


「降りて、息を整えてからなら書けます。長い文章は無理です」


 テオが紙を一枚取り、項目を書き始めた。


 氏名。所属。配達番号。現在地。天候。風路の状態。風標の状態。帰投時刻。判断理由。荷物の状態。同行者。救援要請。署名。


 ナディアは途中で止めた。


「書けません」


「安全な場所へ降りてからです」


「それでもです」


 紙の上には、既に十を超える項目が並んでいる。


「疲れて、手が震えて、雨が降っているかもしれない。これを書き終える前に、次にしなければならないことがあるかもしれない」


「ですが、減らせば記録が――」


「書けなければ、何も残りません」


 テオは黙って、項目へ線を引いた。


 何度か消し、書き直し、残った欄をナディアへ見せる。


 帰投を決めた時刻。


 最後に確認した風標。


 異常の種類。


 最後に安全だった地点。


 本人の署名。


「最後に安全だった地点は、必要です」


 それはテオが書いたものではなかった。ナディアが空いた欄へ加えた。


「なぜです」


「私が戻らなかったとき、そこまでは探しに来られるでしょう」


 誰も、その項目を消さなかった。


 複写を三枚重ね、同じ番号を振ることになった。


 一枚は本人が持つ。


 一枚は所属局へ出す。


 一枚は、所属局を通さず監察課へ送る。


 一枚だけ変えれば、残りと食い違う。


 それ以上の説明は必要なかった。


「これは」


 ナディアは試作の票を指で挟んだ。


「帰ったあと、また疑われないための紙ですか」


「帰った理由を、ほかの理由に変えさせないためです」


 テオの返答を聞き、ナディアは票を外套へ入れた。


「それで、今日の便は」


「止めたままだ」


 レオンハルトが告げた。


「確認飛行を行う。保全担当を風標の手前まで同行させる。危険区間へは入らない。最初の異常を確認した時点で戻れ」


「手紙は持たせない?」


「持たせない」


「それは配達ではありません」


「分かっている」


 ナディアは、机に残された予定票を見た。


「期限は今日です」


「分かっている」


「確認している間に、期限が過ぎます」


「それでも、出せない」


 今度は、ナディアも反論しなかった。


 試作票を三枚、外套の内側へ押し込む。


 予定票だけが、机に残った。


 戻ってきたのは、日が傾いてからだった。


 外套の裾から水が落ちている。髪も頬も濡れていた。雨を抜けたのか、雲の中へ入ったのかは分からない。


 ナディアは監察課へ入るなり、票を一枚置いた。


 紙は水を吸い、端が波打っている。字は枠からはみ出し、時刻は鐘の数しか書かれていなかった。


 だが、読めた。


 風標、一基消灯。


 もう一基、点滅。


 風路、沈下。


 最後に安全だった地点。


 署名。


 テオは記入欄を追い、不足している箇所で指を止めた。


「……時刻が、分までありません」


「鐘までは聞きました」


 ナディアは濡れた袖を絞った。


「時計を見る余裕はありませんでした」


 欄から字がはみ出している。


 丸は二つの項目にまたがっていた。


 紙も、規定も、まだ不完全だった。


 それでも、風標が消えたことは残っている。


 風路が沈んだことも、どこまでなら安全だったかも、誰の判断で帰ったのかも消えていない。


 テオは受領欄へ、自分の名を書いた。


「受理します」


 ナディアは、その手元を見届けた。


「これで、戻ったことになりますか」


「戻った理由まで、残ります」


 複写の一枚を受け取り、外套の内側へしまう。


 自分の分だった。


「代わりの便は、出ましたか」


 誰もすぐには答えなかった。


 ナディアの視線が、朝に置いた予定票へ移る。


 同じ場所に残っていた。


「出ていないんですね」


「別の経路を探している」


「見つかりましたか」


 返事はなかった。


 ナディアは予定票を手に取らなかった。


 そのまま監察課を出ていった。


 夜になって、止めた便についての連絡が回ってきた。


 代替経路なし。


 本日中の到着、不能。


 マルタの机には、今日できたばかりの帰投票がある。


 濡れ、歪み、枠からはみ出した文字。


 それでも、帰った者の言葉は残った。


 今日からは、本人の知らない理由へ変えることが難しくなる。


 その代わり、今日届くはずだった手紙が一通、届かなかった。


 横から伸びた手が、連絡票を引き寄せる。


 レオンハルトは二行を読み、机へ戻した。


「次、だな」

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