調査権限
退職の届は正式に受理されており、確認は簡単にできた。
町を二つ越えた先の、小さな宿だった。表に看板が出ている。二階が客室で、一階が食堂になっているらしい。昼を過ぎた時刻で、客はいなかった。
イルゼ・ハルトは、その食堂の奥から出てきた。
前掛けを外しながら来て、二人の腕章を見て、足が止まった。
テオの左腕には、調査記録官の証票がある。今朝、支給されたばかりのものだ。糸の色が、まだ褪せていない。
「中央局から来るようなことは、もうないと思っていました」
声には、棘はない。だからと言って、歓迎されているようにも思えない。
「マルタ・キールです。監察課から参りました」
「テオ・ランズです。調査記録官です」
イルゼは、椅子を三つ、卓の周りへ寄せた。
外で、風が鳴った。宿の裏手のどこかで、金具が擦れる音がする。
イルゼの目が、一瞬、そちらへ動いた。動いてから、自分でそれに気づいたような顔をして、椅子へ座った。
「風標の音に、似ているんです。あれは、ただの雨戸の掛け金ですが」
相槌を打つべきか。いや、それよりも本題を。
鞄から一枚紙を取り出す。
「この帰投記録について、確認したいことがあります」
原票。
イルゼは、それを手前へ引き寄せた。
「私が書いたものです」
「間違いありませんか」
「字が、下手なもので。読みづらいですよね」
それから、指で日付を追った。
「よく、残っていましたね」
マルタは、二枚目を出した。
中央台帳への転記の写しだ。
イルゼは、二枚を並べて、しばらく見比べていた。
最初は、上から順に読んでいた。途中で、視線が止まった。それから、また原票へ戻った。二枚のあいだを、二度、往復した。
「……風標のことが、抜けて?」
「はい」
「担当者判断による、配達中止」
読み上げてから、顔を上げた。
「私の判断で、やめたことになっているんですか?」
確認票は、まだ、出すべきではないだろうか。
「当日のことを、伺えますか」
テオが言った。
イルゼは、少し考えてから話し始めた。順序は、整っていなかった。
「風標が、二基、消えていました。行きの時点では点いていたものです。折り返しで見たら、なくなっていて」
「二基とも、ですか」
「……はい。片方だけなら、まだ進めたと思います」
「実際には、二基とも消えていた」
「それでも、一度は進みました。期限便でしたから。だから、最初から諦めたわけでは――」
「……責めているわけではありません」
テオが、筆を止めた。
「起きたことを、順に確認しています」
「……すみません。そうですよね」
イルゼは、卓の木目を見ていた。
「高度を下げました。下げたところで、箒が沈んで。一度目は、持ち直したんです」
「一度」
「二度です。二度目のほうが、深かった」
テオが、手元へ書き取っている。速記ではない。書き洩らさない速さで、そのまま書いていた。
「そこで、戻ろうと」
「そこでは、まだ」
イルゼは、そこで言い直した。
「……いえ。本当は、一度目で分かっていたんだと思います。それでも、進みました」
マルタは、何も言わなかった。
「二度目で、無理だと思って、戻りました。戻る途中で、風がもう一段、変わりました」
「戻ったあとは」
「上司へ、口頭で報告しました。それから、これを書きました。その日のうちです。ちゃんと、書いたつもりです」
「拝見しました」
テオが、原票へ目をやった。
「書いてあります」
イルゼが、一度、口を閉じた。
「その後、何か説明はありましたか」
「数日して、処理は済んだ、と」
「それだけ、ですか」
「はい。何の処理かも、聞きませんでした。終わったのだと思って」
「では、この記載も、そのときに」
「いいえ」
イルゼは、台帳の写しを押し返しかけた。
「こんなもの、今日、初めて見ました」
誰かに面と向かって嫌味を言われたことは、なかったという。
言われなかった代わりに、いくつかのことが起きた。
その月から、危険路線の割り当てが外れた。飛行適性の再検査を受けるよう通知が来た。中止を繰り返す者として扱われている、と感じるようになった。
「感じた、だけです。誰も、そうは言いませんでしたから」
イルゼは、前掛けを膝の上で畳み直した。
「そのうち、自分でも、そう思うようになりました。あのとき戻った私が、悪かったんだろうと」
辞めたのは、その次の年だったという。
当然のこと、と言うと冷たく聞こえるのかもしれない。
だからこそ、マルタには言えることが、なかった。
テオが、鞄から最後の一枚を出した。
「この票を、申請しましたか」
確認票だった。
イルゼは受け取り、上から順に読んだ。
申請者欄で、指が止まる。
空白だった。角印だけが、押してある。
「これを、私が」
「はい」
「していません! 見たことも、ありません!」
「変更後の内容について、説明を受けたことは」
「ありません!!」
そこで、イルゼの指が、申請者欄から動いた。表題のほうへ戻る。もう一度、上から読み直している。
「……待ってください」
顔を上げた。
「では、私は、これを確認したことになっているんですか……?」
ここは間違いがあってはならない。
彼に任せるのではない。説明を引き取る。
「この票が添付されたことで、変更後の記録を、ご本人も確認したものとして処理されています」
イルゼは、怒鳴らなかった。
声を上げもしなかった。ただ、確認票を卓へ置いて、その隣の原票を見た。
「私が書いたものは、残っていたんですよね」
「はい」
「では、どうして、こちらが使われたんですか」
マルタは、答えられなかった。
テオが口を開きかけ、閉じた。
「それを、調べるために、確認に来たのです」
テオは、それだけ言った。
イルゼは、確認票へ指を置いた。
「私が確認したことになっているなら、私の名前も、あるんですか」
「確認の対象としては、あります」
「申請した者としては」
「ありません」
イルゼは、その空白を、しばらく見ていた。
「誰も出していないのに、出されたんですね」
テオが、聞き取り記録の用紙を出した。
「本日伺った内容を、正式記録へ入れます。署名を、いただけますか」
イルゼは、筆を取らなかった。
「入れて、どうなるんです」
「当時の所属支局と、人事の担当へ、照会が及びます」
イルゼは、筆へ手を伸ばしかけて、止めた。
「今度は、消えません、よね
彼の方を見た。
この男が何と答えるか、分からなかった。
消えません、と言えば、それで済む。相手は署名するだろう。
テオは、すぐには答えなかった。
用紙の、記録官名の欄を見ている。自分の名を書く欄だ。
「消させないために」
テオが言った。
「私が確認しに来たんです」
イルゼは、その欄を見た。
それから、筆を取った。
署名は、原票の字と同じだった。下手だと本人が言った、あの字だ。
書き終えてから、イルゼは立ち上がった。
「少し、待ってください」
奥へ入って、しばらくして、一枚の紙を持って戻ってきた。
折り目が四つついている。長く、どこかに挟んであったものらしい。
「辞める前に、届いたものです」
飛行適性の再検査通知だった。
テオが受け取り、読んだ。読みながら、途中で速さが落ちた。
「……理由の欄に、記載があります」
マルタは、横から覗いた。
継続可能な状況における任務中止。
その一行が、印刷ではなく、手で書かれていた。
「この記載の根拠は」
テオが言った。
「台帳です」
マルタは、卓の上の二枚を見た。
原票には、風標が消えたと書いてある。台帳には、それがない。
「原票では、ないのですね」
「はい」
「これも、お預かりします」
テオが言った。
「写しを取って、お返しします」
「返さなくて、いいです」
イルゼは、首を振った。
「持っていても、もう飛びませんから」
それから、少し考えて、言い直した。
「……いえ。返してください」
テオは、頷いた。
「必ず、お返しします」
中央局へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
監察課の机に、持ち帰った紙が広がっている。
原票。台帳の写し。確認票。聞き取り記録。再検査通知。
テオが、次に調べるものを紙へ書き出していた。
確認票の発行台帳。角印の管理記録。イルゼ・ハルトの人事記録。飛行適性再検査の起案。当時の支局長から中央局へ送られた報告。
書き終えて、テオの筆が止まった。
二行目と、三行目を、指で押さえている。
「人事記録と、角印の管理記録は」
顔を上げた。
「私が申請しても……」
小さくため息をつき、申請書の調査者欄を見た。
「見栄を張ったんですから、最後までやり遂げなさい。」
テオの指が、紙から離れた。
「私の名前も、添えましょう。」
調査範囲の追加申請を書き終えた頃に、レオンハルトが来た。
黙って読んだ。二枚目の途中で、指が止まった。
「人事に対してまで踏み込んだのは、広げすぎだな」
「ええと、意味が良く」
テオの声が、少し上がった。
「推測で範囲を広げるな」
「推測では、ありません」
テオが、再検査通知を卓の上へ滑らせた。
「この通知の理由欄です。書き換えたあとの文言が、そのまま使われています」
レオンハルトが、それを取った。
理由欄の一行を、読んでいる。
継続可能な状況における任務中止。
「原票には、この文言はありません」
テオが言った。
「台帳にだけ、記されています」
部屋が、静かになった。
マルタは、二人のあいだで動かなかった。
レオンハルトは、通知を卓へ戻した。
「発行した者と、記録を変えた者と、人事へ使った者は」
「同じとは、限りません」
「そうだな」
それから、申請書を机へ置いた。
「責任を負えるか」
マルタは、その問いを知っていた。
あの日、同じ問いが、この人からこちらへ向けられた。あのとき答えたのは、自分だった。
今日は、違った。
「負います」
テオが答えた。
レオンハルトは、筆を取った。
許可者の欄へ自分の名を書き、その下の調査担当者欄を見た。
監察課長 マルタ・キール。
調査記録官 テオ・ランズ。
二人の名には触れず、そのまま申請印を押した。
「認めよう」
筆を置いた。
「その代わり、必ず報告を欠かすな。何かあってからでは遅い、それだけは守れ」
「はい」
「それから」
レオンハルトは、聞き取り記録のほうを指した。
「証言だけで、気持ちだけで、事実だと断定してはいけない」
テオは、すぐには返さなかった。
「……はい」
発行台帳が届いたのは、その夜のうちだった。
テオが頁を開き、イルゼの確認票の番号を照らした。
同じ番号帯が、続いている。
番号を一つずつ追って、該当する原票を引き出していく。マルタは、引き出された紙を受け取り、卓の上へ並べた。
どれも、帰投の記録だった。
風標消灯。風路の沈下。異常気流。
どの原票にも、風路か風標の異常が書かれていた。
台帳へ移されたとき、それだけが消えている。残っているのは、担当者の行動だけだった。
確認票の発行日と、台帳へ転記された日は、どれも近かった。
「何件ありますか」
マルタが訊いた。
テオは、数え終えた紙を、卓へ置いた。
「先に見つかっていた三件を入れて、六件です」
「すべて、不正だと」
「まだ、言えません」
テオは、そこで一度、言葉を切った。
「ですが、すべて、申請者がいません」
マルタは、六枚を順に見ていった。
最後の一枚で、手が止まった。
日付が、新しい。
退職者ではない。
「この方は」
テオが、名簿を引き寄せた。指が、列を下りていく。
「……在職中です」
マルタは、その原票を読んだ。
風標一基、消灯。継続困難と判断し、帰投。
台帳のほうを見る。
担当者判断による、配達中止。
この者も、異常を書いて戻っていた。
台帳には、その異常だけがない。
マルタは、配達予定表を出した。
その名を探す。あった。
明日の朝の便に、割り当てられている。
路線を見た。
同じ風路だった。
イルゼが戻り、エヴァが戻った、あの空だ。
「帰投した者を調べている間に」
マルタは、レオンハルトのほうを見た。
「また、同じ場所へ飛ばすんですか」
レオンハルトは、予定表を受け取り、路線と時刻を確かめた。
「止めろ」
「配達期限は、明日です」
「だから、何だ。守れる命は、守らねばならない。」




