照会継続中
「どうして、私を外したんです!」
テオは、綴りを閉じなかった。
なくなったと思っていた資料は、一枚も欠けずに、確りと、全て揃っている。
そのどこにも、自分だけがいなかった。
保管庫の空気は、冷えている。窓のない部屋だ。灯りは天井に一つきりで、机の上だけが明るい。
紙の匂いと、埃と、封蝋の匂いが満ちている。
マルタ・キールは、その机の向かいに立っていた。
保管庫を開けるには、二つの鍵と、開けた者の署名が要る。
誰が触れたかだけは、必ず残る部屋だった。
棚の三段目から出したのは、封をした綴りだった。監察課の封蝋。その上に、開封制限の札。テオに開けさせたのはこちらだ。
封を切るとき、彼の指は少し迷いを感じているのか、おぼついて見えた。
自分が集めた確認票の写しが、番号を振られ、日付順に並んでいた。
廃棄されたと思っていたものが、一枚も欠けずに残っている。
彼は、最初、安堵したように見えた。
その顔が、三枚目で変わった。
調査者の欄を、指で追ったからだ。
指は欄の上を二度往復した。二度目のほうが遅かった。
監察課長 マルタ・キール。
監察官 レオンハルト。
二つだけ。
「……これは、私が集めた資料ですよね……」
「そう、ですね」
「申請者欄の空白を見つけたのも」
「テオ、それは」
「私ですよね!?」
名前を呼んでも、止まらなかった。
テオは頁を前へ戻し、もう一度、調査者欄へ指を置いた。
「では、ここにないのは、なぜですか」
マルタは口を開いた。
用意していた言葉は、どれも先に言い訳になった。
「それは――」
「私が間違っていたからですか」
「違います」
それだけは、すぐに出た。
テオが顔を上げる。
「では、誰が外したんです」
扉が開いた。
ノックはなかった。この部屋へノックなしで入れる者は、多くない。
レオンハルトは、机の上の綴りを見た。それから、テオの指が置かれた欄を見た。
「開けたか」
「監察官」
テオは身体を向けたが、綴りから手を離さなかった。
「私の名を外したのは、あなたですか」
「……そうだ」
「それだけ、ですか」
「何が言いたい」
テオの眉が動いた。
「なぜ外したのか、と聞いているんです! 酷いじゃないですか、せっかく自分が」
「お前では意味がない」
「意味がない? 自分がしたことが無駄だとでも」
「若い記録管の戯言だと、流されて終いだ。使えるものは最大限、効果的に扱うべきだとは思わないか?」
「……だから、私を外した」
「そうだ」
レオンハルトの声は変わらなかった。
テオの指が、綴りの端を強く押さえる。
「それでも、これは、私が見つけたものです!」
「分かっている」
「なら――」
「声を抑えろ。」
強い声ではなかった。
それでもテオは一度口を閉じた。
「……なら、なぜ何も知らせなかったんです」
「言えば、お前は大人しく引いたのか」
「……納得のいく説明が有れば」
「説明はできん」
「内容ではなく、私が未熟だから、そう決めたんですか!」
「違う。先ほども言ったとおりだ。内容が正しいから、より効果的に使わなければならんのだ」
テオが黙った。
レオンハルトは、机の上の綴りを指した。
「間違っていたなら、封をして残してはいない」
「でも、残っているのは」
テオが言った。
声は大きくなかった。
「私以外です」
レオンハルトは答えない。
マルタも、何も言えなかった。
その言葉に、あの日の夕方を思い出す。
テオが確認票の束を持って部屋へ来て、申請者の欄が空欄だと言った日だ。
まだ誰にも話さないように、と答えた。
テオは納得していなかったが、それでも、あのときはまだ、言われたとおりに束を置いて帰った。
その夕方、レオンハルトが来た。
机の上には、発行台帳を出したままにしてあった。
レオンハルトは開いた頁を上から下まで読み、それから顔を上げた。
「あの記録官を、そのままにするのか」
「……調査を止めろということですか」
「そうではない、奴が見つけたことを伏せろ」
問い返され、マルタは言葉に詰まった。
「彼自身が見つけたものですよ? それを勝手に変えてしまうのは良くないのでは」
「だから何だ」
「受け取れる名誉は、きちんと本人が受け取るべきかと」
「奴を路頭に迷わせたいのか」
マルタは黙った。
レオンハルトは台帳を閉じた。
「過ぎた功績は、己の首を絞める」
「ですが」
「ですが、ではない」
声は低かった。
「若い記録管の名で照会を出せば、確認票より先に、あいつが消されるかもしれない」
「それでも、彼は――」
「本人が望めば、キャリアをどぶに捨て、路頭に迷おうと自己責任だとでも言うのかね」
返せなかった。
「続けるなら、責任を負える者の名でやれ」
翌週、正式照会の起案が回ってきた。
命令者の欄には、レオンハルトの名があった。
「マルタさんは」
テオの声で、保管庫へ引き戻された。
レオンハルトではなく、こちらを見ている。
「知っていたんですね」
「……はい」
「いつからですか」
「正式照会へ切り替わったときからです」
「ずっと、ですか」
「はい」
「一度も、話そうとは思わなかったんですか」
責める響きはなかった。だからこそ、逃げられないと思った。
「そういうわけでは」
「でも、話さなかった」
「そう、ですね、それはその通りです」
「監察官に止められたからですか」
ここで頷けば、この男の怒りは自分を通り過ぎる。
だが、黙ると決めたのは自分でもあった。
「それだけでは、ありません」
テオの目が、わずかに細くなった。
「では、マルタさんも、私を外した方がいいと思った」
「……はい」
答えると、テオは視線を落とした。
「そうですか」
その一言だけだった。責められるよりも、少し心が重いように感じる。
テオが綴りへ目を戻す。
「それで」
レオンハルトが、机の上の二枚を指した。
「今回は、何が残った」
「時刻です」
マルタは、エヴァの報告を開いた。
「風路の異常を確認してから、撤退を提案するまで三分。戻ってから救援を求めるまで、十二分」
「報告通りだな」
「消えた風標の数と、同行者が進んだ方向です。全部、本人の言葉で残っています」
こういう報告は、めったに上がってこない。ふつうは、担当者判断により中止、で終わる。
「過去の分は」
「古い記録のほうには、風標が消えたと書かれています」
マルタは、右の紙を出した。
二枚組だった。本人の書いた原票と、中央台帳への転記。原票のほうは、紙が薄く、端が擦れている。転記のほうは、新しかった。
「原票のほうです。台帳では」
「消えているのか」
「はい。担当者判断による配達中止に、変わっています」
レオンハルトは、その二枚を並べて見た。眼鏡を外し、原票のほうへ顔を近づける。
「誰が変えた」
「分かりません。追記者の欄がありません」
「……ですが」
テオが、綴りの途中で手を止めた。
「変更した者は残っていません。それなのに、本人が確認したことには、なっています」
「そんな馬鹿な話があるか」
テオは一枚抜き、机へ置いた。
申請者欄は空白だった。角印だけが押してある。
「帰投理由を変更したあと、本人確認済みとして添付されています」
レオンハルトが確認票を取った。
「誰の申請だ」
「書かれていません」
「本人が出したかどうかも分からない紙で、本人確認済みにしたのか」
「そう見えます」
「見える、ではない」
レオンハルトが紙を戻した。
「確かめろ」
同じ風路で、ほかにも見つかっていた。もっと古いものが、二件。どちらも同じだった。空の側にあった原因が、台帳では、その者の判断になっている。
風路が危険だったから戻った、が、その者が戻ることにした、へ変わっている。
「では、その者たちは、自分の都合で中止したことになっている」
誰も、答えなかった。
マルタは、講堂の壁を思い出した。石に彫られるのは、還らなかった者の名だ。還ってきた者は、彫られない。
彫られない代わりに、台帳の中に残る。
担当者判断による、配達中止として。
着任した日から、ずっと、そうだった。
テオは、帰らなかった。
綴りのいちばん後ろを、開いている。最後の頁に、追加分があった。インクの色が、前の頁までとは違う。
記録番号が、一件、書き足されている。
テオは、その番号を読んだ。それから、机の上のエヴァの報告書を見た。
同じ番号だった。
「……これも、調べるんですか」
「無論だ」
テオは、綴りから手を離さなかった。
「私を外して」
レオンハルトは、少し黙った。
眼鏡の奥から、この若い記録官を見ていた。いつもより長く。
やがて、短く息を吐き、
「今回は、お前も入れ」
とだけ付け加えた。
テオは、すぐには返さなかった。
綴りを閉じ、抱えるようにして持つ。抜いた確認票は、机の上へ残した。抱えてから、もう一度、封蝋の切れた縁を指で撫でた。
それから、扉のほうへ一歩動いてから、足を止めた。
「最初から、そうしてください」
レオンハルトは、謝らなかった。
「今回だけだ」
テオは一礼して、保管庫を出ていった。
足音が、廊下の途中で消えた。
「監察官」
レオンハルトは、机の二枚を重ね直していた。
「何だ」
「あれで、よかったんですか」
「よくはない」
意外な答えに、少し驚いた。
「だが、戻せない」
レオンハルトは、古いほうの原票を差し出した。
「本人を探せ」
「退職しています」
「死んでは、いないだろう」
マルタは、原票を受け取った。
「確認票を見せ、申請したのか確認をとれ」
それだけ言って、監察官は保管庫を出ていった。
机の上に残ったのは、三枚だけ。原票と、台帳の写しと、テオが綴りから抜いた確認票。
原票のほうを、もう一度読んだ。
風標消灯につき、継続困難と判断して帰投。
書いた者の名は、右下に、小さく残っていた。
台帳のほうには、その名はない。書き換えた者の名も、ない。
確認票の申請者欄にも、名はない。
その三枚を、綴りへは戻すべきか、少し考える。
原票の名前の下に、所属していた支局の名がある。退職の届が出ているなら、住所の届も、どこかに残っているはずだ。
灯りを消す前に、三枚をまとめて、脇へ挟んだ。




