生きています
扉の内側で、エヴァは床に座ったまま、便箋を持っていた。
部屋は暗い。灯りは点けていない。廊下から入る細い光だけが、床の上に一本、伸びている。その光の幅に、便箋を置いて読んだ。
机の上には、書きかけの紙が何枚か残っている。
どれも、途中で止まっていた。
帰りました、で止まっているもの。元気です、の下に何も続いていないもの。ごめんなさい、とだけ書いて、裏返してあるもの。もう飛べません、と書いて、その一行を線で消してあるもの。
消した線は、二度、引かれていた。
エヴァは、母の手紙を読み直した。
食事をしているか。寒くはないか。家で使っていた毛布を、まだ取ってあること。必要なら、送ること。
長い返事はいらない、と書いてあった。
無事でいるならそれだけでも、知らせてほしい、と。
エヴァは、新しい便箋を出した。
筆先を紙へ置く。
帰りました。
そこまで書く前に、手が止まった。帰った、とは書けない。
紙を裏返した。
元気です。
これも、途中で止まった。元気ではない。元気ではないものを、元気だと書いて出せば、次に会ったとき、その嘘が母の前に残る。
もう一枚、新しい紙を出した。
しばらく、そのまま持っていた。
やがて、一行だけ書いた。
生きています。
それだけだった。
謝らなかった。事故のことも書かなかった。いつ帰るとも、また飛ぶとも、書かなかった。書けることが、それしかなかった。
封筒に、母の名を書いた。マレン・リュット。それから、自分の名を書いた。
封は、まだ閉じれなかった。
朝、廊下に盆が置かれる音がした。
これまでは、足音が完全に消えて、しばらく経ってから鍵を外していた。器を引き込んで、また鍵を掛ける。それを十日、繰り返した。
今朝は、足音が階段へ消えたところで、手が動いた。
鍵を、外す。
扉を開けた。
廊下の光が、まともに入ってきた。目が、痛い。
足元には、盆があった。その隣に、封筒が積まれている。
中央局からのものだ。出頭通知。未提出書類の催促。差出の部署は、それぞれ違う。いちばん上の封筒は、角が折れていた。
全部は、拾わなかった。
監察部門からの一通だけを取った。差出人の名を見る。
レオンハルト。
エヴァは、その通知を持って、部屋へ戻った。
制服は、衣装箱の底にあった。事故の日から、触れていない。取り出すと、畳んだ折り目が、そのまま残っていた。
外套を広げる。裾に、小さな擦れがある。修繕の跡も一つ。去年、枝に引っかけて破いたところだ。あのときは、繕えばまた飛べた。
袖を通した。肩の位置が、少しずれている気がした。直して、もう一度、肩を入れる。
襟元の留め具で、手が止まった。
しばらく、そのまま止まっていた。
外した。
外套を脱いで、掛け直す。
息を吐いてから、もう一度、袖を通した。今度は、襟元まで留めた。
箒には、触れなかった。壁に立てかけたまま、そこにある。飛行鞄も、置いていく。
持つのは、局員証と、監察官からの通知と、母への封筒だけだった。
部屋を出て、外側から鍵を掛けた。
三階から、階段を下りる。
二階まで来ると、話し声がしていた。
その声が、途中で止まった。
廊下の先で、局員が二人、こちらを見ていた。片方が、目を逸らす。もう片方が、少し遅れて言った。
「……おはようございます」
エヴァは、すぐには返せなかった。
喉のあたりで、声が引っかかった。十日、ほとんど声を出していない。
二段、下りてから、口を開いた。
「……おはようございます」
相手がどんな顔をしたかは、見なかった。
一階で、管理人と会った。
管理人は、エヴァの制服を見て、それから顔を見た。
「中央局へ?」
「はい」
「箒は」
「置いていきます」
管理人は、それ以上、何も言わず、引き止めもしなかった。
エヴァは、母への封筒に指を触れてから、尋ねた。
「……風待ち郵便局は、どちらにあるかご存じですか」
「ローデン外れだと聞いていますよ。町を出て、しばらく行ったところだと」
エヴァは、それだけを聞いて、寮を出た。
女子寮から局舎までは、歩いて行ける。
外は晴れていた。冬の朝の空気が、肺の奥まで冷たい。十日ぶりの外だった。
途中で、着陸場の脇を通る。
郵便魔女が、次々と発っていく。柄に鞄を括りつけ、風標の灯を確かめ、順に空へ上がっていく。朝の便の時間だ。
箒が風を切る音がした。
足が、止まった。止めたのではない。止まった。
指が、局員証の角へ食い込んでいた。息が浅くなる。吸っているのに、足りない。
目の前で、一機が地面を離れた。
高度が上がる。風路の灯へ向かって、機首が傾く。
あの日と、同じ景色に思える。
エヴァは、その一機が空の高いところまで上がりきるのを、見ていた。見届けてから、目を落とした。
それから、局舎へ入った。
受付で通知を見せた。
「監察官レオンハルトへ、事故報告に参りました」
受付の局員は、名前を確かめ、少しだけ間を置いてから、案内を呼んだ。
通されたのは、監察官が聴取に使う部屋だった。窓は高いところに一つ。机が一つ。椅子は、机を挟んで、二つある。
机の上には、書類が揃えて置かれていた。
未提出の事故報告書。欠勤記録。寮の管理人からの在室報告。救援隊の記録。それから、先輩の回収報告。
どれも、きちんと角を揃えて重ねてあった。
レオンハルトは、書類から目を上げた。
銀縁の眼鏡の奥から、エヴァを見る。慰めの言葉も、労いの言葉もなかった。
「エヴァ・リュット。入れ」
エヴァは、机の前まで進んだ。座らなかった。
「帰局の報告に、参りました」
「十日遅い」
レオンハルトは、怒鳴らなかった。
書類を一枚ずつ動かしながら、確かめていく。
「十日間、無断欠勤。欠勤の連絡なし。帰投報告、未提出。救援要請後の経過報告、未了。中央局からの照会に、不応答。寮の管理人以外との連絡を、断っている」
一枚ごとに、事実だけが並んだ。
「負傷していたか」
「いいえ」
「声を出せない状態だったか」
「……いいえ」
「ならば、連絡はできた、そうだな?」
「……はい」
エヴァは、頭を下げた。
「申し訳、ありません」
レオンハルトは、そこで終わらせなかった。
「次に同じ状態になったとき、どうする」
答えられなかった。
沈黙が続いた。レオンハルトは、待たなかった。
「自分で話せないなら、管理人へ預けろ。長い報告が書けないなら、一行でいい。状態を説明できないなら、説明できないと伝えろ。飛べないなら、飛べないと報告しろ。一人で判断できないなら、上官を呼べ」
それだけ言ってから、書類を置いた。
「休むことを責めているのではない」
一拍、置く。
「戻った者が、戻ったことを知らせない。それが問題だと認識しろ」
エヴァの指が、母への封筒に触れた。
「事故当日の経緯を報告を」
エヴァは、口を開いた。
「先輩を置いて、逃げました」
レオンハルトが、遮った。
「それは余計な評価が混じっている」
顔を上げる。
「行動を報告しろ」
エヴァは、息を吸い直した。
言葉を、選び直す。起きたことだけ。
「……風路の乱れを確認しました。風標の灯が、二つ、見えなくなっていました」
「それから」
「継続は危険だと、判断しました。先輩へ、撤退を提案しました」
「彼女の応答は」
「期限を理由に、続行すると」
「それから」
「私は、帰投しました。局へ戻って、救援を要請しました。風路の位置と、先輩の進行方向を伝えました」
「その後は」
「救援隊が出て、先輩を回収しました。手紙は、未達となりました」
レオンハルトは、救援隊の記録を引き寄せた。
「異常を認めてから、撤退を告げるまで」
「……三分ほどです」
「帰投から、救援要請まで」
「十二分です」
「最初に伝えた情報は」
「風路の位置と、先輩の進行方向です」
レオンハルトは、記録と照らした。指が、行を追う。
照らし終えて、書類を戻した。
逃げた、という一語には、収まらなかった。三分と、十二分と、伝えた情報の順番が、事実として並んでいた。
「結論を分けよう」
レオンハルトは、書類を二つの山に分けた。
「服務上の問題。無断欠勤、帰投報告の未提出、照会への不応答。これらについて、厳重注意とする」
左の山を、指で示す。
「復帰後も、当面は毎日の状態報告を義務づける。欠勤する場合は連絡すること。飛行の可否は、その都度申告すること」
それから、右の山へ手を置いた。
「事故時の判断について」
エヴァは、身体が固くなるのが分かった。
「撤退の判断は、妥当。帰投後の救援要請は、迅速。現場情報の伝達も、適切。事故時の行動に、懲戒の対象となる違反はない」
言葉が、うまく入ってこなかった。
「……ですが、私が一緒にいれば、先輩は」
「仮定は報告書へ書くな」
声は、大きくならなかった。
「お前がついていって、二人とも無事だった可能性は、ある。だが、負傷者が二人になった可能性もある。どちらも、証明できない」
書類の角を、指で揃える。
「書けるのは、起きたことだけだ」
報告が終わった。
エヴァは、退出しなかった。
「勤務へ、戻りたい、です」
「飛べるのか」
すぐには、答えられなかった。
着陸場で足が止まったことを、思い出した。一機が上がるのを見ていただけで、息が浅くなった。
「……まだ、分かりません」
「なら、配達勤務への復帰は認めない」
エヴァは、扉のほうへは動かなかった。
「飛ばない仕事を、させてください」
レオンハルトが、目を上げる。
「何をする」
「事故報告を、完成させます」
それから、もう一つ言った。
「未達になった手紙の、別経路を調べたいです」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
「代わりに自分が届ければ、帳消しになると思っているのか」
「……分かりません」
一拍、置いた。
「ただ、戻ったままで、終わりたくありません」
レオンハルトは、書類を一枚引き寄せ、そこへ書き込んだ。
「配達勤務は、認めない。当面、事故報告と未達記録の照会に就け」
筆を止めずに、続けた。
「正式な復帰判断が出るまでは、飛行業務と単独での現地調査を禁ずる。毎日、状態を報告しろ。状態によっては、再び休務とする」
顔は上げずに、言った。
「使えるところで、使うだけだ」
書類を抱えて、扉へ向かった。
取っ手に手を掛けたところで、後ろから声がした。
「エヴァ・リュット」
手が止まった。
振り返る。レオンハルトは、机の書類を見ていなかった。こちらを見ていた。
「あの風路で、引き返した判断は正しい」
エヴァは、振り返ったまま動かなかった。
「救援要請も早かった。お前が帰投したから、救援隊は先行した者の位置を追えた」
一度、言葉が切れた。
「よく、引き返してきた」
指の中で、通知の端が曲がった。
「よく、生きて戻った、感謝する。ありがとう」
エヴァは、頭を下げた。そのまま扉を開け、部屋を出た。
廊下の筆記台で、封を閉じた。
母への一行を封筒に入れ、糊で留める。指で、押さえた。
一般窓口の列が見えた。
エヴァは、封筒を持ったまま、そこを通り過ぎた。
預ける相手は、決めていた。
ロットは、書類を抱えて歩いていた。エヴァの制服を見るなり、足を速めて近づいてくる。
「お戻りになったんですね。よかった。皆さん、ずいぶん心配されていました。管理人の方からも、食事はなくなっているとは聞いていましたし、それでも十日というのは――」
「まだ、配達勤務には戻りません」
「そうなんですか。ですが、制服を着ていらっしゃるので、てっきり――」
「ロットさん」
「はい」
エヴァは、封筒を差し出した。
「風待ち郵便局へ、お願いします」
ロットが、宛名を見た。
「マレン・リュット様。お母様ですね。でしたら、中央局便でも――」
「三通、戻っています」
「ああ」
ロットの手が、止まった。
「……そうでした」
忘れていたらしい。
「風待ち郵便局へ、預けてください」
「承知しました。中には、ご無事だということを――」
「内緒です」
「……失礼しました」
「受付箱へ入れてください」
「承知しました」
記録業務の机は、局舎の奥にあった。
通常配達の待機列には、入らなかった。箒も、持っていない。
机の上に、書類を並べる。
自分の事故報告書。先輩が運んでいた未達便の記録。代替経路の照会用紙。
事故報告の、帰投理由の欄を開いた。
筆先を、置く。
逃走、とは書かなかった。先輩を見捨てた、とも書かなかった。
書いたのは、一行だった。
風路の継続が困難と判断し、救援要請のため帰投。
起きた行動だけを、そのまま書いた。
次に、未達便の照会用紙を引き寄せた。
窓の外で、箒が飛び立つ音がした。
筆が、止まる。指先に、力が入った。
エヴァは、窓のほうを見なかった。
筆先を紙へ戻し、最初の照会先を書いた。
帰りました、とは書けなかった。
元気です、とも書けなかった。
書けたのは、一行だけだった。
『生きています』
その一通を預けてから、エヴァは、未達便の最初の照会先を書いた。




