届けると言うこと
階段を上がるごとに、寮の音が減っていった。
一階では、食器の触れ合う音がしていた。厨房の戸が開くたび、湯気の匂いが階段の下まで届く。
二階では、閉じた扉の向こうから、話し声が漏れていた。誰かが笑い、誰かがそれに答えている。
言葉までは、聞き取れない。
三階まで来ると、それも聞こえなくなった。
階ごとに、空気が冷えていく。窓が北向きになるのは、この階からだ。踊り場の窓は、下の二枚より小さかった。冬の光は、そこから短く入って、廊下の途中で力を失っている。
両側の扉は、どれも閉じていた。いくつかの扉には、木札が下がっている。配達中。不在。戻りは夕刻。
住人が、自分で掛けていったものだ。いちばん奥の扉にだけ、札はない。
その扉の前の封筒も、積まれたままだった。数が増えたかどうかは、確かめなかった。いちばん上の封筒の、折れた角も、昨日のままに見えた。
昨日、長く座っていた壁際が見えた。石の床の、その一角だけ、埃の乗り方が薄い。
今日は、そこへは座らなかった。
クラリスが扉の前へ立つ。まだ叩かないうちに、内側から声がした。
「短くして、ください」
「昨日の続きで、よろしいでしょうか」
「要点だけで」
「承知しました」
立ったまま、話す。
鞄の中で、四通目は、昨日と同じ場所にある。向きも、変えていない。
「八通、届けられませんでした」
扉の向こうで、間があった。
「……八通も?」
「はい」
「同じ日に?」
「同じ夜です」
「どうして、届けられなかったんですか」
クラリスは、一件ずつは説明しなかった。
「一人は、町の病院へ移されていました」
「病院に、行ったんですか」
「門までは、行きました」
夜の病院は、門から先へは入れなかった。受付の窓口で、その日の移送名簿を見せてもらった。指で追って、二度、上から下まで確かめた。
「名簿に、お名前がありませんでした」
「間違いじゃ、ないんですか」
「同じことを、伺いました」
名簿にないなら、この病院へは来ていない。あるいは、名簿に書かれる前に、別の場所へ移された。窓口の人は、どちらとも言わなかった。言えることが、なかったからだ。
「移された先が、分かりませんでした」
もう一通のことも、話した。
「一人は、夜のうちに、別の場所へ動いていました」
「家に、いなかったんですか」
「家は、開いていました」
戸に鍵は掛かっていなかった。声をかけて、返事がないのを確かめてから、中を覗いた。人のいる部屋の匂いは、まだ残っていた。
「暖炉の灰に、火はありませんでした。落としてから、時間が経っていました」
「……それで、どうしたんですか」
「近くの家を、回りました。二軒で、話を伺えました。どちらも、どこへ動いたかまでは、ご存じありませんでした」
残りのことは、まとめて言った。
「お名前までは分かりましたが、ご本人の確認まで、至らなかった方もいます」
「時間が、足りなかったんですか」
「はい」
「それで、戻った」
「戻りました」
「手紙を、持ったまま」
「はい」
声が、少し硬くなった。
「……それなら、私と同じじゃないですか」
クラリスは、すぐには否定しなかった。
「似ています」
「何が違うんですか」
「戻ったあとのことを、まだ、お話ししていません」
「戻って、それで終わりですか」
「いいえ」
クラリスは、翌朝のことを話した。
八通を机の上へ並べた。受付帳を開き、一通ずつ、届かなかった理由を記録した。
「移送先が分からないものと、転居先が分からないものと、ご本人を確かめられなかったものを、分けて書きました」
「同じじゃ、ないんですか」
「探す先が、違います」
病院を照会すればよいもの。ギルドで転居記録を当たるもの。近隣へもう一度伺うもの。分け方が違えば、次にどこを確かめるかが変わる。
「分からないものは、分からないと書きました。書けない欄は、空けたままにしました」
「空けて、いいんですか」
「埋めるほうが、よろしくありません」
受取人がいなかったことと、こちらが探し切れなかったことは、同じではない。
同じ欄へ入れれば、どちらも同じ理由で届かなかったことになる。
「配達不能、とは、書きませんでした」
「では、何と」
「未達です」
「違うんですか」
「配達不能は、届ける方法がない、という意味です」
それは、こちらが決めることではない。
「未達は、まだ届いていない、という意味です」
「……それだけの、違いですか」
「はい」
受付帳の欄は、それで埋まった。
「失敗として、記録しました」
「記録しただけ、ですか」
「その日は、記録までです」
「それで、何か変わったんですか」
「あの夜、八通を届けられなかったことは、変わりません」
「なら」
「翌日、どこから探し直せばよいかは、分かりました」
「……それだけ?」
「それだけです」
一拍、置いた。
「たいへん、不十分でした」
クラリスは、それを立派なことのようには言わなかった。
「ですが、不十分であることと、何もしないことは、同じではありません」
「その八通は、どうなったんですか」
「少しずつ、減っています」
「届いたものも、あるんですか」
「はい」
病院を照会して、移された先が分かったものがある。次の町まで追って、そこで渡せたものがある。しばらくして、自分から家へ戻ってきた受取人もいた。届いたものは、棚から減った。控えは、配達済みの側へ移した。
「まだ、残っているものも」
「あります」
「いつまで、探すんですか」
「届くか、届かない理由が確かになるまでです」
しばらく、返事がなかった。
「戻って、よかったと思いますか」
クラリスは、すぐには答えなかった。
鞄の留め具へ、手を置く。中には、今日持ってきた四通目がある。
「よかったことには、できません」
「どうして」
「あの夜、届けられませんでしたので」
扉の向こうが、黙った。
「……でも、戻らなかったら」
「届かなかった理由を、持ち帰れませんでした」
「それなら、戻ってよかったんじゃ」
「いいえ」
「どっちなんですか」
「どちらも、残ります」
クラリスは、短く並べた。
「届けられなかったこと。戻ったこと。戻ったあとに、記録したこと」
どれか一つで、ほかが消えるわけではない。
「私は、失敗して、戻りました」
少し、間を置いた。
「それから、次の手紙を受け取りました」
返事が、遅れた。
「……怖く、なかったんですか」
「何が、でしょう」
「また、飛ぶのが」
「怖くなかったとは、申しません」
「それでも、飛んだんですか」
「次の宛先が、ありましたので」
「また、届けられなかったら」
「その時に、考えます」
扉の向こうで、息を吸う音がした。
けれど、言葉は続かなかった。
クラリスは、鞄から四通目を出した。
紙の擦れる音が、廊下へ響く。
「こちらも、次のお手紙です」
「お受け取りに、なりますか」
長い、沈黙があった。
「……返事は、書けません」
「手紙を受け取ることと、返事を書くことは、別です」
「母は、待ちます」
「すでに、待っていらっしゃいます」
責めるつもりは、なかった。事実として、置いた。
「読んだら、もっと待たせます」
「読まなくても、待っていらっしゃいます」
扉の向こうは、黙った。
クラリスは、封筒を扉の下へは入れなかった。扉の前にも、置かない。
手に持ったまま、待った。
踊り場の窓が、どこかで鳴っている。建て付けの緩んだ枠を、風が押しているのだろう。その風は、廊下の端まで来て、封筒の角を揺らした。
指で、押さえる。
封筒は、軽い。便箋が数枚しか入っていない重さだ。それを片手で持ち続けていると、腕の付け根より先に、指先が冷えてくる。持ち替えて、もう一方の手で持った。
廊下の光が、床の上を少し動いた。
下の階で、扉の開く音がした。誰かが出て、しばらくして、誰かが戻る。階段を上がる音が、二階で止まった。三階までは、上がってこない。
扉の内側では、床板が一度も鳴らなかった。
「……置いて、いかないんですか」
「お渡ししていませんので」
「受け取らなかったら」
「持ち帰ります」
「また、来るんですか」
「必要でしたら」
「毎日ですか」
「そうなるかもしれません」
「……そんな仕事、ありますか」
「私の仕事です」
しばらくして、鍵の内側で、金属が擦れた。
一度、音が止まる。
クラリスは、待った。急かす言葉は、足さない。
もう一度、鍵が動いた。
留め金が外れ、蝶番が短く鳴った。
扉が、封筒一枚を渡せるだけ、開いた。
隙間から、部屋の空気が流れ出した。廊下より、冷えていた。長く暖を取っていない部屋の匂いがした。
見えたのは、暗い室内と、扉の縁を掴む指と、袖口だけだった。細い光が、廊下の床へ落ちている。その光の幅は、封筒の幅と、そう変わらなかった。
クラリスは、封筒を差し出した。
手が伸びる。封筒の手前で、一度、止まった。
クラリスは、押し込まなかった。差し出した高さも、変えない。
やがて、エヴァの指が、封筒の端を掴んだ。
少しのあいだ、二人で一通を持っていた。それから、クラリスが指を離した。
「確かに、お渡ししました」
扉が閉まる。
鍵が、もう一度、掛かった。
扉の前で待つ必要は、もうない。
「本日の配達は、以上です」
返事は、ない。
階段のほうへ、歩き出す。
数歩進んだところで、背後から、封の端を破る音がした。
足を止める。振り返りは、しない。
しばらくして、扉の向こうから、声がした。
「……毛布」
「はい」
「まだ、あるって」
クラリスは、知っていたとは言わなかった。
「そうですか」
「送れるって、書いてあります」
「必要でしたら、お返事に、なさってください」
「書けません」
「本日は、書かなくても、よろしいのでは」
沈黙があった。
「手紙は、もう届きましたので」
クラリスは、そのまま階段を下りた。
二階では、また話し声がしていた。一階では、食器の音がしていた。寮の外へ出ると、風が正面から来た。
四通目は、届いた。
返事は、まだない。




