↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/64

吐けない嘘

 窓から差す日の光が、扉の影を廊下の反対側まで伸ばしていた。


 夕方が、廊下の奥から近づいてきている。クラリスは、扉の脇へ座ったまま、鞄の中の手紙と、その光だけを確かめて待った。急かす言葉は、足さない。


 石の床から上がる冷たさは、座り始めた頃より深くなっていた。膝は、もう痛みに慣れていた。


 しばらくして、扉の向こうで、声がした。


「受け取りません」


 先ほどまで、言わずにいた言葉だった。


 今度は、はっきりと口にした。


 クラリスは、復唱して確かめた。


「マレン・リュット様からのお手紙を、受け取らない」


「はい」


「理由は、伺えますか」


「必要ですか」


「配達には、必要ありません」


 一拍、置いた。


「ですが、これで四度目、四通目を持ち帰るには、伺いたいと思っています」


 制度で決まっている、とは言わなかった。これは、自分が納得するための問いだ。そのことは、偽らない。


「差出人に、心当たりは、ありますか」


「……母です」


「お母様からの手紙を、読みたくないのでしょうか」


 沈黙があった。


「違います」


 初めて、エヴァのほうから、否定が返った。


 クラリスは、鞄の留め具へ指をかけた。


 封筒を出すことはできる。扉の下へ滑らせることもできる。


 けれど、それでは、扉の前に積まれた封筒と、同じになる。


 指を、離した。


「では、手紙が要らないのでは、ありませんね」


「そういう言い方、好きじゃないです」


「ほかの言い方を、知りませんので」


 小さく、息を吐く音がした。


 それでも、次の言葉は返ってきた。


 返事はある。


 扉は、開かない。


 たいへん、半端である。


「受け取れば、何かを返さなければならない。そう、思っていますか」


 扉の向こうが、静かになった。


 クラリスは、その静けさに、意味をつけなかった。ただ、待った。


 やがて、声が戻った。


「母は、返事を、待っています」


「そうでしょうね」


「元気だと、書かなければなりません」


「そう、決められているのですか」


「ほかに、何を書くんですか」


 クラリスの頭に、ロットの添え書きがよぎった。毛布を、まだ取ってある、と書いてあった。


 言わなかった。あれは、母親が娘へ書くことで、配達人が娘へ告げることではない。


「それを決めるのは、書く方です」


「元気でも、ないのに」


「でしたら、元気とは、書けません」


「……そんな手紙、送れません」


 廊下の向こうで、靴音が止まった。


 二人分だった。話し声は、こちらへ来る前に消えた。


 やがて、また歩き出す。


 この扉の前を通るときだけ、足音が遅くなった。


 声は、かからなかった。


 クラリスは、閉じた扉を見た。


「ご自宅へ、戻りたいのでしょうか」


「帰れません」


「……戻りたくないのですか」


「そういう意味じゃ、ない!」


 初めて、声が強くなった。


「私が帰れば、母だって困るんです!」


「ええ。」


「務めから逃げた臆病者の親と言われて、お金だって……!」


 その言葉が指す意味は理解できる。郵便魔女になるとは、高い報酬を得られる代わりに、国の持ち物になるということだ。


「私は、戻っただけ、なのに」


「戻っただけ」


 そこから先は、順には出てこなかった。


 風路が崩れた。戻るべきだと言った。先輩は、行った。自分は、ついていかなかった。救援を、呼んだ。先輩は、負傷した。手紙も、届かなかった。


 先ほど、管理人から聞いたのと、同じ事実だった。今度は、エヴァの口から、途切れながら出た。


「わかっています、私は、戻ったんじゃ、ありません」


「では、何を、なさったのですか」


「逃げたんです」


 クラリスは、すぐには否定しなかった。


 違います、とも、正しい判断でした、とも言わない。扉の外から結論を渡すのは、配達ではない。


「救援を呼んだのは、エヴァ様ですか」


「……はい」


「先輩の方は、生きて帰られた」


「私が置いてきたから、落ちたんです」


「それを、先輩の方が、仰ったのですか」


 返事が、止まった。


「中央局の方が、でしょうか」


 沈黙。


「どなたが、仰ったのでしょう」


 答えは、返らなかった。


 しばらくして、エヴァが言った。


「誰も、戻ってよかったとは、言いませんでした」


 クラリスは、いちばん上の封筒を見た。


 角が折れていた。何度か、廊下を通る靴に触れたらしい。


 その下にも、同じ大きさの封筒がある。さらに、その下にも。


 ずれて重なった封筒には、それぞれ違う部署名が印刷されていた。


 同じなのは、宛名だけだった。


 エヴァ・リュット。


 帰った者へ宛てられた封筒は、ずいぶん多い。


 差出人は、どれも事情や経過を扱う部署だった。


 たいへん、不足している。


「だから、母にも、書けません」


「何を、ですか」


「帰りたいって」


「そう、ですか」


 クラリスは、その言葉を、言い換えなかった。戻ることと帰ることは違う、と整理してやることも、しない。代わりに、事実を一つ、置いた。


「お母様は、今のエヴァ様を、ご存じありません」


「知らなくて、いいです」


「それは、お手紙を受け取ってから、お決めください」


「……何も知らないくせに!」


「はい」


「ですので、伺っています」


 窓の外が、暗くなり始めた。


 廊下の遠くで、扉の開く音がした。配達を終えた住人が、一人、また一人と、戻ってくる気配がある。


 この日、手紙は、受け取ってもらえなかった。


 夜まで居座れば、エヴァの暮らしにも、寮にも、負担になる。


 クラリスは、壁へ手をついた。


 膝が伸びきるまで、少しかかった。


 外套の裾についた埃を払い、鞄を肩へ掛け直す。


 留め具の内側には、四通目がある。


 扉の向こうからは、何も聞こえなかった。


「本日は、戻ります」


 扉の向こうで、衣擦れの音がした。


 クラリスは、鞄の留め具へ、指をかけた。金具が、小さく鳴る。


「……返すんですか」


「まだ、返しません」


「受け取らないって、言いました」


「伺いました」


「なら」


「明日、もう一度、伺います」


 エヴァは、黙った。


 クラリスは、扉の前の封筒をまたがず、来たときと同じように、脇を避けて歩いた。


 階段へ向かう手前で、足を止めた。


 扉のほうへは、振り返らずに言う。


「エヴァ様」


 返事は、ない。


「私も、戻っただけでは、足りなかったことが、あります」


 扉の内側で、わずかに、音がした。


「……何の、話ですか」


 クラリスは、八通のことまでは、話さなかった。


「届けられなかった手紙の話です」


「……あなたが?」


「はい」


 少し、間を置いた。


「たいへん、不名誉なことです」


「続きは、明日、お話しします」


「聞くとは、言ってません」


「承知しました」


 クラリスは、歩き出した。


 一歩ごとに、石の床が靴底へ硬く返る。


 背後の扉は、開かない。


 それでも、角を曲がるまで、来るなと言われることは、なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。