吐けない嘘
窓から差す日の光が、扉の影を廊下の反対側まで伸ばしていた。
夕方が、廊下の奥から近づいてきている。クラリスは、扉の脇へ座ったまま、鞄の中の手紙と、その光だけを確かめて待った。急かす言葉は、足さない。
石の床から上がる冷たさは、座り始めた頃より深くなっていた。膝は、もう痛みに慣れていた。
しばらくして、扉の向こうで、声がした。
「受け取りません」
先ほどまで、言わずにいた言葉だった。
今度は、はっきりと口にした。
クラリスは、復唱して確かめた。
「マレン・リュット様からのお手紙を、受け取らない」
「はい」
「理由は、伺えますか」
「必要ですか」
「配達には、必要ありません」
一拍、置いた。
「ですが、これで四度目、四通目を持ち帰るには、伺いたいと思っています」
制度で決まっている、とは言わなかった。これは、自分が納得するための問いだ。そのことは、偽らない。
「差出人に、心当たりは、ありますか」
「……母です」
「お母様からの手紙を、読みたくないのでしょうか」
沈黙があった。
「違います」
初めて、エヴァのほうから、否定が返った。
クラリスは、鞄の留め具へ指をかけた。
封筒を出すことはできる。扉の下へ滑らせることもできる。
けれど、それでは、扉の前に積まれた封筒と、同じになる。
指を、離した。
「では、手紙が要らないのでは、ありませんね」
「そういう言い方、好きじゃないです」
「ほかの言い方を、知りませんので」
小さく、息を吐く音がした。
それでも、次の言葉は返ってきた。
返事はある。
扉は、開かない。
たいへん、半端である。
「受け取れば、何かを返さなければならない。そう、思っていますか」
扉の向こうが、静かになった。
クラリスは、その静けさに、意味をつけなかった。ただ、待った。
やがて、声が戻った。
「母は、返事を、待っています」
「そうでしょうね」
「元気だと、書かなければなりません」
「そう、決められているのですか」
「ほかに、何を書くんですか」
クラリスの頭に、ロットの添え書きがよぎった。毛布を、まだ取ってある、と書いてあった。
言わなかった。あれは、母親が娘へ書くことで、配達人が娘へ告げることではない。
「それを決めるのは、書く方です」
「元気でも、ないのに」
「でしたら、元気とは、書けません」
「……そんな手紙、送れません」
廊下の向こうで、靴音が止まった。
二人分だった。話し声は、こちらへ来る前に消えた。
やがて、また歩き出す。
この扉の前を通るときだけ、足音が遅くなった。
声は、かからなかった。
クラリスは、閉じた扉を見た。
「ご自宅へ、戻りたいのでしょうか」
「帰れません」
「……戻りたくないのですか」
「そういう意味じゃ、ない!」
初めて、声が強くなった。
「私が帰れば、母だって困るんです!」
「ええ。」
「務めから逃げた臆病者の親と言われて、お金だって……!」
その言葉が指す意味は理解できる。郵便魔女になるとは、高い報酬を得られる代わりに、国の持ち物になるということだ。
「私は、戻っただけ、なのに」
「戻っただけ」
そこから先は、順には出てこなかった。
風路が崩れた。戻るべきだと言った。先輩は、行った。自分は、ついていかなかった。救援を、呼んだ。先輩は、負傷した。手紙も、届かなかった。
先ほど、管理人から聞いたのと、同じ事実だった。今度は、エヴァの口から、途切れながら出た。
「わかっています、私は、戻ったんじゃ、ありません」
「では、何を、なさったのですか」
「逃げたんです」
クラリスは、すぐには否定しなかった。
違います、とも、正しい判断でした、とも言わない。扉の外から結論を渡すのは、配達ではない。
「救援を呼んだのは、エヴァ様ですか」
「……はい」
「先輩の方は、生きて帰られた」
「私が置いてきたから、落ちたんです」
「それを、先輩の方が、仰ったのですか」
返事が、止まった。
「中央局の方が、でしょうか」
沈黙。
「どなたが、仰ったのでしょう」
答えは、返らなかった。
しばらくして、エヴァが言った。
「誰も、戻ってよかったとは、言いませんでした」
クラリスは、いちばん上の封筒を見た。
角が折れていた。何度か、廊下を通る靴に触れたらしい。
その下にも、同じ大きさの封筒がある。さらに、その下にも。
ずれて重なった封筒には、それぞれ違う部署名が印刷されていた。
同じなのは、宛名だけだった。
エヴァ・リュット。
帰った者へ宛てられた封筒は、ずいぶん多い。
差出人は、どれも事情や経過を扱う部署だった。
たいへん、不足している。
「だから、母にも、書けません」
「何を、ですか」
「帰りたいって」
「そう、ですか」
クラリスは、その言葉を、言い換えなかった。戻ることと帰ることは違う、と整理してやることも、しない。代わりに、事実を一つ、置いた。
「お母様は、今のエヴァ様を、ご存じありません」
「知らなくて、いいです」
「それは、お手紙を受け取ってから、お決めください」
「……何も知らないくせに!」
「はい」
「ですので、伺っています」
窓の外が、暗くなり始めた。
廊下の遠くで、扉の開く音がした。配達を終えた住人が、一人、また一人と、戻ってくる気配がある。
この日、手紙は、受け取ってもらえなかった。
夜まで居座れば、エヴァの暮らしにも、寮にも、負担になる。
クラリスは、壁へ手をついた。
膝が伸びきるまで、少しかかった。
外套の裾についた埃を払い、鞄を肩へ掛け直す。
留め具の内側には、四通目がある。
扉の向こうからは、何も聞こえなかった。
「本日は、戻ります」
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
クラリスは、鞄の留め具へ、指をかけた。金具が、小さく鳴る。
「……返すんですか」
「まだ、返しません」
「受け取らないって、言いました」
「伺いました」
「なら」
「明日、もう一度、伺います」
エヴァは、黙った。
クラリスは、扉の前の封筒をまたがず、来たときと同じように、脇を避けて歩いた。
階段へ向かう手前で、足を止めた。
扉のほうへは、振り返らずに言う。
「エヴァ様」
返事は、ない。
「私も、戻っただけでは、足りなかったことが、あります」
扉の内側で、わずかに、音がした。
「……何の、話ですか」
クラリスは、八通のことまでは、話さなかった。
「届けられなかった手紙の話です」
「……あなたが?」
「はい」
少し、間を置いた。
「たいへん、不名誉なことです」
「続きは、明日、お話しします」
「聞くとは、言ってません」
「承知しました」
クラリスは、歩き出した。
一歩ごとに、石の床が靴底へ硬く返る。
背後の扉は、開かない。
それでも、角を曲がるまで、来るなと言われることは、なかった。




