扉の内側
翌朝、クラリスが暖炉へ火を入れていると、ノエルが二番鐘より早く来た。
「まぁ、わかってはいましたけど」
「そうですか」
「もう少し、節約したほうがいいんじゃないですか?」
「あなたが来るまで、凍えていろと?」
「そうは、言ってません」
ノエルは納得しない顔のまま、暖炉へ薪を一本足した。
クラリスは、手紙を一通、鞄へ入れた。昨日、鞄のいちばん上へ置いたまま、向きは変えていない。
「開けて、もらえそうですかね」
「分かりません」
「そこは安心させてくださいよ」
「まだ、伺っていませんので」
店をノエルに任せ、クラリスは着陸場へ出た。
冬の風路は、細い。
だが、通行はできる。クラリスは箒の柄を握り直し、風標を辿った。中継塔の返しを、一つずつ確かめながら進む。灯は、どれも生きている。認可された、まっとうな空だ。
風は、頬より先に、指を刺した。冬の空は、油断すると細り、そのまま閉じる。今日は、まだ保っている。
中央局の着陸場へ、降りた。
石段も、局舎の輪郭も、見慣れている。見慣れているだけだ。クラリスは、それを長くは見ずに、女子寮へ向かった。
受付で用件を告げると、管理人が出てきた。
「風待ち郵便局所属、クラリス・ヴェインです。エヴァ・リュット様へ、配達に参りました」
管理人は、クラリスの外套と、肩の鞄を見た。中央局の局章のない、深緑の外套を。
「……風待ち郵便局?」
「はい」
クラリスは、それ以上、説明しなかった。
管理人は、封筒の宛名へ目を落とした。
「四回目、ですねぇ」
それだけで、三通が戻っている案件だと、通じたようだ。
「お部屋まで、ご案内します」
歩きながら、管理人が話した。整理された話し方では、なかったが。彼女にもいろいろ思うことがあるのだろうか。
「あの子は、事故のあと、十日ほど、部屋から出てきません……。誰が声をかけても、返事すらしてくれません」
「それでも、いらっしゃるんですか」
「います」
「確認された、と受け取っても?」
「食事は、なくなります。空になった器が廊下に出されていますから」
「そうですか」
分かるのは、それだけだと、管理人は言った。
「事故の、あとからです」
「事故?」
「先輩と、二人で、飛んで」
管理人は、少しずつ話した。
途中で、風路が不安定になった。彼女は、戻った。先輩は、進んだ。先輩は負傷して、なんとか生きて救助された。持っていた手紙は、届かなかった。
それだけを、順に。管理人は、そこで声を落とした。
「私には彼女が悪いとは思えません……」
「そうですか」
クラリスは、それだけ返した。
エヴァの部屋は、三階の、いちばん奥だった。
廊下の両側に、同じ造りの扉が並んでいる。昼のこの時刻、住人はみな配達に出ているのか、どの扉も静かだった。
奥の一室。その扉の前に、封筒が積まれていた。
差出人は、どれも中央局だった。部署の名だけが、違う。
一通にも、受取の印はない。
自分も中央局にいたから、なんとなくその中身が推測できた。
返事ができない者に、返事を求める者は、ずいぶん多いらしい。
たいへん、不思議である。
クラリスは、その封筒の山を、そのままにした。脇へ寄せも、しない。宛てられた封筒は、宛先の人のものだ。
扉を、叩く。
「郵便です。風待ち郵便局所属、クラリス・ヴェイン」
返事はない。少し待って、もう一度。
「エヴァ・リュット様。マレン・リュット様から、お手紙をお預かりしています」
返事はやはり、ない。
母親の名を出しても、扉の内側は、静かなままだった。
「待っても、返事はないと思いますよ」
管理人が言った。
「そうですか」
「お持ち帰りに、なりますか」
「いいえ」
「では、そちらへ置いて行かれるのが、よろしいかと」
「それでは受け取ったことには、なりません」
クラリスは、廊下の壁際へ移り、扉の前に座った。積まれた封筒の、少し脇に。
「……何を?」
「待ちます」
「いつまで、でしょう」
「返事を、いただくまでです」
管理人は、少し困った顔をしてから、何かを言いかけたように見えた。それでも、何も言わず仕事へ戻っていった。
扉一枚に、一日を使う。
たいへん、効率がよろしくない。
それでも、立たなかった。時間は、見えるものと、聞こえるものだけで過ぎていった。
廊下を通る足音が、遠くで起きて、遠くで消える。誰も、この奥までは来ない。来ても、閉じた扉の前に座る自分を訝しむように一度見て、引き返していく。
どこかの鐘が、二度鳴った。二度目は、一度目より、風に流れて聞こえた。
窓から差す光は、床の上を、少しずつ横へ滑っていく。石の床は、座っているうちに、下から冷えてきた。膝が、少し遅れて、痛む。
一度だけ、扉の内側で、床板が鳴った。
誰かが、扉のすぐ内側まで来て、また離れた。それきり、また、静かになる。
クラリスは、何度も呼びかけなかった。返事を急かす言葉も、事故のことも、言わなかった。
鞄に入れたまま、待った。
光が、壁の半ばまで上がった頃、クラリスは、もう一度だけ扉を叩いた。
「エヴァ・リュット様」
返事は、ない。
「マレン・リュット様からの、お手紙です」
長い、沈黙があった。
やがて、扉の向こうから、掠れた声が返った。
「……まだ、いたんですか。帰って、ください」
誰にも返事をしなかった部屋から、初めて、声が出た。
「エヴァ・リュット様、ご本人ですか」
沈黙。
「ご本人でなければ、少々面倒なことになってしまうのですが」
「……私、です」
「では、お手紙を、お預かりしています」
「帰ってください」
これを、受領拒否として扱ってよいのだろうか。
「手紙を、受け取らない、ということでしょうか」
返事は、ない。
しばらくして、
「帰って、ください」
それだけが、繰り返された。封筒を改めて、鞄へ戻す。
「承知しました」
扉の向こうの気配が、わずかに、緩んだように感じた。
「まだ、こちらで待たせていただきます」
沈黙。
「……帰ってって、言いました」
「聞こえています」
「なら」
「手紙を受け取らないとは、まだ、伺っていません」
クラリスは、再び、壁際へ座った。
床は、さっきの冷たさを、まだ覚えていた。それでも、座った。
「私が伺っているのは、それだけです」
扉は、開かない。
だが、内側で、衣擦れの音が、一つした。




