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郵便魔女になる、ということ

 その日、中央局の講堂には、新しい外套の匂いが満ちていた。


 まだ誰の肩にも馴染んでいない、仕立てたばかりの深い緑。空を飛ぶ者のために軽く織られた布が、長机の上に、人数分きちんと畳んで並べてある。


 マルタ・キールは、その一着の前に立っていた。


 外套。局員証。配達鞄。


 これから中央局所属の郵便魔女として使うものが、順に手渡されていく。受け取るたび、肩が少しずつ重くなった。


 少し前までの日々が嘘だったのかと思えてしまう。


 適性の通知が届いたのは、春だった。


 母は封を切ったあと、しばらく何も言わなかった。


 祝いに来た局員が、空を飛べる娘を持つのは名誉なことだ、と話しているあいだも、ずっとその神から視線を外さなかった。


 紙の皴のより方から、その手に力が入っていることは、なんとなく理解できた。


 その夜、母は泣いていた。父が声を荒らげている。


 誇らしくて、嬉しくて、であれば、自分も虚勢を張ったかもしれない。


「あと何年、生きられるんだ……」


 答えられる者は、もう家の中にはいなかった。


 郵便魔女になるかどうかを、自分で決めた覚えはない。


 魔力があった。空を読めた。試験に通ってしまった。


 だから、ここにいる。


 中央局へ発つ朝も、三人とも泣いた。


 両親は何度も、必ず帰ってこいと言い、マルタは何度も必ず帰ると答えた。けれど、その約束を守れる根拠は、どちらにもなかった。


 長机の上には、人数分の外套が並んでいる。


 このうちの何人が、何年後まで同じ外套を着ているのだろう。


 そんなことばかり考えていた。


 周りには、同じ年頃の娘たちが並んでいる。緊張した顔もあれば、誇らしげな顔もあった。


 誇らしげなほうが、多かった。


 ここまで来た者は、みな試験を越えてきた者だ。


「ねぇ、どの路線希望なの?」


 隣の娘が、小声で言った。誰にともなくだ。


「んー、わたしは西がいい。西の峠風路」


「あそこを飛べれば、一人前ってやつ? 自信家だねえ」


 西の峠風路は、この局でもっとも荒れる空だった。


 越えられる者はそう多くない。落ちた者は、もう数えてはきりがないと聞く。


 それでも、その娘たちの声には羨望が混じっていた。荒れた空を望むことが、この局では勇敢さの証のように語られている。


 マルタは、その横顔を見た。


 怖くないのだろうか。


 この娘の親も、通知の日に泣いたのだろうか。泣いたとして、この娘はそれを見なかったことにして来たのか。


 母と別れた朝から、マルタは、自分だけが死ぬことを考えている気がしていた。


 ここに並ぶ娘たちは、みな、自分より勇敢なのかもしれない。


 あるいは、自分だけが郵便魔女になる資格を持っていないのかもしれない。


 風路は、目に見える道ではない。


 昨日まで通れた空が、今日も同じ場所にあるとは限らない。それでも、配達命令が出れば飛ぶ。風標が消えていても、中継塔から返事がなくても、期限の記された手紙は待ってくれない。


 帰らなかった者は、行方不明と記録された。


 箒だけが見つかった者もいた。


 何日も捜索された末に、死亡とされた者もいた。


 それでも、次の便は出された。


 郵便魔女になれるほどの魔力を持つ子どもが見つかると、その家へ局から通知が届く。祝いに訪れた役人に向けて、石を投げる親もいるという。


 娘が空を飛べることを誇るより先に、いつか帰らなくなる日を思ってしまうからだ。


 けれど、その思いは、職務を分かっていない者の弱さとして扱われた。


 だから、これから壇上から告げられる言葉も、決まっていると思っていた。


 何があっても手紙を届けろ。そういう訓示だろう、と。


 そう考えなければ、ここに立っていられなかった。


 壇上に、男が立った。


 銀縁の眼鏡をかけた痩せた男で、声を張らなかった。張らないのに、講堂の端まで届いた。ひとつひとつの言葉を、判決文のように置いていく話し方で、レオンハルトと名乗った。


 彼は、新人たちを見渡した。


 そうして、まず、こちらの思い込みを否定した。


「空を飛べるだけでは、郵便魔女ではない」


 ざわめきが、少し引いた。


「速く飛べる者が、優れているわけではない。危ない風路を越えたことも、優秀さの証明にはならない。ここまで厳しい試験を越えてきた者たちに、言っておく」


 彼は、続けた。


「越えられたのは、たまたま、その空が越えさせてくれたからだ」


 誰も、笑わなかった。


 西の峠を望んだ娘も、口を閉じていた。


 壇上の男は続ける。


 届かなければ、人の一生が変わる手紙がある。助けを待つ者へ向かう手紙もある。だから、届ける方法は最後まで探さなければならない。


 そこまでは、自分の予想したとおりだった。


 変わったのは、その次だ。


「だが」


 間を置いた。


「自分の命しか、方法が残っていない。もし、そう思ったなら」


 眼鏡の奥の目が、静かに新人たちを撫でた。


「それは、考え抜いた末ではない。考えるのを、やめただけだ」


 息が止まった。周りの空気も、一段、冷えた気がした。


「三年前、一人の郵便魔女が、閉じかけた風路へ入った。期限のある手紙を届けるためだ」


 口ぶりに変化は無いように思う。だが、先ほどの判決文を読み上げるような声ではなかった。


「彼女は落ちた。手紙は春になって回収された。宛先の家は、まだそこにあった。だから、その手紙は別の魔女がもう一度運んだ」


 彼の視線は揺るがない。


「結果として、彼女は一通も届けていない」


 講堂は、今度こそ、静まり返った。


 西の峠風路。


 つい先ほどまで、名誉として見ていた。難所へ挑み、還らなかった証として。


 同じことを、壇上の男は、一通も届けなかった死として扱った。


 栄誉と、無駄。


 同じ一人の魔女が、私たちとレオンハルトとで、まるで違うものにされている。


 どちらかが、間違っている。


 自分には、まだ、どちらとも決められなかった。


「今日の十通を届けて死んだ者は、明日の一通を届けられない」


 彼は、そこで言葉を切った。


「だが、君たちを生かす理由は、明日の配達に使うためではない」


 眼鏡の奥の目が、自分へ向いた気がした。


「君たちは、郵便網を動かすための部品ではない。」


 彼は、新しい外套を受け取った一人ひとりを見た。


「人間だ」


 その二文字が、講堂全体に染み渡っていくように感じた。


 手の中の局員証を持つ手に力が入る。


「君たちの帰りを待つ者がいる。空を飛べる子どもを持ったことを、親が泣いて恐れる。そんな職業を、当然だと思うな」


 両親の顔が浮かんだ。


 あの涙を、弱さではないと言った者を、マルタは初めて見た。


「迷ったときは家族の顔を思い出せ、家族がいないものは」


 しばしの静寂が流れ、間を作って続ける。


「私の顔を思い出せ。お前たちの帰りを待っている、ここが、君たちが帰ってくる場所だ」


 彼の声は、変わらなかった。


 自分が死にたくないと思っていたことを、初めて恥じずに済んだ。


 帰りたいと思ってよい。


 母との約束を、守りたいと思ってよいのだ。


 それは、郵便魔女に向いていない者の弱さではないんだ。


 レオンハルトは、原則を順に置いていった。


 風路が危険なら戻れ。


 風標の灯が消えているなら降りろ。


 一人で判断できないなら、判断できる者を呼べ。


 生きて帰ることを、配達より下に置くな。


 それは、この局で称えられてきたものと、正反対だった。


 勇敢さを称えてきたこの場所で、痩せた男は、戻れと言っている。


「郵便魔女になるとは」


 声が、少しだけ低くなった。


「手紙のために死ぬ覚悟を持つことではない」


 畳まれた外套の緑が、講堂の灯りの下で、静かに沈んでいた。


「届ける方法を探すことだ。届かなければ、その理由を持ち帰ることだ」


 レオンハルトは、まっすぐ、姿勢を正している。


「そして、自分も帰る」


 その姿に、声に、自然と顔が上がった。


「それができる者を、郵便魔女と呼ぶ」


 彼は、最後に二つの言葉を置いた。


「手紙を届けろ。そして、帰れ」


 並んだ新人を、もう一度見渡す。


「どちらか一方で、職務を果たしたつもりになるな」


 それきり、彼は壇を降りた。


 拍手は、まばらだった。


 壇を降りていくレオンハルトの背を目で追った。


 新人の着任式で親が泣くことを弱さではないと言った男がいた。


 帰りたいと思うことも、死にたくないと思うことも、郵便魔女にふさわしくないとは言わなかった。


 中央局へ来てから初めて、息をしてよいと言われた気がした。


 この局が正しくあってほしい、と、それまでは思っていた。


 今は、少し違った。


 この人についていけば、自分たちの扱われ方が変わるかもしれない。


 あの言葉が、この局で通るのかは分からない。


 けれど、通してほしいと思った。


 できるなら、その近くで見ていたいと思った。


    


 講堂を出る新人の列に、先輩の郵便魔女が二人、待っていた。配属先へ振り分ける役だった。


 その一人が、隣を歩く同僚へ、小さく言うのが聞こえた。


「また、あれだよ~。監察官殿のお決まりの理想論!」


「新人には毒だよね。真に受けて引き返す癖がついちゃったら大変になるんだけどね」


「期限を落とせば、評価は下がる。壇上の話じゃ、お腹は膨れないんだよね」


 二人は、笑ってはいなかった。


 事実を確かめ合うように聞こえた。


 そのとき、廊下の奥から、一人の郵便魔女が戻ってきた。


 外套の裾が、雨か雪で濡れている。肩の鞄は、ふくらんだままだった。届けきれずに引き返してきたのだと、遠目にも分かった。


 振り分け役の先輩が、その魔女へ、短く何かを言った。


 労いの言葉ではないように思った。


 その魔女はうつむき、重い鞄を抱えたまま、報告のために奥へ消えていく。


 誰も、その背に、勇敢とは言わなかった。


 届かなかった鞄の重さを、一人で持ち帰る。


 マルタは、その背中を見送った。


 壇上の言葉と、廊下の光景。


 どちらが中央局の本当なのか、着任した初日から、もう分からなくなっていた。


 けれど、レオンハルトが嘘を言ったとは思わなかった。


 嘘にしているのは、この建物のほうなのかもしれない。


 手の中の局員証を見る。


 壇上の男の言葉を、信じたかった。


 けれど、この局がそれを許すとは思えなかった。


 だから、見ていたいと思った。


 あの男が、壇上で言っただけの人なのか。


 それとも、本当に、この局を変えるのか。


 恐怖と、初めて抱いた期待を一つずつ胸に残して、講堂を出た。


 新しい外套の匂いだけが、まだ、残っていた。

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