名前など、必要ありません
朝、店の扉を開けると、外の空気が冷たかった。
クラリスは、まず暖炉を見た。火は昨夜のうちに落ちている。ノエルが来るのは二番鐘の後だ。それまでは、自分で入れる。
薪を組もうとして、手を止めた。
扉の脇。いつもの古い木箱の隣に、見慣れない箱が一つ増えている。
角を黒い鉄具で留めた郵便運搬箱だった。どこの局でも使う規格のもので、側面には擦れた局番号の焼き印が残っている。
中を覗くと、封筒が幾つか入っていた。
箱の縁に、紙が一枚挟んである。取って、読む。
『ローデン受付、カミル・ロット。返送予定のうち、差出人に確認が取れたものです。そちらへ相談したいとのことでした』
最後に、小さく書き足してある。
『置いていきます』
クラリスは紙を裏返した。
何もない。
「……ロットさんですか。余計なことを」
返事はなかった。
箱を抱え、店の中へ戻った。
二番鐘の後、ノエルが来た。
鞄を置くより先に、机の上の郵便運搬箱を見る。
「ロットさん、またですか」
「またです」
「懲りませんね」
「ええ。たいへん困ります」
ノエルは箱に挟まれていた紙を読み、一通目の封筒を取った。
添えられた紙と宛名を見比べる。
それから受付帳ではなく、別の紙を引き寄せた。
「受付は、まだです」
「分かっています。保全記録です」
「よろしい」
ノエルは宛名を書き、次の封筒を取った。
クラリスも一通を手にする。
北方の集落。現行風路から外れている。
次は、旧住所宛。
三通目には、返送票が二枚も重ねて留めてあった。
「趣味の悪い箱ですね」
「ロットさんに言います?」
「喜びそうなので、やめてください」
「はい」
ノエルの筆が進む。
クラリスは確認を終えた封筒を分けていった。
昼前には、机の上が片づいた。
ノエルが一枚の照会文を書いている。
最後まで進んだ筆が、末尾で止まった。
「クラリスさん」
「何ですか」
「ここの名前、決めてください」
「名称など、必要ありません」
「そういうと思いました」
ノエルが照会文を机の上へ押し出した。
末尾の返信先が、途中で止まっている。
ローデン郊外・配達困難郵便取扱私設郵便屋――。
「毎回、困るんです」
「クラリス・ヴェイン、で」
「クラリスさんがいないと、私が確認できません!」
「確認しなくとも結構です」
「三日も戻らないことがある人が、言わないでください!」
クラリスは照会文を指で戻した。
「郵便物は、名称で飛びません」
「照会文は、返信先がないと戻ってきません」
黙る。
ノエルは筆を持ったまま待っている。
「何か、ありませんか」
「私に聞かないでください」
「店主ですよ」
「不本意ながら」
「私もたいへん不本意です」
「でしたら、辞めていただいて結構ですが」
「鍵を返せと言われてから、考えます」
鍵の話には、答えなかった。
棚へ、最後の封筒を納める。
いちばん下には、八通が残っている。
窓の向こうで風標の灯が揺れ、一騎の箒が空を横切った。
「急がなくても、いいですけど」
ノエルが言った。
振り返る。
「急かしたのは、あなたでしょう」
「名前は、逃げませんから」
クラリスの視線が、棚のいちばん下を掠めた。
「……風待ち郵便局、で」
ノエルの筆が止まった。
「風待ち」
「はい」
「郵便局って、名乗っていいんですか」
「屋号です」
「そういう問題ですか」
「気に入らないのでしたら、やはりクラリス・ヴェインで」
「書きます」
ノエルが照会文を引き戻した。
途中で止まっていた返信先を二本の線で消し、その下へ書く。
風待ち郵便局。
筆を置き、少し眺めた。
「悪くないですね」
答えない。
「クラリスさん」
「何ですか」
「看板も、変えます?」
「経費は、あなた持ちで」
「今のままで、いいです」
クラリスは封筒を鞄へ入れ、留め具を締めた。
「では、行ってきます」
ノエルは照会文を取り上げた。
「いってらっしゃい」
扉が閉じる。
机の上には、乾きかけた文字が残っている。
『風待ち郵便局』
――これは、北東第三風路消失事故より、四十二年と少し前の物語。




