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申し訳、ございません

 鞄は、まだ重かった。


 夜のうちに半分は配った。残った木札を確かめながら、昨日つけた巡回順に村をもう一度辿っている。


 何度降りて、また飛んだのかは数えていない。数えれば、残りも数えることになる。


 箒を降りるたび、膝が遅れて痛んだ。指は柄を握った形のまま固まりかけていて、一本ずつ開かなければ、宛名を確かめることもできない。


 次の家では、本人が戸まで出てきた。


 痩せた男だった。壁に片手をつきながら、それでも自分の足で歩いてくる。


「エド・バルク様」


「……はい」


 名を確かめ、封筒を差し出す。


 男は両手で受け取ったが、その場では開けなかった。封筒を胸元へ寄せ、ゆっくり寝床のほうへ戻っていく。


 戸が閉じるまで待ち、木札を鞄へしまった。


 一通、減った。


 次の戸は、半分開いていた。


 叩いても返事はない。もう一度、少し強く叩き、戸口から名を呼ぶ。


 途中で、隣家の窓が細く開いた。


「そこなら、昨日運ばれたよ」


 老いた女の声だった。


「どちらへ」


「町の病院だ。大きいところ」


「病院の名は」


「そこまでは知らないねえ」


 窓の隙間から出ていた顔が、申し訳なさそうに引っ込む。


「すまないね」


「いいえ。ありがとうございます」


 宛名を、もう一度見る。


 間違ってはいない。けれど、その名の人はもう、この戸の内にはいなかった。


 封筒を鞄の反対側へ移し、次の木札を取った。


 リナの家には、まだ灯りがついていた。


 戸を叩く前に、中から足音が近づいてくる。


「郵便魔女さん」


 戸を開けたリナの腕には、赤子がいた。産着の隙間から、小さな頬だけが見えている。


「戸口に時刻を挟んでおいてくれましたね」


「はい。……さっき、目を覚まして」


 奥を見る。


 寝台の上で、老女が薄く目を開けていた。昨日は閉じたままだった目だ。


 クラリスは寝台の傍らへ行き、片膝をついた。


「フィン・ロウ様」


 老女の瞳が、ゆっくり動く。


「お手紙です」


 焦点が合うまで待ち、封筒を少し持ち上げた。


「あなたに、一通」


 フィンの手が、毛布の上を這った。


 持ち上げようとして、一度落ちる。


 クラリスは手を出さなかった。


 二度目に、腕が上がった。


 震える手のひらへ封筒を載せる。細い指が縁に触れ、ゆっくり曲がっていく。


 封筒を、握った。


「……はい」


 木札を鞄へ戻す。


 フィンの唇が動いたが、声にはならなかった。封筒を裏返そうとして、途中で力が抜け、また手のひらへ戻る。


 リナが口元を押さえた。


 腕の中で、赤子が身じろぎする。


 クラリスは立ち上がった。


「では」


「……もう、行くんですか」


「はい」


 リナが寝台を見る。


 フィンはまだ、封筒を握っていた。


「読むのは、郵便屋の仕事ではありませんので」


 外へ出た。


 戸が閉まったあと、箒に手を伸ばす前に、一度だけ指を開く。冷えた関節が軋むように痛んだ。


 握り直した。


 まだ、残っている。


 村の奥へ行くほど、家と家の間は広くなった。


 風標の灯りも遠い。


 空はもう黒ではなく、深い青に変わっている。家の屋根も、畑の柵も、輪郭だけなら見えるほどになっていた。


 最後の木札を取る。


 マーサ・ケルン。


 残った封筒は、一通だった。


 戸は開いていた。


「失礼します」


 返事はない。


 中へ入ると、薬湯の匂いが濃くこもっていた。火はほとんど落ち、鍋の底で冷えた薬草が黒く沈んでいる。


 奥の寝台に、老女が横たわっていた。


 目は閉じたまま、胸だけが浅く上下している。


 傍らにいた娘が立ち上がった。ずっと同じ姿勢で座っていたのだろう。腰を伸ばすまでに、少し時間がかかった。


「郵便です。マーサ・ケルン様に、一通」


 娘の目が、封筒へ向く。


「……母は、昨夜から目を開けません」


 宛名を確かめる。


 マーサ・ケルン。


「本人限定の、お手紙です」


 娘の顔がこわばった。


「母は、起きません」


 少しだけ、こちらへ近づく。


「……私では、駄目ですか」


「宛名が、マーサ・ケルン様です」


「ですから、私が、代わりに」


 娘の手が伸びる。


 クラリスは、封筒を半歩ぶん引いた。


 指先が届かないところまで。


 娘はその手を見て、それ以上は伸ばさなかった。


 ゆっくり腕を下ろし、寝台へ向き直る。


「母さん」


 返事はなかった。娘は耳元へ顔を寄せる。


「母さん」


老女の胸が、小さく上がる。


 下がる。


「母さん」


 今度の声は、ほとんど囁きだった。


 クラリスは戸口の内側に立った。


 封筒を持つ指を、一度握る。


 さっき、フィン・ロウが封筒を握った。その細い指の感触が、まだ残っていた。


 娘は何度も名を呼んだ。


 返事はない。


 時計は見なかった。


 一度見れば、次も見る。


 膝が痛むたび、壁へ肩を預けたくなった。椅子も一脚空いていたが、戸口を動かなかった。


 窓の外が、少しずつ明るくなる。


 青が薄れ、窓枠の木目まで見えるようになったころ、遠くで風標の灯りが一つ落ちた。


 北の端だった。


 少し間を置いて、その南隣も消える。


 閉鎖手順書どおりの順番だった。


 娘は気づかず、マーサの手を握っている。


 また、一つ。


 風標が消えた。


 クラリスは封筒を持ったまま、窓の外を見る。


 次に落ちる標を知っている。


 その次も。


「母さん」


 娘の声が掠れた。


 最後の風標は、まだ灯っていた。


 けれど、あれが落ちれば村は閉じる。


 閉じた内側に残れば、クラリスも、この鞄も、村の外へ出せなくなる。


 持ち帰って照会しなければならない手紙まで、ここで止まる。


 待てるのは、ここまでだった。


 クラリスは封筒を両手で持った。


 宛名を見る。


 マーサ・ケルン。


 顔を上げると、娘がこちらを見ていた。


 頭を下げた。


「申し訳、ございません」


 しばらく、何も聞こえなかった。


 火の落ちた炉のそばで、鍋から水滴が一つ落ちる。


 娘が口を開いた。


「……それ」


 声が、一度止まる。


「どうするんですか」


 クラリスは頭を上げた。


「持ち帰ります」


「……もう、届かないかもしれないのに?」


 封筒の角を、指で揃える。


 鞄を開くと、届かなかった側には、似たような手紙がいくつか入っていた。


 その隣へ、マーサ・ケルンの名が書かれた封筒を置く。


「まだ、分かりません」


 鞄を閉じる。


「本日は、届けることが出来ませんでした」


 娘は何も言わず、寝台へ目を戻した。


 母の手を握る。


「失礼します」


 家を出る。


 外は、もう朝だった。


 箒へ乗る。


 風はゆるやかで、風路も頼りないくらい細く見えた。


 クラリスは最後の流れへ身を預けた。


 村の屋根が下へ流れる。白い道が遠ざかる。


 境界を越えたところで、背後の風標が揺れた。


 消えた。


 村は、閉じた。


 クラリスは振り返らなかった。


 振り返れば、戻りたくなる。


 ローデン側の風路へ入る。


 こちらの風路はたしかに生きていた。ただ、いつもより重かった。


 箒の柄を握る指に、力が入らない。それでも、降りなかった。


 鞄の、届かなかった側は、軽くならなかった。

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