答えられる人
村の空は、店の空より暗かった。
風路が細くなっているせいだ。灯される標が、いつもより間遠い。閉じる支度が、もう始まっている。
畑の外れに降りると、土が湿っていた。雨ではない。人が水を撒いた跡でもない。ただ、誰も歩いていない土の湿りだった。
人の出ない村は、こんなに静かになる。
箒を、家の陰に立てかける。飛んできた膝が、地面の上でまだ震えていた。それでも、歩ける。歩ければ、届けられる。
鞄には、三十九通。宛名の並びで、揃えてある。上から順に、と決めていた。近い家から回るのではない。名前の順に回る。そうしないと、後回しにした家を、自分の都合で選んだことになる。
鞄の紐を、肩にかけ直す。まだ、重い。この重さが軽くなるたびに、誰かに手紙が渡ったということだ。軽くなってほしい。だが、軽くなりきってほしくもない。軽くなりきるのは、朝が来て、閉じたときだ。
最初の一軒は、すぐに分かった。戸口に、名を書いた木札が下がっている。
叩く。
返事はない。
もう一度、叩く。
中で、足を引きずる音がした。時間をかけて、戸が開く。老人だった。名を確かめる。宛名と、合っている。
病の匂いが、戸の内から流れてきた。饐えたような、熱の匂いだ。息を止めたりは、しない。止めれば、この家を、汚いもののように扱ったことになる。
「あなたに、一通」
封筒を、両手で差し出した。老人は、受け取る前に、こちらの顔を見た。それから、封筒の宛名を見た。自分の名だと分かると、指の力が、少しだけ戻った。
「……娘か」
「差出人の名は、伏せます。開ければ、分かります」
余計なことは、言わない。中身を先に説明すれば、受け取る前に、心が決まってしまう。それは、この人の手紙であって、私の手紙ではない。
老人は、封を切らずに、胸に当てた。震える手だった。それでも、落とさなかった。
それでいい。読むのは、私が去ってからでいい。
二軒目は、留守だった。
戸を叩いても、返事がない。中で人の動く気配もない。窓から覗くのは、しない。それは配達ではない。
木札に、宛名を確かめる。合っている。留守なら、持ち帰る。それだけのことだ。鞄の、届けられなかった側へ、一通を戻す。まだ、配達を諦めたわけではない。持っている、というだけだ。
持っている手紙は、まだ、届いていないのではない。届く途中だ。
三軒目、四軒目。
順に、回る。受け取る人。留守の人。受け取ったあとで、何も言わずに戸を閉める人。手紙を胸に当てて、こちらが去るまで、動かない人。
誰も、多くは喋らない。喋る力を、病がいくらか持っていってしまっている。それでも、名を呼べば、うなずく。うなずければ、届く。
道は、覚えのある道だった。何度も来た村だ。だが、今日は、店の灯りが一つも点いていない。人のいる家は、雨戸を閉めている。生きている家ほど、固く閉じている。閉じることでしか、守れないものがあるからだ。
鞄が、少しずつ軽くなる。届いた側が増え、届かない側が、それより緩やかに増える。
全部は、届かない。
それが、だんだん分かってくる。分かってきても、順番は変えない。近道はしない。近道をした瞬間に、届かなかった家が、選ばれて捨てられた家になる。
途中の一軒で、手が止まった。
戸を開けたのは、若い女だった。腕に、赤子を抱いている。産着にくるまれて、小さく息をしている。生きている。この村で、こんなに小さく息をしているものが、まだいる。
宛名を確かめる。女の名では、ない。
「フィン・ロウ様、あてです」
「母です。……奥で、寝ています」
女の顔が、こわばった。
「起こせません。やっと、熱が下がって」
寝ている人には、渡せない。眠っている人の手のひらに、勝手に手紙を置くことは、しない。それは、受け取ったことにならない。本人が、受け取ったと分かって受け取る。それが、原則だった。
「では、出直します」
「待ってください」
女が、赤子を抱え直した。
「私が、受け取ります。母あての手紙なら、私が」
首を、横に振る。
同じ家。同じ姓。それでも、本人ではない。
こういうとき、心が揺れないわけではない。目の前で、赤子が息をしている。奥で、母親が眠っている。手紙を置いて、去ってしまえば、この家に一通、届いたことになる。数の上では。
だが、数の上で届いた手紙は、届いていない。
中央局は、数で数える。何通、閉鎖前に処理したか。何通、期限内に配達済みとしたか。
その数字の中では、寝ている人の枕元に置いた一通も、本人が受け取った一通も、同じ一だ。
同じ一に見えるから、あの人たちは平気で欄を空欄のまま刷る。
私は、そこにいたくなくて、追放されたのだったか。それとも、追放されて、そこにいなくて済むようになったのか。
どちらでもいい。今は、この一通が、フィン・ロウのものだということだけが、確かだった。
「同じ家でも、別の人です」
「そんな……たった一通、じゃないですか」
「たった一通です。だから、間違えられません」
女の目に、涙がにじんだ。責めているのではない。疲れている。長く、看病をしてきた顔だった。
その涙を、見ないふりはしない。かわいそうだとも、思わない。ただ、原則は、原則だった。
「お母様が、目を覚ましたら」
鞄から、一枚の紙を出す。受取の控えではない。ただの、書き置きだ。
「この村に、私がいるあいだは、もう一度、伺います。目を覚ました時刻を、ここに。戸口に、挟んでおいてください」
「……来て、くれるんですか」
「ええ」
女の腕の中で、赤子が、身じろぎした。泣きはしない。ただ、小さく口を動かして、また眠った。
この子は、無事だ。
それを見て、ひとつだけ、息を吐いた。優しさに、名前はつけない。
ただ、無事な息が、この家に一つあった。それだけを、確かめて、次へ行く。
村の半分を回ったころ、鞄の届いた側が、届かない側を、わずかに上回った。
わずかに、だ。
空を見る。標が、また一つ、間遠になった。閉じる朝は、近づいている。
近づいてくるのは、こちらの都合ではない。向こうの、決められた時刻だ。
それでも、順番は、変えない。
次の木札を、確かめる。名を、呼ぶ。
答えられる人がいるかぎり、私は、答えを届けにいく。




