あなたが火を守るかぎり
店に戻ると、窓に灯りがついていた。
箒から降りると、膝に来た。一日のあいだに、冷えた空を何度もくぐった膝だ。
地に足がつくと、ずっと張っていたものが遅れて痛みに変わる。石畳の冷たさが、靴の底から昇ってきた。
窓の灯りは、その冷えの中で、ひとつだけ黄色かった。
留守を頼んだのは受付の管理であって、寝ずの番ではない。それでも、灯りはついている。
そのことについては、何も言わないことにした。言えば、次から消してしまう。
扉を開けると、暖炉の熱を含んだ、少しよどんだ暖かさが頬に当たった。
外の冷えを連れて入ったせいで、境目がはっきりと分かる。火は、まだ落ちていない。
ノエルが立ち上がった。顔に、答えを待つ色がある。訊く前から、半分は察している顔だった。
「延期は」
「通りませんでした」
ノエルの肩が下がった。それから、机の上の三十九通へ目をやる。宛名の並びで揃えたまま、鞄から出していない束だ。
「では……配達不能、ですか」
壁の時計を見る。それから、外の暗さを見る。
閉じるのは、明日の朝。
今は、夜だ。
「いいえ」
三十九通を鞄へ戻す。
「まだ、閉じていません」
そのとき、扉の鈴が鳴った。
乱暴ではない、遠慮がちな鳴らし方だった。オルヴィンが入ってくる。局章は外していた。上司としてでは来ない、と言った通りだった。
彼は店の中を見回した。仕分け棚、古い地図、観測針。棚のいちばん下に並んだ、配達困難と書かれた木札。
それから、机の向こうに立つノエルへ目を留めた。
「……手伝いを、置いたのかい」
すぐには答えなかった。
仕分けの途中だった封筒を棚の定位置へ戻し、角を指で揃える。もう揃っているのに、もう一度だけ直した。
答えは決まっていた。
ただ、口にするまでに、一拍かかった。
「弟子です」
思ったより、静かな声が出た。
オルヴィンの動きが止まる。
「弟子」
「はい」
「君が」
「何か」
それ以上は足さない。
暖炉で薪が一つ崩れ、火の粉が小さく爆ぜた。
静かな店の中で、ノエルの筆も止まっている。
穂先にたまったインクがふくらみ、耐えきれずに一滴、紙へ落ちた。写したばかりの字の上に、黒い染みが広がる。
ノエルは気づかない。
顔を上げないまま、耳の先だけが赤くなっていく。
横目に、それを見る。
濡れた封筒は、乾くまで触らない。触れば、破れる。
それだけのことだった。
「用件を」
オルヴィンへ言う。
「ああ」
彼は机に一枚の紙を置いた。正式な書式ではない。走り書きに近い、彼自身の手控えだった。
「延期は通せなかった。これは動かない。……ただ、ひとつだけ、私に言えることがあってね」
その紙を指で示す。
「風路が閉じるまでは、その空はまだ閉じていない。防疫の手順さえ守るなら、魔女が一名、その空を飛ぶことを中央局は禁じてはいないんだ。閉じるなとは言えない。だが、閉じるまで飛ぶなとも、どの書式にも書いていない」
「書いていないものは、誰の担当にもならない」
彼自身が中央局で言った言葉を、そのまま返した。
オルヴィンは困ったように、けれど少しだけ嬉しそうに笑った。
「……そういうことになるね。私が言えるのは、そこまでだ。あとは、君の領分だよ」
彼は長居をしなかった。
扉のところで一度だけ振り返り、ノエルへ小さく会釈をする。
ノエルは少し遅れて、頭を下げた。
オルヴィンはそれ以上何も言わず、夜の中へ出ていった。
店に、二人が残った。
暖炉の火が、さっきより低い。
中央局から持ち帰ったものが、まだ肩に載っている。膝の痛みとは違う。外套を脱いでも降りないものだ。
誰も、単独では戻せない。
戻せる欄そのものが、空欄のまま刷られている。
あの部屋で見たのは、悪意ではなかった。悪意のほうが、まだ相手の顔が見えただろう。
薪を一本、火にくべる。
炎が少しだけ背を伸ばし、壁に映った棚の影が揺れた。
この店は、追放されたあとに借りた店だ。局章も外套も取り上げられ、残った箒を持って、この四方の壁へ入った。
あの頃は、店を開ける理由など一つしかなかった。
配達不能ではない郵便物を、配達不能にされたまま置いておきたくなかった。
今は。
鞄から三十九通を、もう一度出す。宛名の並びで机に広げると、ノエルが隣へ立った。
まだ頬に赤みが残っている。
けれど、目はもう手紙を見ていた。
「クラリスさん。私も、行きます」
手は止めない。
「飛べないでしょう」
同じ言葉だった。
村へ発つ前にも、一度言った。あのとき、ノエルは黙った。
今度は違った。
「飛べないと、何もできないんですか」
手が止まる。
顔を上げ、ノエルを見る。
「質問を、変えましたね」
「はい」
三十九通を鞄へ戻し、留め具を締める。それから、箒を手に取った。
「火を、絶やさないでください」
「……火、ですか」
拍子抜けした声だった。
「私が戻るまで、この店を開けておいてください。灯りを、消さないで」
「でも、それは」
「夜のあいだに、村から報せが来るかもしれない。受け取りに来る人がいるかもしれません。そのとき、店が暗くて、扉が閉まっていたら」
箒を担ぐ。
「一度帰った人が、もう一度来るとは限りません」
「……それは、誰にでもできることです」
「あなただから、任せたいんです」
言ってから、違うと思った。
「……いえ。今のは違いますね」
こういうときに言葉を間違えるとは、たいへんよろしくない。
「あなたにしか、任せたくないんです」
ノエルが、何かを言おうとした。
その前に、扉を開ける。
夜の冷えが入り込み、店の火を一度だけ揺らした。
「あなたが火を守るかぎり、この店は閉じません」
返事は待たなかった。
箒を握り直し、そのまま夜の中へ飛び立つ。
高度を上げると、店の窓が下に小さくなっていった。
灯りは、消えなかった。
それだけ見て、村のほうへ箒の柄を向けた。




