すまない
中央局に着いたのは、日が傾いてからだった。
石の階段は、追放された日と同じ数だけあった。上りきる手前で膝が鈍く鳴る。細い支線を長く飛んだ疲れが、まだ腿の奥に残っていた。
無視できる程度ではない。無視した。今は膝の番ではない。
天井の高い受付広間も、変わっていなかった。人が同じ速さで歩き、同じ角度で書類を受け渡している。ここにいた頃、この広間は自分の職場で、今は、通してもらう場所だ。
同じ石の床が、立場によって別の硬さで足を押し返してくる。
受付で用件を告げると、待たされた。私設郵便屋、という名は、ここでは肩書きにならない。
むしろ話を通しにくくする種類の名だ。それでも、しばらくして通された。
名前のほうが、先に奥を歩いていたのだろう。良くも悪くも、この建物は自分を覚えている。
現れたのは、オルヴィンだった。
局章を着けている。現役の、それも相応の位置にいる者の着け方だった。
かつてクラリスの直属の上司だった男だ。追放のとき、最後まで書類を止めようとして、止めきれなかった人でもある。
あのとき彼が何を失ったのかを、クラリスは知らない。訊かなかったし、向こうも言わなかった。
「やぁ、クラリス」
その呼び方は、昔のままだった。
位が上がっても、彼はかつての部下を、他人行儀な名では呼ばないらしかった。
「来ると思っていたよ。グラウゼ村の件だろう」
「はい。延期を求めに来ました」
「まあ、座りなさい。……いや、君は座らないな。昔からそうだった」
オルヴィンは、少しだけ困ったように笑った。それから、その笑みを引っ込めた。
用件の重さを、思い出した顔だった。
「聞かせてくれるかい」
クラリスは鞄から書類を出した。村で、自分の足で揃えてきた条件だ。
「必要なのは、半日です。感染区域から人を出す必要はありません。入るのは郵便魔女、一名。防疫の手順は遵守します。運ぶのは、すでに受付を済ませた郵便物だけ。新規は受けません」
オルヴィンは書類に目を落とした。読むのが速い。要点だけを拾って、余分を落とす読み方をする。
「よく揃えてある。……君らしいね」
「揃えなければ、話にならないので」
「うん」
彼は書類をそっと机に戻した。乱暴には扱わない人だった。紙の角を、指先で少し直してから、顔を上げた。
「少し、確かめてくる。待っていてくれるか」
クラリスが頷くと、オルヴィンは席を外した。
待つあいだ、クラリスは広間の壁を見ていた。掲示の並び。通達の綴じ方。紙の角の揃え方。
すべて、自分が身体で覚えたやり方のままだった。追い出された場所の作法だけが、追い出されたあとの自分を助けている。皮肉な話だ、と思った。
オルヴィンが戻ってくるまでに、思ったより時間がかかった。戻ってきたとき、足取りが、行ったときより重かった。あちこちで頭を下げて回ってきた人の、重さだった。
「すまない、待たせたね」
彼は、まずそれを言った。それから、言いにくそうに続けた。
「閉鎖の決定は、もう、発行されてしまっているんだ」
「存じています。その決定を、半日ずらせないか、と」
「私も、そう思ってね。掛け合ってはみたんだよ」
オルヴィンは、自分の手のひらを、意味もなく見た。
「ただ……どうも、私が頼んで回れる話ではないらしくてね。閉じると決めたところは、医者の判断で動いている。その判断は、風路のほうからはどうにもできない。では日程のほうをと思うと、そちらはそちらで、決まった時刻に決まった手順で閉じるのが仕事で……止める、という仕事を、誰も持っていないんだ」
言いながら、彼はどんどん困った顔になっていった。理屈を並べているのではない。並べられないから、困っていた。
たいへん、不格好な人だ。
「つまり、こういうことですね。ひとつの部署が、全部を決めているわけではない。閉じると決めた者、時刻を管理する者、あとを配達不能として処理する者。みな別で、みな、自分の受け持ちを正しく終える。誰も手を抜いていない。抜いていないから、叩く場所もない」
「……ああ。そう、なるね」
「間違えていないから、戻せない」
「そうなんだ」
オルヴィンは、うなずいた。うなずくたびに、少しずつ肩が下がっていくようだった。
「情けない話でね。組織というのは、どうも、一度動き出したものを、たった一人のために止めるようには……できていないらしい。悪気があって止めないんじゃないんだよ。ただ、止めるための欄が、どの書式にも、無いんだ」
「用意されていないものは、誰の担当にもならない」
「うん。……うん」
クラリスは、書類を鞄に戻し始めた。ゆっくりと、角を揃えて。
「では、伺い方を変えます。誰も止められないのは、分かりました。では、誰か一人でも、止めていい、と言える人は、いますか」
オルヴィンは、答えなかった。
答えられないことを聞いてしまったんだとすぐにわかった。答えを探して、見つからないのだ。
彼の目が、一瞬、広間の奥へ向いた。誰かの顔を思い浮かべ、その人にこの話を持っていくところを想像し、そこで止まった目だった。
走ろうとして、走る先が無いことに気づいた人の顔だった。
それを見て、クラリスは少しだけ、この温厚な人に悪いことをしている気がした。止められない場所に立たせて、止めろと言っているのだから。
たいへん、よろしくない。それでも。
「私は、あなたに食い下がっています」
クラリスは言った。
「あなたが、止められる位置にいないことも、分かった上で、です。それでも、あなたに言うしかない。この建物で、私の話を聞いてくれる人は、もう、あなたしか残っていないので」
オルヴィンの顔が、そこでくしゃりと歪んだ。怒りでも、弁解でもない。ただ、痛そうな顔だった。
「クラリス。私は、あのときも、君を……」
「三十九通あります」
クラリスは、遮った。数字のほうが、感情より正確だからだ。彼にあのときの話をさせると、二人とも、今の三十九通から目を離すことになる。
「本人にしか渡せないものが、その中にあります。本人が起きられない家がある。代わりに受け取れる人を、まだ確かめきれていない家がある。半日あれば、確かめられます。確かめて、渡せるものだけを、渡せます」
「分かっているよ」
「三十九通です」
「……分かっている」
オルヴィンは、両手を静かに机についた。相応の位にある人が、元部下ひとりの前で、そうした。
「すまない」
その一言は、まっすぐクラリスへ向けられていた。中央局を代表した詫びではない。オルヴィン個人の、抑えきれずに漏れた声だった。
「私に謝って、どうするのですか」
クラリスは言った。責める響きはなかった。ただ、事実を一つずつ置いていく声だった。
「あなたが謝っても、風路は閉じます。三十九通は、届かなくなります。違いますか」
「……違わないね」
「では、謝らないでください」
クラリスは、留め具に指をかけた。
「謝られると、あなたを恨めなくなる。恨む相手がいなくなると、この三十九通は、誰のせいでもなく届かなかったことになる。それが、たいへん、よろしくないのです」
オルヴィンは、何か言いかけて、言葉が見つからないようだった。優しい人ほど、こういうとき、うまい言葉を持たない。
「誰も、間違った処理はしていないのですね」
クラリスは、もう一度、確かめた。
「していない、ね」
「では、三十九通は、正しく届かなくなる。正しさが、そう決めた」
オルヴィンは、何も言えなかった。言えないことが、答えだった。
クラリスは背を向けた。歩き出すとき、膝が鈍く痛んだ。今度は、無視しなかった。
痛みは正確だ。感情と違って、あるものはある、とだけ告げてくる。
恨む相手を探すより、膝の痛みのほうが、まだ扱いやすかった。
広間を出る間際、背中に声がかかった。
「クラリス」
足を止めた。振り返らない。
「今夜、そちらへ伺うよ。……上司としてでは、ないがね」
クラリスは、少しのあいだ、そのままでいた。この人は、止められない場所からでも、まだ何かを持って走ろうとする。厄介な人だ、と思った。昔から、そうだった。
「郵便でしたら、受け付けます」
そう言って、中央局を出た。
外は、もう暗くなりかけていた。西の空だけが、赤い判のような色をしている。閉じるのは、明日の朝。
まだ、夜がある。夜のあいだは、まだ、閉じていない。




