壁
六十二通を、宛名の並びで鞄に納める。
折れない位置に、濡れない場所に、落ちても最初に守られる場所に。
数が多いだけで、やることは一通のときと変わらない。
変わらないことを、クラリスは丁寧に繰り返した。
鞄の留め具を締めたとき、ノエルが外套を羽織っているのに気づいた。
「何をしているのですか」
「行きます」
「飛べないでしょう」
ノエルの手が、外套の襟で止まった。
言い返そうとして、言い返せなかった顔だった。飛べない。
それは事実で、事実には反論のしようがない。
悔しそうな顔を、ノエルは一度だけした。それから、外套を脱いだ。
「……はい」
「留守を頼みます。中央局から何か来たら、開けずに、受けた時刻と名前を控える。あなたのやり方で」
「私のやり方」
「留守中受付。権限未確認の」
ノエルは、少しだけ口元を動かした。笑いかけて、やめたようだった。
クラリスは箒を手に取り、外へ出た。
空は低い。北へ向かうほど、雲が厚くなっていくのが見える。
グラウゼ村へ続く風路は一本きりで、その一本が、あの雲の下を通っていた。
ローデンを出るまでは、本線風路が身体を運んでくれた。
太い流れに箒の穂先を置くだけで、前へ進む。
楽だ。楽なだけで、これはもう、自分に許された道ではない。
灯が消えても点け直す者はなく、落ちても拾いに来る者はいない。
飛ぶなと言われたことはない。ただ、後ろ盾がないというのは、そういうことだった。
楽なうちに、距離を稼ぐ。
本線からグラウゼ支線へ折れると、足元の支えが薄くなった。閉鎖前だから、風標の灯はまだ生きている。生きてはいるが、間隔が広い。
灯と灯のあいだは、自分の指先で流れを拾うしかなかった。
尾根が近づく。風路は尾根に沿って一本、他のどこへも枝分かれせずに延びていた。
迂回がないというのは、こういうことだ。この一本を外せば、戻る道も進む道も同時に失う。
鞄の重さが、腰に食い込む。六十二通ぶんの重さだった。一通なら、風に流されても身体だけ庇えばいい。六十二通は、身体より先に庇う。
クラリスは飛び方を、いつもより低く、いつもより遅くした。
尾根を越えると、村が見えた。
煙突から煙が上がっている家は、数えるほどだった。それが病のせいなのか、もともとそういう村なのかは、上からは分からない。
分からないものは、決めない。クラリスは村の外れに降りた。
地面に足が触れた瞬間、膝に鈍い重さが来る。細い支線を長く飛んだあとは、いつもこうだ。無視できる程度なら、問題ではない。
村の入口に、白い布が下がっていた。病の出た家に下げるものだと、この地方では聞く。一枚ではなかった。道の先にも、また一枚。
人影が近づいてきた。四十くらいの女で、口元を布で覆っている。目だけが、警戒と疲労で赤い。
「入らないで。病が出てる」
「存じています。ですので、手順を守ります」
クラリスは足を止め、それ以上は近づかなかった。
「郵便です。グラウゼ村宛の郵便を、六十二通、預かってきました」
女の目が、わずかに見開かれた。
「六十二……この村に、そんなに」
「差出人は、みなローデンの方です。村を出た子や、孫や、兄です」
女は、しばらく言葉を探していた。
「あたしはグレタ。村長が倒れてから、代わりに村のことを」
「では、話が早いです。届け方の相談を」
「届けるって、どうやって。家は閉じてる。動ける者は少ない。寝ついてる者は、起きられない」
「一軒ずつ、伺います」
「一軒ずつって、あんた一人で」
「一人です」
グレタは、布の上から額を押さえた。
「悪いけど、そんな時間はないよ。明日の朝には、風路が閉まる。中央局がそう言ってった。あんただって、それで来たんだろう」
「はい。ですので、今日のうちに、できるだけ」
クラリスは鞄を開けなかった。まだ、開ける相手が決まっていない。
「一つ、先に伺います。この六十二通のうち、本人にしか渡せないものが混じっています。ご本人が受け取れない場合、代わりに受け取れる方がいるものと、いないものがある」
「その違いが、何だっていうんだい」
「代わりに受け取れる方がいないものは、ご本人が起きるまで、お渡しできません」
グレタの手が、止まった。
「……渡せない? 届けに来たのに」
「届けに来ました。ですが、本人限定の郵便は、本人の意思がなければ、家族にもお渡しできません。それが決まりです」
「決まり」
グレタの声が、少し尖った。
「決まりで、届かないのかい。中央局と同じじゃないか」
クラリスは、その言葉に何も返さなかった。すぐには。
中央局と同じ。言われて、否定できるかどうかを、一度、自分に確かめた。
「同じに見えるなら、それで結構です」
クラリスは言った。
「ですが、私は、渡さないと決めているのではありません。渡していいかどうかを、まだ決めていないのです。本人が答えれば、渡します。答えられないものは、預かったまま、待ちます」
「待つって、いつまで」
「本人が答えられるまで。あるいは、宛先が変わるまで」
「明日の朝には、道が閉まる」
「存じています」
グレタは、疲れた目でクラリスを見た。
「あんた、変わった郵便屋だね」
「よく言われます」
クラリスは、村の掲示板に目を留めた。半分朽ちた板で、古い通達の紙が雨に溶けかけている。だが、まだ紙は貼れる。
「呼びかけと、掲示を使います。動ける本人と、確認の取れる家族だけ、集めてください。名前を読み上げます。来られた方から、確認して渡します。来られない家は、私が回れる分だけ回ります」
「それで、間に合うのかい」
「間に合う分だけ、間に合わせます」
グレタは、少しのあいだ黙ってから、頷いた。
「分かった。人を集める。あたしにできるのは、それくらいだ」
クラリスは、鞄から名簿の写しを取り出した。六十二の宛名が、ノエルの大きな字と、自分の細い字で、半分ずつ書かれている。ローデンの店で、二人で受けた列だ。
名前を読み上げる。集まったのは、思っていたより少なかった。動ける者が少ない村だった。
一人ずつ、確認して渡す。本人が来た者には、本人に。家族が来て、代わりに受け取れると分かっているものは、家族に。分からないものは、渡さない。
マイアの母、テレサ・レンツも、その中にいた。痩せていたが、自分の足で立っていた。
娘からの封筒を、両手で受け取る。中身は読まなかった。受取人のものだ。
クラリスは、封筒がテレサの手に渡ったことだけを、票に記した。配達完了。二十三通目だった。
夕方までに、二十三通。
残りは、三十九通。
本人が寝ついている家。意識のない家。代わりに受け取れる者が、まだ確かめられない家。三十九通は、そのどれかだった。
クラリスは、村の外れから空を見た。風標の灯は、まだ生きている。明日の朝までは。
三十九通を、どうやって明日の朝までに片づけるか。片づける、という言い方は正しくない。
三十九通のうち、本当に届けられるのはどれか。それを分けながら配るだけで、相応の時間がかかる。
「作ってきます」
クラリスは、誰にともなく言った。グレタが、聞き返す。
「作るって、どうやって」
「あちらに、頼みます」
クラリスは箒を担いだ。膝の重さは、まだ残っている。
無視できる程度ではなくなりかけていたが、やはり、無視した。
中央局へ。閉じるのを、数刻でも長く待たせるために。




