報せ
朝の店は静かだった。暖炉にはもう火が入っている。
ノエルが火を入れる時刻は日ごとに早くなっていて、留守番の礼儀だと以前言ったのを、律儀に守りすぎているらしかった。
火が惜しいと言うほど、店はもう貧しくない。それくらいには、稼げるようになっていた。
仕分け棚には、配達済み控えが並んでいる。
旧ミルゼ村、アスケル、グレイン染織工房、北区仕立組合、灰梟亭。
空だった余白が、少しずつ埋まっていくのを、クラリスは悪くない気分で眺めた。
ノエルは机で依頼票の様式を写している。
字は大きく、順番通りで、分からない欄は空けてあった。空欄を怖がるだけの子どもではなくなったな、と思う。
「クラリスさん。配達済みの控え、そろそろ棚に入りきりません」
「新しい棚を考えます」
「考えるだけですか」
「考えてから買います。順番です」
ノエルが少し笑った。その笑いが消える前に、扉が開いた。
いつもの頼りない鈴の音ではない。扉そのものが乱暴に押し開けられて、鈴が悲鳴のように鳴った。
たいへんよろしくない。
入ってきたのは若い女だった。息が上がり、外套の裾に乾いた泥がついている。
走ってきたのだろう。
両手で一通の封筒を持っていた。握ってはいない。
胸の前で、そっと支えるように持っている。
角は折れていない。走りながらも、折らないように持ってきたらしかった。
たいへんよろしい。
「配達を、お願いします」
「承ります。ただし順番があります。まず、お名前を」
「マイアです。マイア・レンツ」
「宛先は」
「グラウゼ村。テレサ・レンツ。私の母です」
グラウゼ村。その名を、最近どこかの紙で見た気がした。
中央局から回ってくる通達の、綴りのどれかだ。
「グラウゼ村へは、風路が一本」
「はい。一本だけです」
「その風路が」
「明後日の朝、閉じます」
マイアの声が、そこで一段低くなった。
「病が、出たんです。村に」
マイアの指が、封筒の縁を握りかけて、止まった。
「うつるものだって。だから、閉めるって、中央局が」
「配達不能の判は」
「まだ……でも、閉じたら、同じことだからって」
クラリスは壁の地図へ目を向けた。
新しい風路図の下に、古い支線図を重ねてある。
グラウゼ村は両方に載っていた。
ただ、村へ向かう風路は一本きりだ。
尾根に阻まれて、他のどの支線ともつながっていない。一本閉じれば、空からはもう届かない。
「地上からは」
「地上からでは、峠が雪です。今から歩いても間に合いません。風路が使える今のうちでなければ、村には入れません!」
「手紙は、一通ですか」
マイアは唇を噛んだ。
「……最後に、なるかもしれないんです」
「存じません」
冷たく聞こえたはずだ。
「最後になるかどうかは、私の仕事ではありません。私の仕事は、その手紙をテレサ・レンツさんまで運ぶことです」
マイアが顔を上げる。クラリスは封筒を、両手で、折れない位置に受け取った。それを見て、マイアがようやく泣きそうな顔をした。
「泣くなら、封筒から離れてください。涙は紙に染みます」
マイアは袖で目元を押さえた。封筒からは、ちゃんと離れている。
そのとき、扉がもう一度開いた。
今度は静かに、けれど迷いのある開き方で。立っていたのは恰幅のいい中年の男だった。
見覚えがある。いつだったか、窓越しに店の中を覗いて、そのまま帰っていった男だ。
あの日は客がいるのを見て引き返した。今日は引き返さなかった。
「……外で、聞こえてしまって。グラウゼ村と」
「はい」
「うちの、息子夫婦が、あの村にいる」
男の手にも封筒があった。まだ赤い判は押されていない。押される前の封筒だ。
「風路が閉じると聞いて、中央局に行ったんです。明後日の朝までのものは間に合えば運ぶ、と。でも通常便は、もう受け付けを止めていて」
男は封筒を握りしめた。
「間に合わないんです」
クラリスは二通の封筒を見た。マイアのものと、男のもの。宛先は同じ村で、閉じるのは同じ朝だった。
「お預かりします。ただし、順番に」
男が頭を下げる。その頭が上がる前に、扉の外で足音がした。一人ではない。
誰が誰に話したのかは、クラリスの知るところではない。
ただ、扉の外の気配が、ひとりでは終わらなかった。
次に入ってきた者にも、その次の者にも、グラウゼ村に家族がいた。
妹がいる、祖父母がいる、まだ会わせていない赤子がいる。
そう口にする顔が、入れ替わり立ち替わり、封筒を差し出してくる。
昼を過ぎる頃には、窓の外に人が集まり始めていた。クラリスは受付を止めた。
「本日の受付は、ここまでです」
ざわめきが起きた。そんな、間に合わなくなる、明後日なんだろう——声が重なる。
「はい。ですから、今日は止めます」
クラリスは遮らず、声が小さくなるのを待ってから続けた。
「一通ずつ慌てて受ければ、必ず取りこぼします。宛先を間違え、本人限定を代理で受けてしまう。届いたはずのものが、届かなくなります。」
皆、一瞬静かになる。
「明日の朝、まとめて受け付けます。差出人、宛名、本人限定かどうか、代わりに受け取れる方がいるか。全部、伺います。閉じるのは明後日の朝。明日のうちに村へ入れれば、間に合うものはあります」
誰かが小さく訊いた。
「本当に、届くのか」
「届く、とは申しません。が、届けます、可能な限り」
保証ではない。保証ではないから、たぶん信じられたのだろう。人々は、明日の朝、と口々に言いながら引いていった。
店にはマイアだけが残った。
「あの。母のは、一番に」
「順番は宛先と本人確認で決めます。差出人の早い遅いでは決めません」
「……はい」
「ですが」
クラリスは、マイアの封筒を仕分け棚の一番手前に置いた。
「一番に来た手紙であることは、記録しておきます」
翌朝、扉を開けると、店の前に列ができていた。道の曲がり角まで続いている。先頭がどこで、末尾がどこかは、開けた戸口からは末尾のほうが見えなかった。
ノエルがその列を見て、それからクラリスを見た。
「クラリスさん、これ」
「グラウゼ村宛です」
「全部、ですか」
「全部です」
ノエルの顔が強張る。昨日、店を出るときにはなかった列だ。一晩のあいだに、これだけの人間が同じ村を向いた。それが多いのか少ないのか、クラリスには数える気がなかった。数えるべきは、人ではなく封筒だ。
「私、何を」
「受付です」
クラリスは机の上に、受付票の束を置いた。昨夜のうちに罫線を引いておいたものだ。
差出人、宛名、本人限定か、代理受領の可否、連絡先。欄はいつもと同じで、枚数だけがいつもと違った。
「差出人と宛名を確認して、票に写してください。分からないものは」
「空欄。勝手に埋めない」
「はい」
ノエルが筆を取る。その手は、昨日マイアが封筒を持っていたときと同じように、少しだけ震えていた。クラリスは気づかないふりをした。指摘すれば、震えは増えることがある。
列の先頭には、老婆が薄い封筒を握っていた。
透かさなくても軽いと分かる。
便箋ではなく、一行だけ書いた紙が折らずに入っている、そういう軽さだ。
その後ろの若い母親は、封筒ではなく小さな包みを抱えている。布の畳み方から、子どもの着るものだろうと見当をつけた。
列は、その後ろにも続いていた。
一通のはずだった。昨日の朝この店に飛び込んできたのは、一通の手紙だった。それが今、戸口から見える範囲だけでも、数えきれない。
クラリスは受付票を数えた。昨夜引いた枚数では、足りない。もう一束を棚から出し、罫線をその場で引く。
「配達困難郵便、承ります」
列の先頭へ、いつもと同じ言葉をかけた。ただ、いつもより宛先が多かった。




