言い訳
中央郵便局監察課の朝は、書類の匂いから始まる。
テオ・ランズは、机の上に積まれた報告書の山を前に、ペンを止めていた。
一番上の紙には、ローデン外れの私設郵便屋に関する照会記録、とある。
半年前は、こんな書類はなかった。
あってもせいぜい、年に一度、管轄外業者による越権行為への懸念、として監察課内部で回覧される程度だった。
今は違う。
灰梟亭の商団先触れの件。
これは、もともと中央局側に開いていた案件だった。
経由地の遅延について、宿の主人ハンス・ヴォルフから正式な問い合わせがあり、担当窓口が「期日までに届かない可能性が高い」と回答していた。
その案件が今週、続報付きで閉じられた。
私設郵便屋による迂回配達により、期日内に到着。当局の対応とは無関係に、依頼人が独自に解決。
窓口の担当者は、単なる事務処理としてそう書いたのだろう。
だが、テオの目には、それが違う意味を持って映った。
中央局が「間に合わない」と判断した案件が、実際には間に合っていた。
北区仕立組合の一件も、同じ構造だった。
もともと、旧名宛郵便の確認票発行に関する内部の記録として存在していた案件が、宛名人該当なしという形で処理され、閉じられている。
旧ミルゼ村への配達記録も、もとをたどれば、風標故障による正式な閉鎖記録がある土地への配達だった。
どれも、中央局が先に何らかの判断を下していた案件だ。
その判断の続きに、いつの間にか、同じ名前が書き込まれている。
クラリス・ヴェイン。
テオはその束を持って、マルタの部屋へ向かった。
「キール課長」
「また、あの店のことですか」
マルタは顔も上げずに言った。
「はい」
「今度は何を持ってきたのです」
「照会記録が、また増えました」
テオは束を机に置いた。
マルタは、ペンを止め、束を一瞥する。
「四件、ですね」
「はい。しかも、今回は少し様子が違います」
「様子が違う、とは」
「灰梟亭の案件、担当窓口の閉鎖記録に、続報が書き添えられていました。私設郵便屋による迂回配達で、期日内に到着したと」
マルタは、書類を一枚一枚めくった。
その手つきは、以前より少しだけ丁寧だった。
「当局が『間に合わない』と判断した案件が、実際には間に合っていた、ということですね」
「はい」
「これまでは、越権行為への懸念として、内部で問題視されるだけでした」
テオは言った。
「私設業者が中央局の判断を覆した、という報告は、たいてい担当部署の面目に関わる話として処理されていました。ですが、今回のこれは」
「結果を、記録として残さざるを得ない」
「はい」
マルタは、書類を閉じた。
「厄介ですね」
「厄介、とは」
「規則の外での配達を、公式に取り上げるわけにはいきません。他の業者も同じことを始めます」
「では、無視しますか」
「無視すれば、この束はいずれ、もっと分厚くなります。どちらにしても、面倒は増える一方です」
マルタは、興味を失ったように書類を脇へ寄せた。
「テオ」
「はい」
「あの確認票の件、進捗は」
テオの表情が、わずかに引き締まった。
確認票の件。
発行申請者欄が空欄のまま角印だけが押されていた、あの一連の書類のことだ。
「符丁から、担当者を二名まで絞りました。どちらも、監察課の下位記録係です」
「二名、まで」
マルタの声に、一瞬だけ間が空いた。
「はい。ただ、二人とも、当時の勤務記録上は非番でした」
「非番の日に、印を押したと」
「その可能性が高いです」
「非番の日の押印記録なら、他にも似た例があるはずです」
マルタは、あっさりと言った。
「監察課では、繁忙期に非番の者へ代理を頼むことは珍しくありません。それだけで、不正の証拠にはなりません」
「ですが、申請者欄が空欄のままというのは」
「事務の不備でしょう。よくあることです」
テオは、口を挟みかけて、止めた。
よくあること、と片づけるには、四件とも同じ空欄だった。
マルタは、それを承知しているはずだった。
「この二名への聴取は、私が預かります」
「私が聴取するのでは」
「あなたが動けば、噂になります。今の時期、それは避けたい」
もっともらしい理由だった。
もっともらしすぎる、とテオは思った。
「グライス監察官には」
「報告は不要です」
マルタは、いつもより早口で言った。
「この程度の事務不備で、監察官の手を煩わせる必要はありません」
テオは、その一言に、小さな引っかかりを覚えた。
聴取は自分が預かる、と言った舌の根も乾かぬうちに、報告そのものが不要だと言う。
不正の証拠にならない事務不備なら、わざわざ自分の手元に置く必要はないはずだ。
二つの言い分は、並べると、うまく噛み合わなかった。
「……承知しました」
テオは、それだけ答えた。
だが、顔には出さないまま、こう思っていた。
これは、庇っているのではないか。
「まだ、疑っているわけではありません」
マルタは、きっぱりと言った。
きっぱりしすぎている、とテオは思った。
疑っていないなら、ここまではっきり否定する必要はない。
「ただ、誰に、いつ、何を報告するかは、慎重に選びなさい」
「はい」
テオは一礼し、部屋を出かけた。
途中で、マルタが小さく付け加えた。
「テオ」
「はい」
「あの私設郵便屋の記録も、確認票の件の記録も、今後は私に直接見せなさい」
「グライス監察官を通さずに、ですか」
「規定通りではありませんが」
マルタは、ペンを取り直した。
その手元を、テオは少しの間、見ていた。
いつも通りの、落ち着いた手つきだった。
落ち着きすぎている、とも思えた。
「握りつぶされた案件の責任を、後から私が負わされるのは御免です。手元で管理した方が、まだましというだけのことです」
「承知しました」
テオはそう答えたが、内心では、別のことを考えていた。
管理したいのか。
それとも、これ以上進ませたくないのか。
今のテオには、まだその区別がつかなかった。
テオは部屋を出た。
廊下の窓から、ローデンの方角を見る。
直接見えるはずもないが、なんとなく、その方向を見た。
半年前、査問室でクラリス・ヴェインを追放した時、テオはただの記録係だった。
判を押す人間の隣で、紙を並べる係。
あの日、彼女が最後に見せた顔を、テオはまだ覚えている。
怒っているのでも、泣いているのでもない、ひどく静かな顔だった。
あの顔をした人間の名前が、今、中央局自身の判断を覆した続報の上に書かれている。
テオは、自分の中で何かが少しずつ動いているのを感じていた。
それが何なのか、まだうまく言葉にできない。
その日の午後、監察課の廊下で、テオはグライス監察官とすれ違った。
初老の、痩せた男だった。
物腰は柔らかいが、目つきは常に何かを値踏みしている。
「ランズ君」
「監察官」
「例の私設郵便屋の件、進んでいるようだね」
テオは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……お耳に入っていましたか」
「キール課長が、随分熱心に書類を集めていると聞いてね」
グライスは、柔らかく笑った。
「気になることでも?」
「いえ」
テオは、表情を変えないよう努めた。
「通常の業務範囲内です」
「そうか」
グライスは、それ以上何も訊かず、廊下を歩き去った。
その背中を見送りながら、テオは、マルタの言葉を思い出していた。
まだ、疑っているわけではありません。
テオは、自分の手のひらが、わずかに湿っていることに気づいた。




