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認められる側

 ローデンで一番大きな宿は、〈灰梟亭〉という。


 旅商人や巡回の役人が泊まる、町で唯一の三階建てだった。


 主人のハンス・ヴォルフは、この町で三十年、宿を切り盛りしてきた男だ。


 太い眉と、がっしりした体つき。声は大きく、愛想はあるが、値踏みも早い。


 その男が、私設郵便屋の前に立っていた。


 珍しい、というより、初めてのことだった。


 正確には、二度目だった。


 数日前、店先まで来て、中に見慣れない客がいるのを見て、そのまま帰った日がある。


 今日は、店の中に人影はない。


「……閉まってはいない、な」


 ハンスは扉の札を確かめた。


 配達中ではない。


 営業中。


 彼は一度、深呼吸をしてから、扉を押した。


 鈴が鳴る。


「郵便です」


「まだ言ってない」


 ハンスは苦笑した。


 クラリスは帳場から顔を上げた。


「失礼しました。御用件を伺う前に申し上げる癖がついています」


「そういう店だ、とは聞いてる」


 ハンスは店の中を見回した。


 仕分け棚、地図、観測針。


 半年前まで、彼はこの店の前を通るたびに、少しだけ顔をしかめていた。


 中央局を追い出された魔女の店。


 うさんくさい。


 そう思っていたことを、今更ながら思い出す。


「灰梟亭のハンス・ヴォルフだ」


「存じております」


「知られてるとは思わなかったな」


「町で一番大きな宿の主人が、私設郵便屋の店構えなど覚えていないのが普通です」


「言うね」


 ハンスは笑った。


 愛想笑いではなかった。


「単刀直入に言う。うちの宿で、困ったことになっている」


「伺います」


 クラリスは椅子を勧めた。


 ハンスは腰を下ろし、懐から一通の書状を取り出した。


 厚い紙。


 商業組合の印がある。


「半月後、東方から大口の商団が来る。うちに十五部屋、まとめて予約が入ってる」


「それは、盛況でたいへんよろしいことです」


「盛況すぎて困ってる」


 ハンスは苦い顔をした。


「予約と一緒に、商団長からの先触れが来るはずだったんだ。いつ、何人で、何を運んでくるか。準備がある」


「届いていないのですか」


「届いてない」


 ハンスは書状を机に置いた。


「中央局に問い合わせたら、経由地の中継拠点で足止めされてる、と。今は閉鎖中の風路を迂回してるとかで、いつ着くか分からんと言われた」


「配達不能の判は」


「まだ押されてない。だが、押される寸前だと言われた。『期日までに届かない可能性が高い』とさ」


 クラリスは帳簿の端に、要点を書き留めた。


 商団の先触れ。


 経由地、閉鎖風路により遅延。


 期日、半月後。


「なぜ、当店へ」


 クラリスは訊いた。


「正直に申し上げますと、あなたのような立場の方が、うちのような店に来るのは珍しいことです」


 ハンスは、少しの間、黙っていた。


「宿の常連に、北区の仕立組合に出入りしてる商人がいてな」


「マレアさんの」


「その人だ。困ったときに頼れる人がいる、とだけ聞いた」


 ハンスは腕を組んだ。


「規則通りにやってちゃ間に合わない時に、規則の外から届けてくれる郵便屋がいる、と」


「買いかぶりです」


「買いかぶりかどうかは、これから分かる」


 ハンスの声には、まだ半分、値踏みの色が残っていた。


「先に言っておく。うちは、あんたの店みたいな『情でどうにかする』商売は信用してない」


「情ではありません」


 クラリスは即座に答えた。


「配達です。可能であれば届ける、それだけのことです」


 ハンスは、その言い方に、少しだけ目を細めた。


「……よく口にする台詞なんだろうな、それ」


「よく申し上げます」


 クラリスは立ち上がり、壁の地図へ向かった。


 商団が来るという経由地の名を、ハンスに確認する。


 新しい地図。


 古い支線図。


 手書きの記録。


 東方からの経路は、いくつかの閉鎖区間を含んでいた。


「閉鎖されている区間は、三箇所ですね」


「そう聞いてる」


「そのうち二箇所は、私も存じません。ここから先は、私の目でも読めない可能性があります」


 クラリスは正直に言った。


 ハンスの眉が、わずかに動く。


「できない、ということか」


「一箇所は、読めます」


 クラリスは、地図の一点を指で示した。


「残り二箇所については、まず私自身が確認に向かいます。読めなければ、その時点でお断りします」


「先に言うのか、それを」


「後で言えば、あなたの準備が間に合いません」


 ハンスは、しばらくクラリスを見ていた。


 値踏みする目ではなくなっていた。


「宿の予約を扱う仕事をしていると、できないことをできると言う人間には、慣れてる」


 ハンスは言った。


「逆に、できないかもしれないと先に言う人間には、あまり慣れてない」


「たいへん不本意ながら、正直者なもので」


「不本意なのか」


「商売としては、もう少し景気の良いことを申し上げた方が、依頼が増えます」


 ハンスは、今度こそ声を立てて笑った。


「増やす気、なさそうだな」


「増やしたくないわけではありません」


 クラリスは帳簿を閉じた。


「ただ、増やし方を間違えると、届くはずのものが届かなくなります」


 ハンスは、書状を鞄の中へ視線で示した。


「その先触れを、届けてもらえるか」


「お預かりします」


 クラリスは言った。


「ただし、報酬は、届いてから頂戴します」


「先払いしないのか」


「今は、届けられるかどうかも分からない依頼です。先払いを受け取るのは、不誠実です」


 ハンスは、懐から巾着を出しかけて、止めた。


「そう言われると、出しにくいな」


「出さなくて結構です」


 クラリスは立ち上がり、外套を手に取った。


「では、確認に参ります」


「今からか」


「早い方が、あなたの準備の時間が増えます」


 ハンスは、ゆっくりと頷いた。


「灰梟亭で待ってる」


「承りました」


 ハンスは扉へ向かい、途中で一度だけ振り返った。


「クラリスさん」


 名前を呼ばれ、クラリスは少しだけ眉を動かした。


「はい」


「うさんくさい店だと思ってた。悪かったな」


「今も、うさんくさいままだと思います」


 クラリスは淡々と答えた。


「今回、たまたま結果が伴うかもしれない、というだけです」


「まだ届いてもいないのに、随分と控えめだな」


「届く前に期待させる方が、無責任です」


 ハンスは、今度は苦笑ではなく、素直に笑った。


「分かった。灰梟亭で待ってる」


 扉が閉まり、鈴の音が消える。


 クラリスは箒を手に取った。


 鞄の留め具を確かめる。


 封筒は、まだ何も入っていない。


 これから確認に向かう先の名を、頭の中で並べる。


 一箇所目は読める。


 二箇所目、三箇所目は分からない。


 分からないまま飛ぶのは、いつものことだった。


 空へ上がる前に、店の前に立てかけた看板を、一度だけ見る。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 半年前、この看板を見て、たいていの者は通り過ぎていった。


 今は、町で一番大きな宿の主人が、頭を下げて依頼をしに来る。


 変わったのは、看板ではない。


「配達困難郵便、承りました」


 小さく呟いて、クラリスは空へ上がった。



 その日の夕方、店に戻ったノエルは、机の上に置かれた新しい依頼票を見つけた。


 灰梟亭、ハンス・ヴォルフ様。


 商団先触れ、確認中。


 備考欄には、クラリスの字で短く書かれていた。


 二箇所のうち一箇所、通行可能と判明。残る一箇所、明日確認予定。


 ノエルは、それを読んで少し笑った。


「増えてますね、依頼」


 誰もいない店に向かって、そう呟いた。


 暖炉には、今日も火が入っていた。

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