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噂の芽

 その日、ローデン外れの私設郵便屋には、珍しく朝から客が絶えなかった。


 珍しい、というのは正確ではない。


 多い日で三件。


 少ない日で、ゼロ。


 それでも、以前のクラリスの店を知る者からすれば、三件は多いに分類された。


「配達完了です」


 クラリスは帳簿にペンを走らせた。


 仕分け棚には、配達済み控えが増えている。


 旧ミルゼ村、アスケル、グレイン染織工房、北区仕立組合……。


 紙の枚数が増えるたびに、棚の余白が少しずつ埋まっていく。


 暖炉には、今日も火が入っていた。


 茶葉の缶は、まだ軽い。


 だが、以前ほどではない。


「クラリスさん」


 ノエルが扉から顔を覗かせた。


「外に、変な人がいます」


「変な人、では依頼になりません」


「箒を持った人です。中央局の外套じゃないけど、認可箒っぽいのを担いでます」


 クラリスは帳簿から顔を上げた。


 認可箒。


 中央局の認可を受けた郵便魔女の装備だ。


 だが、外套は中央局のものではない。


「郵便魔女、ですか」


「多分」


 クラリスは椅子から立ち、窓の外を見た。


 店の前に、若い女が立っていた。


 年の頃は、クラリスと近い。


 燃えるような赤毛を、肩の上で一つに束ねている。意志の強さを感じさせる目元と、よく通る鼻筋。


 旅装束の外套を着ていても隠しきれない、人目を引く容姿だった。


 肩に立派な箒を担ぎ、看板をじっと見ていた。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 女は看板を読み終えると、腕を組んだ。


 値踏みするような目だった。


 クラリスは扉を開けた。


「御用でしたら、中へどうぞ」


 女は少しだけ驚いた顔をした。


「気づかれてた?」


「窓から丸見えでした」


 女は苦笑し、店の中へ入った。


 箒を扉の横に立てかけ、店内を見回す。


 仕分け棚、古い地図、風路の観測針、帳簿。


 値踏みする目は、まだ続いていた。


「イレーナ・ソルグ。中央郵便局、実績監査部門です」


 女は身分証を提示した。


 中央局の紋章が刻まれた、正式なものだった。


 ノエルが、少し身構える。


「監査、ですか」


「ああ、身構えないで。今日は仕事じゃない」


 イレーナは軽く手を振った。


「休みを使って、勝手に見に来ただけ。上には報告しない」


「では、なぜ」


「噂を聞いたから」


 イレーナは帳場の椅子に、断りもなく腰かけた。


「配達不能を配達不能で終わらせない郵便屋がいる、って。うちの部署にも、その名前が回ってきてる」


「回ってきている、とは」


 クラリスは帳簿を閉じた。


「あなたの店が処理した記録が、いくつか照会の形でうちに上がってくるようになった。旧ミルゼ村、グレイン染織工房、あと最近は――」


 イレーナは、そこで一度言葉を切った。


「北区仕立組合の一件も」


 クラリスは表情を変えなかった。


 だが、鞄の留め具に触れる指先が、わずかに止まった。


「照会の内容までは、存じません」


「知らなくていい。私も詳細は見てない」


 イレーナは肩をすくめた。


「ただ、記録の数が増えてる。それだけで、ちょっと気になる存在にはなってる」


「良い意味ですか」


「さあ」


 イレーナは笑った。


 含みのある笑い方だった。


「それを確かめに来たの」


 イレーナは、店の壁に貼られた地図に目を留めた。


 新しい地図。


 その下に重ねられた、古い支線図。


 さらに隅に、手書きで補った記録。


「地図、何枚も重ねてるのか」


「一枚では足りませんので」


「それは、つまり」


 イレーナは眉を寄せた。


「中央局の地図が、間違ってるってこと?」


「間違っている、とは申しません」


 クラリスは答えた。


「地図に描かれなくなった道が、まだ残っているだけです」


 イレーナは、すぐには納得しない顔をした。


 クラリスはそれ以上説明せず、窓の外へ目を向けた。


 冷たい風の中、うっすらと、白く発光する筋が空にかかっているのが見えた。


 それから、傍らの観測針を手に取り、同じ方向へかざす。


 針の先が、わずかに震えた。


 目で見たものと、針の示すものが一致する。


 それを確かめてから、クラリスは針を下ろした。


 イレーナはそれを、身を乗り出して見ていた。


「……見えるのか、それで」


「針は、確かめるためのものです」


「じゃあ、見えてるのは」


「私の目です」


 イレーナは、少し驚いた顔をした。


「規定の観測器より、精度は」


「私は道具を疑ってはいませんが、道具も私を疑っています。お互い様です」


 イレーナは、思わず噴き出した。


「変な言い方するね」


「よく言われます」


 クラリスは針をしまった。


 その時、扉の外に人影が見えた。


 窓越しに覗いていたのは、恰幅の良い中年の男だった。


 中へ入ろうとして、店内にイレーナがいるのに気づき、一瞬迷う素振りを見せる。


 それから、小さく会釈をして、そのまま踵を返して去っていった。


 クラリスは、その背中を見送った。


「知り合いか」


 イレーナが訊いた。


「お客様かもしれません」


「入ってこなかったが」


「出直すのでしょう。急ぎでなければ、それで結構です」


 イレーナは肩をすくめ、それ以上は追及しなかった。


「さっきの、地図にない道の話」


 イレーナが言った。


「そういう配達も、正規の届出は?」


「していません」


「地図にない道を使うなら、届出が必要なはずだけど」


「届出をすれば、中央局の判断が入ります」


 クラリスは淡々と答えた。


「判断が入れば、配達不能になる可能性が高まります」


「それは、規則を無視してるってことじゃ」


「無視ではありません」


 クラリスは、イレーナをまっすぐ見た。


「届出をしていない配達は、届出をしていない配達として、私が全責任を負います。中央局には一切、迷惑をかけません」


 イレーナは、しばらく黙っていた。


「うちの部署だと、それ、一番嫌われるやつなんだよね」


「存じています」


「規則の外でやって、結果だけ持ってこられると、評価のしようがない」


「評価していただく必要はありません」


 クラリスは言った。


「私は、中央局の実績には含まれませんので」


 イレーナの眉が、わずかに動いた。


 その一言に、探るような色が乗った。


「――半年前のことは、聞いてる」


 クラリスは答えなかった。


「除籍の理由まではうちの部署に回ってこないけど、名前くらいは知ってた」


「存じているなら、話は早いです」


「早くない」


 イレーナは、わずかに声を落とした。


「戻りたいとは、思わない?」


「思いません」


「なんで」


「戻れば、判断が入りますので」


 クラリスは繰り返した。


「私は、判断される前に飛びたいのです」


 店の中が、少しだけ静かになった。


 ノエルは、二人のやり取りを黙って見ていた。


 イレーナは、しばらくしてから、小さく笑った。


「あんた、うちの新人にちょっと聞かせたいくらい面倒くさい理屈言うね」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてない」


「では、事実として受け取ります」


 イレーナは椅子から立ち上がった。


「今日のところは、これで帰る。報告はしない、って言ったのは本当だから」


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いはないよ。純粋に、見に来ただけだから」


 イレーナは箒を担ぎ直した。


 扉に手をかけたところで、一度だけ振り返る。


「クラリス・ヴェイン」


「はい」


「あんたのやり方、正直、うちの部署じゃ絶対通らない」


「存じています」


「でも」


 イレーナは、少しだけ表情を緩めた。


「嫌いじゃない」


 それだけ言って、扉を開けた。


 鈴が鳴る。


 外に出たイレーナは、箒にまたがる前に、もう一度だけ看板を見上げた。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 彼女は小さく息を吐き、空へ上がった。


 店の中で、ノエルがようやく口を開いた。


「クラリスさん」


「何ですか」


「また来そうな雰囲気でしたね」


 クラリスは帳簿を開き、新しい行を書き足した。


 本日、窓越しの来訪者一名。名乗らず、入店せず。


 それから、少しだけ手を止めて、備考欄に短く書き加えた。


 中央局実績監査部門より、非公式の視察あり。


「さあ」


 クラリスは帳簿から目を上げずに言った。


「それは、あちらの判断です」

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