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その涙は、量れません

 扉の鈴が、いつもより強く鳴った。


 クラリスは顔を上げる。


 入ってきたのは、ディルク・ラントだった。


 黒い外套。


 きれいに揃えた革手袋。


 だが、目元はもう赤くなかった。


 涙の跡もない。


 乾いた顔だった。


「クラリス・ヴェイン殿」


 声も、前とは違った。


 湿っていない。


 むしろ、乾いた声だった。


「二度のお願いを、無視されましたね」


「無視ではありません」


 クラリスは帳簿を閉じた。


「お断りしました」


 ディルクは店の中を見回した。


 棚。


 仕分け箱。


 窓辺の観測針。


 ノエルは机の端で、依頼票を握ったまま動かなかった。


「小さな店です」


 ディルクは言った。


「認可も、局章もない。ただの民間業者だ」


「はい」


「それでも、中央局の確認票を扱っている」


「扱っていません」


 クラリスは静かに答えた。


「受け取っていません」


「受け取らずとも、目を通した」


 ディルクは一歩、机に近づいた。


「目を通した以上、内容はご存じのはずだ。マレア・ラント。その所在を、あなたは知っている」


「存じません」


「嘘だ」


「郵便屋は、宛先を探しません。届くところまで運ぶだけです。今回は、届くところがなかった。それだけのことです」


 ディルクの口元が、わずかに歪んだ。


 今までの、湿った表情ではない。


 もっと硬い、値踏みする表情だった。


「では、質問を変えましょう」


 ディルクは懐から一枚の紙を出した。


 灰色の紙。


 黒い印。


 中央郵便局監察課、確認済。


「この確認票に、署名をいただきたい」


「私が」


「先日提出した郵便を、宛名人該当なしで処理した、その経緯について。誰の依頼で、誰に確認を取ったか。すべて、ここに」


 クラリスは紙を見なかった。


 男の手だけを見た。


 震えていない。


 最初に店へ来た日、あれほど震えていた手が、今は少しも揺れていなかった。


「なぜ、私がそれを書く必要が」


「書かなければ」


 ディルクは、声を低くした。


「この件を、中央局に正式に申し立てます。認可を持たぬ私設業者が、監察課の確認票の取り扱いを拒み、遺族の切なる願いを妨害した、と」


「遺族」


 クラリスは、そこで初めて眉を動かした。


「先日は、ご存命だったのでは」


「時間の問題です」


「都合のいい時間ですね」


 ディルクの顔から、何かが一枚、剥がれた。


 目の奥だけが、急に冷えていた。


「あなたのような者に、何が分かる」


 声が変わった。


 初めて聞く声だった。


「郵便組合を追い出された魔女が、辺境で紙切れを運んで何をした気になっている。私が動けば、あなたの店など、明日には看板を下ろすことになる」


「脅迫ですか」


「忠告です」


「同じ紙に、両方書かれていることがありますね」


 クラリスは、机の下から鞄を持ち上げた。


 留め具を開ける。


 中から取り出したのは、薄布に包まれた一通だった。


「これは」


「あなたが最初に持ち込んだ手紙です。まだ、宛名人のもとへは届いていません」


 クラリスは、それを机に置いた。


 ディルクの前ではない。


 自分の側に。


「そして、こちらが」


 もう一つの薄布を出す。


「あなたが二度目に持ち込んだ、確認票つきの添付紙。それと、直接私宛てに送られた便箋」


 三つの紙が、机の上に並んだ。


 ディルクの目が、初めてそこに落ちた。


「郵便法において、本人限定郵便は、受取人本人の意思がない限り、受取人の現在の氏名・所在を差出人へ開示する義務はありません。これは中央局の規定です」


 クラリスは淡々と続けた。


「そして、この確認票」


 灰色の紙を指す。


「発行申請者の欄が、空欄です」


 ディルクの喉が動いた。


「事務的な不備でしょう」


「かもしれません。ですので、これは中央郵便局監察課へ、正式に照会いたします」


「……何を」


「この角印を、誰が、どの申請に基づいて押したのか」


 クラリスは三つの紙を、それぞれ別の薄布で包み直した。


「あなたが署名を求めているのは、私の証言です。私が求めているのは、この印を押した方の証言です」


 ディルクの顔から、完全に涙の跡が消えていた。


「私を、脅すつもりか」


「いいえ」


 クラリスは鞄の留め具を閉めた。


「確認しているだけです。あなたが最初に、私に対してそうしたように」


 沈黙が落ちた。


 ノエルは、依頼票を握った手に力を込めていた。


「娘に会いたいというお気持ちが、本当かどうかは、私には分かりません」


 クラリスは言った。


「ですが、本当に会いたい人間は、確認票より先に、相手の意思を尋ねるものです」


「……」


「あなたは、意思を確かめる前に、居場所を割り出そうとしている」


 ディルクは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、低く言った。


「この店は、長くは持たない」


「そうかもしれません」


 クラリスは表情を変えなかった。


「ですが、今日のところは、まだ営業中です」


 ディルクは踵を返した。


 扉を開ける寸前、もう一度だけ振り返る。


「後悔しますよ」


「配達不能の返送に、後悔したことはありません」


 扉が閉まった。


 鈴の音が、いつまでも店の中に残っているような気がした。


 ノエルは、詰めていた息を、ようやく吐いた。


「クラリスさん」


「何ですか」


「怖くなかったんですか」


「怖かったです」


 クラリスは、あっさりと答えた。


 ノエルは目を丸くする。


「そう見えませんでした」


「見せる必要がありません」


 クラリスは三つの薄布包みを、鞄の奥へ入れた。


 封筒、添付紙、そしてディルク自身が書いた便箋。


「これを、中央局へ?」


「はい」


 ノエルは、さっきディルクが口にした台詞を思い出していた。


 この店は、長くは持たない。


「あの人、逆に困ったことになりませんか。お店とか」


「ラント乾物店ですか」


 クラリスは少し考えた。


「そちらは私の管轄ではありませんが、おそらく大丈夫です」


「え?」


「私に正式な照会権はありません」


「じゃあ、この店は」


「それでも、中央局が、確認票の不正発行を握りつぶすなら、次に困るのは中央局自身です」


 クラリスは鞄を背負った。


「一度見てしまった不正の証拠を、見なかったことにするのは難しいんです」


 ノエルは、その言い方に、少しだけ笑った。


「嫌な言い方ですね」


「嫌な紙が相手なので」


 外はもう、日が沈みかけていた。


 配達中の札が、静かに揺れている。


 クラリスは、明日届ける先の帳面を開いた。


 中央郵便局監察課、キール課長宛。


 ペンを取る。


 書き出しは、いつもと同じだった。


 配達不能ではありません。

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