善人の値段
ローデンの東通りは、朝から賑わっていた。
ラント乾物店の軒先には、干し魚と豆の袋が並んでいる。
ノエルはその前を、わざと二度通った。
一度目は、ただの客のふりをして。
二度目は、少し立ち止まって。
店主のディルクは留守だった。
代わりに、店番をしていた若い男が愛想よく声をかけてくる。
「豆かい? 今日のは安いよ」
「見てるだけです」
ノエルは答えた。
嘘ではない。
豆は見ていない。
店先に貼られた古い紙を見ていた。
当店は、行方の分からぬ縁者を探すお客様のご相談も承ります。
小さな字だった。
目立たない場所に貼られている。
豆や乾物の値札の陰、ちょうど人の目線が滑る高さに。
「これ、いつからあるんですか」
ノエルが訊くと、若い男は少し誇らしげに笑った。
「旦那が始めたんだ。前にも、行方知れずの姪っ子を見つけてやったことがあってな。今じゃ、たまに相談に来る人もいる」
「見つけた後は?」
「さあ。旦那が仲を取り持つんだろう」
ノエルは紙をもう一度見た。
行方の分からぬ縁者。
その言葉は、優しく聞こえるように選ばれていた。
クラリスなら、この紙をどう量るだろう。
ノエルはそう思いながら、店を離れた。
同じ頃、中央郵便局監察課では、テオ・ランズが古い受領記録を並べていた。
机の上には、確認済の角印が押された添付紙の写しが、何枚も積まれている。
どれも、本人限定郵便に貼られた確認票だった。
受取日、署名、現在地、返送先。
テオはその返送先の欄を、一枚ずつ見比べていた。
「同じ字だ」
小さく呟く。
書式は正式なものだった。
だが、返送先を書き込む筆跡は、書類ごとに違う担当者のはずなのに、妙に似通っていた。
テオは席を立ち、マルタの部屋へ向かった。
「キール課長」
「何ですか」
「確認票の発行記録を、まとめて見たいのですが」
マルタは書類から顔を上げた。
「理由は」
「私設郵便屋のヴェインが、旧名宛の郵便を複数、宛名人該当なしで返送しています。そのすべてに、同じ形式の確認票が貼られていました」
「よくあることです。旧名を追う依頼人は、正式な手続きを好みます」
「ですが、発行申請者の欄が、毎回空欄です」
マルタの手が止まった。
「空欄?」
「はい。申請者不明のまま、角印だけが押されています」
沈黙があった。
マルタは、机の引き出しから一冊の帳面を取り出した。
確認票の発行台帳だった。
頁をめくる指が、いつもよりわずかに速い。
「……この印を押せる者は、限られています」
「はい」
「監察課内に、四名」
テオは、その四名の名を思い浮かべた。
グライス監察官。
マルタ・キール課長。
そして、下位の記録係が二名。
テオ自身も、その一人だった。
「私ではありません」
テオは言った。
言わなくてもいいことを、言ってしまった。
マルタは、そこで初めてテオを見た。
「分かっています」
短く言って、帳面を閉じる。
「これは、記録として残しておきます。まだ、誰にも話さないように」
「はい」
テオは一礼し、部屋を出た。
廊下に出てから、小さく息を吐く。
クラリス・ヴェインが送り返した紙が、思ったより多くの場所を照らしていた。
その日の夕方、クラリスの店に、二通目の手紙が届いた。
差出人は、またディルク・ラント。
封筒は前回よりも薄い。
封蝋には、震えた指で押したような跡がある。
クラリスは秤に乗せず、まず封を透かして見た。
「便箋一枚ですね」
ノエルが横から覗く。
「軽いってことは、いい手紙ですか」
「量は関係ありません」
クラリスは表を見た。
宛名は、私設郵便屋クラリス・ヴェイン様。
届け先ではない。
自分宛てだった。
自分宛てなら、読む。
クラリスは封を切った。
中の便箋には、短い文章が並んでいた。
『どうか、もう一度だけお取り次ぎください。
私はもう長くありません。
娘の顔を、一目でいいので。
最後の願いです。』
ノエルは、それを読んで息を呑んだ。
「これは……」
「重くなりましたね」
クラリスは淡々と言った。
紙の重さの話ではない。
ノエルにもそれは分かった。
「病気なんでしょうか」
「診断書はありません」
「でも」
「先日、店でお会いしたときは、そのようなお話は一言もありませんでした」
クラリスは便箋を見下ろした。
「娘とうまく話せなくなった、とは仰っていましたね。長くない、とは仰っていません」
ノエルの顔が強張った。
「もし本当だったら」
「本当かもしれません」
クラリスは便箋を封筒へ戻した。
「本当だとしても、旧名を使わせようとする理由にはなりません」
ノエルは黙った。
クラリスは棚から、先日の添付紙の写しを取り出した。
中央郵便局監察課、確認済の角印。
その下に、まだ空欄の申請者欄がある。
「ノエル」
「はい」
「この店に、中央局の者が来たとき」
「はい」
「その人の名を、覚えていますか」
ノエルは、あの日の受領簿を思い出した。
留守中受付、権限未確認、と自分が書いた日。
男は名乗らなかった。
だが、受領簿には、確かに一つだけ記されているものがある。
「名前は聞いていません。でも、受領簿に、あの人の所属の下に小さな符丁がありました。持ってきた文書の右下に」
「符丁」
「はい。数字が二つ。書類を扱う人が使う、担当者の印だと思います」
クラリスの手が止まった。
しばらくして、小さく言う。
「よくできました」
ノエルは少しだけ胸を張った。
それから、すぐに不安げな顔に戻る。
「クラリスさん」
「何ですか」
「ディルクさんは、また来ますか」
「来るでしょうね」
「今度は、どうするんですか」
クラリスは二通目の手紙を、防水袋の別の区画へしまった。
一通目とは、混ぜない。
「今度は、手紙ではなく本人が来ます」
「なぜ分かるんですか」
「紙で動かないと分かった人間は、次は自分の足で来ます」
クラリスは鞄の留め具を確かめた。
「そして、足で来る人間は、たいてい紙より雑です」
外はもう、日が傾いていた。
配達中の札が、風もないのに小さく揺れた。




