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マレアの答え

 北区仕立組合は、石畳の路地の奥にあった。


 表に出ている看板は小さい。布見本だけが、やけに明るい色をしている。


 クラリスは扉の前で鞄の留め具を確かめた。


 封筒は底。


 添付紙は内ポケット。


 混ぜなければ、少なくとも同じ失敗はしない。


 転送控えに残っていたのは、名前と、本人確認後、手渡し、の一文だけだった。


 なぜ名前を変えたのかは、書いていない。


 書く義理もない。


 クラリスはそれを聞きに来たのではなかった。


 届けに来ただけだ。


 扉を開けると、糸と布と糊の匂いがした。


 紙とは違う匂いだ。


 けれど、雑に扱えば傷むところは似ている。


 受付には、灰色の髪を短くまとめた女がいた。机の上には帳面と針山。奥からは布を裁つ音が聞こえている。


 壁には、仕立て上がった外套が数着かけられていた。


 どれも丁寧な仕事だった。


 隅の一着には、小さな布札が縫いつけてある。


 北区仕立組合。


 工房主の名は、そこにはなかった。


 クラリスは鞄に手を置いた。


「郵便です」


 受付の女は目だけを上げた。


「誰宛てですか」


 クラリスは封筒の宛名を見た。


 マレア・ラント様。


 古い名前が、丁寧に書かれている。


「マレア・ラント様宛てです」


 布を裁つ音が止まった。


 受付の女の目が変わる。


「その名前の人はいません」


 クラリスは鞄の留め具を確かめ、踵を返しかけた。


 扉へ向かう体勢のまま、声だけをわずかに張る。


 独り言のように。


 だが、奥の作業場まで届く高さで。


「マレア・ラント様は、もうこちらにはいらっしゃらないのですね。では、配達不能として処理いたします」


 受付の女が、少し驚いた顔をした。


 名指しで話しかけられたわけでもないのに、答えを探すような目をしている。


 誰かに、聞かせるための言葉だと気づいたのだろう。


 奥から、椅子を引く音がした。


 受付の女が振り返る。


「ユストさん」


「いいです」


 声は低く、怒っているというよりうんざりしている響きがあった。


 奥から出てきたのは、三十前後の女。髪を後ろでまとめ、袖口をまくっている。指先には細かな傷があり、爪は短い。


 仕事で鍛えられた手だ。


 女は壁の外套を一瞥した。


 自分の仕事を確かめるような目だった。


 それから、クラリスを見た。


 鞄を見た。


「マレア・ユストです」


 クラリスは少しだけ頭を下げた。


「マレア・ユスト様。失礼しました」


 マレアの目が、わずかに揺れた。


 呼び直されることに慣れていない顔だった。


「その名は、三年前からです」


 マレアは言った。


「独立するときに決めました。ここの仕立組合に籍を置いて、今は見習いを二人抱えています。壁の外套も、その子たちが縫いました」


「立派な仕事です」


 クラリスは短く答えた。


 世辞ではなかった。


 縫い目は揃っていたし、袖の丈も左右で狂っていない。


「褒めてほしくて言ったんじゃありません」


 マレアは言った。


「この名前で、ここまで来たと言いたかっただけです」


 クラリスは鞄を開けない。


 封筒も見せない。


「旧名宛の本人限定郵便があります。受け取る義務はありません」


 マレアは、そこでようやく息を吸った。


「差出人は」


「ここでは言いません」


「父親だと言いましたか」


「言いました」


 マレアは短く笑った。


 少しも愉快ではない笑いだった。


「それが一番得意なんです」


 クラリスは、鞄の留め具にかけた指を止めた。


 店で泣いていた男の顔が戻る。


 袖で目元を押さえる手。


 揃えられた革手袋。


 すぐに出された財布。


 あれは謝罪の速さではなかった。


 手続きに慣れた人間の速さだった。


「手紙は見ますか」


「見ません」


「受け取りませんか」


「受け取りません」


 早かった。


 今朝の男が財布を出した時と同じくらい、早かった。


 クラリスは少しだけ息を吐いた。


 どちらが本当に急いでいたのか。


 秤にかけるまでもない。


「受領拒否ではなく、宛名人該当なしでも処理できます」


 マレアが顔を上げた。


「……どう違うんですか」


「受領拒否は、あなたが拒んだ記録です」


「はい」


「宛名人該当なしは、この手紙の宛名が違った記録です」


 クラリスは封筒を薄布に包んだまま、机の上に置いた。


 ただし、マレアの前には置かない。


 自分の側に置く。


「拒むのは、あなたでなくてもいい」


 マレアは黙った。


 受付の女も黙った。


 奥の作業場から、誰の音もしなくなった。


「この手紙の方を、弾けます」


 マレアの喉が動いた。


「そんなこと、できるんですか」


「できます」


「私が、もうその名前じゃないから?」


「はい」


 クラリスは封筒の宛名を見た。


「古い名前で人を縛るには、郵便は少し不向きです」


 マレアは笑わなかった。


 泣きもしなかった。


 ただ、まばたきを一つした。


 それから、小さく言った。


「その名前で、署名させたいんだと思います」


「添付紙があります」


 マレアの肩が強ばった。


 クラリスは内ポケットから添付紙を出した。


「触らなくて結構です。見てください」


 受取日、署名、現在地、返送先の欄が並んだ面を向ける。


 右下には、中央郵便局監察課の角印。


 マレアの顔が歪んだ。


「中央局も、これを見たんですか」


「少なくとも、印は押されています」


「じゃあ、止めなかったんですね」


「ええ」


 クラリスは紙を畳んだ。


 折り目が、少し強くついた。


「止める場所で止まらなかった紙は、よく届きます」


「嫌な言い方ですね」


「嫌な紙なので」


 マレアは少しだけ笑いかけて、すぐにやめた。


「それを書かせたいんです」


 声が低くなる。


「今の名前じゃなくて、昔の名前で。今の場所も。署名も」


 受付の女が、奥で小さく舌打ちした。


 マレアは息を吸った。


 怒りを吸い込むような息だった。


「謝りたいんじゃない。見つけたいんです」


「見つけて、どうするんですか」


「連れ戻すんです。父親だから、自分にはできると思ってる」


 クラリスは添付紙を見た。


 紙が悪いわけではない。


 欄が悪いわけでもない。


 これを封筒に貼り、涙と一緒に差し出した人間が悪い。


 それを止めなかった人間も。


「確認します」


 クラリスは預かり票を開いた。


「マレア・ラント様は、ここにはいません」


 マレアは息を止めた。


「マレア・ユスト様は、この旧名宛郵便を受け取りません」


「はい」


「添付紙には記入しません」


「しません」


「現在地も、署名も出しません」


「絶対に」


「承りました」


 クラリスはその場で書いた。


 長くは書かない。


 必要なのは、古い名前では届かなかったこと。


 余分な紙は受けていないこと。


 それだけだ。


 マレアは、書かれた一文を見ていた。


 宛名人該当なし。


「私が、いないことになるんですか」


「違います」


 クラリスは筆を置いた。


「その名前の方が、いないことになります」


 マレアの目が赤くなった。


 でも、泣かなかった。


 泣かないように、唇を噛んでいた。


 クラリスは、それを見ないふりをした。


 涙は、見ると増えることがある。


「差出人には、配達不能とだけ通知します。あなたの現在名、住所、職場、発言内容は書きません」


 マレアが、そこで少しだけ笑った。


 ようやく、息が戻った顔だった。


「郵便屋さんって、そういう屁理屈を言うんですね」


「はい。たいへん便利でしょう?」


「ええ、それはもう」


 クラリスは封筒を鞄へ戻し、添付紙は別の内ポケットへ入れた。


 混ぜれば、誰かがまた間違える。


 手紙です、と言う。


 父親です、と言う。


 家族の問題です、と言う。


 中央局の確認票です、とも言う。


「この手紙は、ここで終わります」


 クラリスは言った。


「ですが、この紙は終わりません」


 マレアの視線が、添付紙の包みへ落ちる。


「中央局へ返します」


「返すんですか」


「ええ」


 クラリスは鞄の留め具を閉めた。


「印を押した方へ」


 マレアは、少しだけ目を見開いた。


 それから、今度こそ笑った。


 小さく。


 少しだけ、胸のすく顔で。


「……お願いします」


「承りました」


 マレアは壁の外套へ、もう一度目をやった。


 見習いたちが縫った袖。


 揃った丈。


 マレア・ユストの名で受けた仕事だった。


「あの、郵便屋さん」


「はい」


「次にここへ来るときは、仕立ての依頼、ということでよろしいでしょうか?」


 クラリスは少し考えた。


「どういう意味でしょう」


「外套の裾、少し裂けてません?」


 クラリスは自分の外套を見下ろした。


 裾の縫い目が、たしかに甘い。


 仕立屋に、また笑われたところだ。


「……検討します」


 マレアは、今度は声を出して笑った。


 仕立組合を出ると、午後の通りは騒がしかった。


 鞄の中で、封筒と添付紙が別々に揺れている。


 この封筒は、マレア・ユストには届かない。


 それでいい。


 手紙にしては、名前が古すぎた。


 謝罪にしては、紙が一枚多すぎた。


 そして中央局の印がある。


 ろくでもないものは、よく重なる。


 クラリスは店へ戻る道を歩きながら、中央局へ返す文面を考えた。


 旧名宛本人限定郵便に、受取人署名および現在地記載欄を含む確認票が貼付されていました。


 当店では、この紙を手紙として扱いません。


 宛名人該当なし。


 添付確認票、未受理。


 以上。


 少しだけ、足りない。


 クラリスは歩きながら、最後に一行足した。


 確認済の印を押した方が、責任を持ってご確認ください。


 書き終えて、クラリスは空を見上げた。


 ディルク・ラントは、これで引き下がるだろうか。


 引き下がる人間が、最初から泣いてみせたりはしない。


 次に来るときは、もう少し面倒な紙を持ってくるはずだった。


 クラリスは足を速めた。


 店に、財布を忘れていないか確かめる客が、また来るかもしれない。

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