受け取った証だけで
二番鐘が鳴る少し前、クラリスは店の前で足を止めた。
扉が、開いている。
鍵をかけ忘れた。
少なくとも、そういうことになっている。
中から、ノエルの声が聞こえた。
「受け取ったことを、誰に知らせるんですか」
よろしい。
「私に」
男の声が答える。
「それと、中央局にも。必要だそうです」
よろしくない。
クラリスは扉を押した。
軋んだ音に、店の中の空気が止まる。
帳場の向こうにノエルがいた。机の前には、外套を着た年配の男が座っている。依頼票は出ているが、まだほとんど白い。
白い紙はいい。
余計なことを書かれていない。
クラリスはまず扉の札を見た。
配達中。
それからノエルを見る。
ノエルは姿勢を正した。叱られる用意をした顔だった。
いい準備だ。
だが、今はそちらではない。
「店を開けた覚えはありませんが」
「すみません。鍵が――」
「鍵はあとです」
クラリスは鞄を下ろし、男を見た。
男は泣いていた。
目元は赤く、声も湿っている。袖で何度も拭ったらしい跡があった。
だが、膝の上の革手袋はきれいに揃っていた。
「ディルク・ラントと申します」
男は立ち上がりかけ、また座り直した。
「東通りで、乾物商を営んでおります」
クラリスは知っていた。
ラント乾物店。
町では評判のいい店だ。目方をごまかさない。子供に売る飴の量が多い。冬場、年寄りの家には薪を届けたついでに様子を見て回る。そういう噂を、クラリスは何度か耳にしたことがある。
悪い評判ではない。
むしろ、良すぎるくらいだった。
「妻を早くに亡くしまして」
ディルクは続けた。
「娘とは、それきり、うまく話せなくなりました。私が悪いのです。仕事にかまけて、あの子の話を聞かなかった。母親が死んだあと、あの子が何を思っていたのか、私は今も分かりません」
声が湿る。
嘘には聞こえなかった。
少なくとも、途中までは。
「長く会っておりません」
男は言った。
「読まなくてもいい。ただ、受け取ってくれたことだけ分かれば、それで」
「そうですか」
クラリスは封筒を受け取った。
机には置かない。
まず秤を出す。
真鍮の皿に封筒を乗せると、針が深く傾いた。
「謝罪文にしては、太っていますね」
「何度も、書き直しましたので」
「全部入れたんですか?」
男は口を閉じた。
クラリスは封筒を裏返した。
背に、細い紙が仮留めされている。封筒とは紙質が違う。折り目も違う。あとから貼られたものだ。
クラリスはそれを外した。
「これは別です」
「受け取ったことを書いていただく紙です」
「誰に」
「私に」
男は袖で目元を押さえた。
「それと、中央局に。役場にも必要だそうで」
クラリスは添付紙を机に置いた。
受取日、署名、現在地、返送先。欲しいものが、同じ紙の上にきれいに並んでいる。
返送先は、男の名と、中央郵便局監察課と、北区役場記録係。
右下には、角印が押されていた。
中央郵便局監察課、確認済。
ずいぶん綺麗な印だった。
人の居場所を書く欄の横に押すには、少し綺麗すぎる。
「中央局の紙ですか」
クラリスが言うと、男はほっとしたように頷いた。
「はい。正式なものだそうです。役場の知り合いに、そういう手続きがあると教わりました」
「役場の、知り合い」
「はい。長年のお得意様でして」
クラリスは何も言わなかった。
言葉が足りないのではなく、足す必要がないだけだった。
こつ、と爪で現在地の欄を叩く。
「嫌な紙ほど、印は綺麗なものです」
ノエルの指が、依頼票の端で止まった。
クラリスは、その指先を横目で見る。
触らない。
よろしい。
紙は、見た目より汚れていることがある。
「ディルク・ラント様」
「はい」
「この一行は、誰が欲しがっていますか」
「私はただ、娘が受け取ったと知りたいだけで」
「質問を変えます」
クラリスは男を見る。
「この一行が空欄のままだと、誰が困りますか」
男は、すぐには答えなかった。
涙だけが、まだ顔に残っている。
よくできた涙だった。
封筒より先に、こちらへ届こうとする。
「……私です」
少し遅れて、そう答えた。
遅れたことに、クラリスは何も言わなかった。
「では、手紙ではありませんね」
クラリスは添付紙を封筒から離した。
ほんの数寸。
それだけで、机の上のものは二つになった。
「私は父親です」
「なるほど」
「娘は、長く家を離れておりまして」
「住所が空欄の理由にはなりそうですね」
「心配しているのです」
「返送先が三つある理由にはなりませんね」
男の手が、膝の上で組まれた。
革手袋は、まだきれいに揃っている。
泣いているくせに、乱れていない手だった。
「お願いです」
声が震える。
「金なら払います。必要なだけ払います。私はただ、娘が生きていると知りたいだけなのです。読まなくてもいい。許してくれなくてもいい。ただ、一度だけ」
ノエルの目が揺れた。
クラリスは、揺れないふりをした。
「宛先がありません。重さもあります。余分な紙もあります」
クラリスは料金表を開いた。
「安くなるところが、ありません」
「いくらでも」
男はすぐに財布を出した。
早かった。
泣いている顔よりも、ずっと早い。
ノエルの視線が、財布に落ちる。
クラリスは料金表を閉じた。
「しまってください」
男の手が止まった。
「……払います」
「まだ請求していません」
「ですが、いま高くなると」
「高くなります」
クラリスは添付紙を指で押さえた。
「ですが、いま受け取ると、この紙まで預かったことになります」
男の口元が、一瞬だけ固くなった。
ほんの一瞬。
まばたきよりも短い。
だが、クラリスは見た。
「それは」
「受けません」
クラリスは封筒を持ち上げる。
「こちらは、手紙です」
次に、添付紙を見る。
「こちらは、手紙ではありません」
「私は、ただ確認を」
「確認の料金は、確認ができてからです」
クラリスは財布を見なかった。
見れば、受け取ったような顔になる。
「封筒だけなら預かります」
クラリスは言った。
「この紙を完成させる依頼なら、受けません」
「では、私は何も知れないのですか」
「必要なことは通知します」
「中央局には」
「必要な分だけ」
男は財布を握ったまま、黙った。
「娘に伝えてください」
男は言った。
「父が謝っていたと」
「手紙に書いてください」
「書きました」
「では運びます」
クラリスは封筒を薄布で包んだ。
添付紙は、別の薄布で包む。
同じ男が持ってきたものでも、同じ場所には入れない。
「本日は、ありがとうございました」
男は深く頭を下げた。
最後まで泣いていた。
扉が閉まり、札が揺れる。
配達中。
店の中に、やっと空気が戻った。
ノエルは、男が座っていた椅子を見ていた。
「あの人、本当に悲しそうでした」
クラリスは何も言わなかった。
言わないまま、料金表を静かに閉じた。
閉じる音が、いつもより少しだけ長く続いた気がした。
「お金、受け取らないんですね」
「まだ、何の料金か決まっていません」
「でも、払うと言っていました」
「ええ」
クラリスは添付紙を見た。
「謝りたい人は、言葉を選びます」
封筒を見る。
「探したい人は、手続きを急ぎます」
ノエルはそれを聞いて、少し考える顔をした。
「でも、あの人は」
「急いでいましたね」
ノエルの口が止まった。
クラリスは帳場の端に置かれた紙片を取る。
ノエルが店に来てから、少しずつ書き足しているものだった。
店でしてよいこと。
してはいけないこと。
まだ題名はない。
クラリスは鉛筆を持ち、六つ目の項目を書いた。
六、泣いていても、重さは量る。
少し考えて、その下にもう一行足す。
七、急いで払う人ほど、まだ受け取らない。
ノエルがそれを読んで、眉を寄せた。
「難しいです」
「ええ」
クラリスは封筒を鞄へ入れ直した。
添付紙は、別の内ポケットへ入れる。
「探しに行くんですか」
ノエルが訊いた。
「探しません」
「でも、受取人の住所が空いています」
「空いていますね」
「では、どうやって届けるんですか」
「住所ではなく、郵便の跡を見ます」
クラリスは棚から転送控えを出した。
古い帳簿だった。
中央局の備品だった頃の番号は削られ、表紙にはクラリスの字で「転送」とだけ書いてある。
「これは何ですか」
ノエルが横から覗き込む。
「名前や住所を変えた人が、それでも郵便を取りこぼされないよう、心当たりのある店や組合が申し出ておく控えです。郵便屋同士でも、こうした情報は回ります」
「マレアさんも?」
「まだ分かりません。今から調べます」
クラリスは頁をめくった。
ラント。
マレア・ラント。
そこまでは、封筒と同じだった。
だが、その名の横に朱書きがあった。
マレア・ラントは旧名。
現在は、マレア・ユストとして扱うこと。
本人確認後、手渡し。
クラリスは、そこで手を止めた。
「見つけましたか」
ノエルが訊く。
「いいえ。ただ、この名前の人はもう存在しないと分かっただけです」
「存在しない?」
「マレア・ラントという名は、ここでは使わないでくれと、本人がこの帳簿に登録しています。今はマレア・ユストとして扱えと」
ノエルは封筒の宛名を見た。
マレア・ラント様。
古い名前が、丁寧に書かれている。
「じゃあ、この手紙は届かないんですか」
「届け先の名前を、正しく直せば届きます。ですが」
クラリスは朱書きの部分を指でなぞった。
「本人確認後、手渡し、とあります。誰にでも渡していい名前ではない、ということです」
「誰かに追われている、とか」
「そこまでは分かりません」
クラリスは帳簿を閉じた。
「分かるのは、この人が一度、自分の名前を捨てているということだけです」
ノエルは黙った。
クラリスは封筒を見下ろした。
「差出人は父親を名乗り、旧い名前で届けてほしいと言いました」
「はい」
「受取人は、その旧い名前をもう使わないでくれと、わざわざ帳簿に残しています」
ノエルの顔が強張った。
「同じ人を、別々の名前で呼ぼうとしている、ということですか」
「その通りです」
クラリスは短く答えた。
「そして、片方は自分の意思で名前を捨て、もう片方はその名前を使ってこの店へ届けさせようとしている。どちらの言い分を信じるかは、まだ決めていません」
鞄の中で、封筒が重く沈んでいた。
「確認に出ます、しばらくお願いします」
「はい」
ノエルは少しだけ背筋を伸ばした。
クラリスは扉に手をかけたところで、一度だけ振り返った。
「ノエル」
「はい」
「あの人が座っていた場所に、財布を置き忘れていませんか」
ノエルが椅子の下を覗く。
「ありません」
「そうですか」
クラリスは少しだけ間を置いた。
「本当に急いでいる人は、忘れ物もします」
それだけ言って、外へ出た。
扉の札は、配達中のまま揺れている。
ノエルは、その札をしばらく見ていた。
いい人だった。
そう思った自分の目が、少しだけ信用できなくなっていた。




