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空欄のまま

 二番鐘が鳴ったあと、ノエルはローデン外れの私設郵便屋へ来た。


 扉の札は、昨日と同じだった。


 配達中。


 御用の方は、日暮れ前後に再度お越しください。


 簡潔で、正確で、ひどく不親切な札だ。


 ノエルはそれを見上げて、眉を寄せた。


「これ、やっぱり閉まっている店では?」


 文句を言ってから、扉に手をかける。


 開いた。


 ノエルはしばらく、開いた扉を見つめた。


 それから、店の中を見た。


 誰もいない。


 暖炉の火は消えている。


 机の上には、何も置かれていない。


 棚には、配達済みの控えが二枚。


 木箱は空。


 封筒も、銅貨も、預かり票もない。


「……鍵をかけ忘れるような人には見えないんだけどな」


 ノエルは小さく呟いた。


 けれど、扉は開いている。


 札は配達中のまま。


 店の中に、人はいない。


 つまり。


「閉まっている店よりは、役に立てということですね」


 誰にともなく言って、ノエルは中へ入った。


 勝手に椅子へ座るのは、少し迷った。


 だが、立ったままでは帳面が書けない。


 ノエルは椅子に腰かけ、昨日クラリスから渡された依頼票を机に広げた。


 字は大きく。


 順番通りに。


 分からないものは空欄。


 勝手に埋めない。


 昨日は、言われたことの半分くらいしか分かっていなかった。


 今は、少しだけ分かる。


 空欄は、怖い。


 何も書かれていない場所には、何を書いてもいいわけではない。


 書けば、そこに誰かの事情が乗る。


 ノエルは依頼票の一枚を見下ろした。


 差出人、受取人、現在地、最後に確認した者、本人確認の有無。


 白い欄がいくつもある。


 空欄は、思っていたより落ち着かない。


 たぶん本人。


 本人だと思われる。


 依頼人がそう言っていた。


 悪い人には見えなかった。


 そんな言葉で埋めてしまえば、紙面は整う。


 けれど、それはもう空欄ではなくなる。


 ノエルは鉛筆を置いた。


「……閉まっている店よりは、難しい」


 その時、扉の鈴が鳴った。


 ノエルは反射的に顔を上げる。


 入ってきたのは、背の高い男だった。


 黒い外套。


 硬い帽子。


 手には、薄い灰色の封筒を持っている。


 封筒の角には、中央郵便局の印があった。


 ノエルは、椅子から半分立ち上がる。


「クラリスさんは、配達中です」


「承知している」


 男は店内を一度見回した。


「ローデン外れ私設郵便屋、クラリス・ヴェイン殿宛て。中央郵便局監察課より照会文書」


「しょうかい」


「受領記録が必要だ」


 ノエルは封筒を見た。


 薄い灰色の紙。


 赤い判ではない。


 けれど、何となく、赤い判より冷たく見えた。


「私は、クラリスさんではありません」


「店の者では?」


 ノエルは口を開きかけた。


 店の者。


 便利な言葉だった。


 はいと言えば、封筒を受け取れる。


 いいえと言えば、男は帰るかもしれない。


 けれど、ノエルはまだ、この店の者ではない。


 店番でもない。


 助手でもない。


 では何なのかと訊かれると、困る。


 ノエルは昨日のクラリスの声を思い出した。


 分からないものは空欄。


 勝手に埋めない。


「不明です」


 男が眉を動かした。


「何が」


「私の立場が」


「……君はここにいるのだろう」


「います」


「では、受け取れるな」


「封筒の種類によります」


 男は少しだけ目を細めた。


 ノエルは自分でも、面倒くさいことを言っていると思った。


 けれど、昨日とは違う。


 よく分からないまま、分かったふりはしない。


「本人限定ですか」


「店舗宛てだ」


「開封指定は」


「クラリス・ヴェイン殿」


「では、私は開けません」


「当たり前だ」


「受け取るだけなら、できます。たぶん」


「たぶん、では困る」


「では、受け取った人間の名前と、立場不明と、時刻を書きます」


 男は今度こそ、はっきりと顔をしかめた。


「立場不明と書くのか」


「不明なので」


 しばらく沈黙があった。


 やがて、男はため息をつき、受領簿を差し出した。


「名前を」


 ノエルは筆を取った。


 受領者、ノエル・フィオレット。


 立場。


 そこで少し迷う。店番でも、助手でも、代理人でもない。


 ノエルは結局、小さく書いた。


 留守中受付。


 それから、その横にさらに小さく足した。


 権限未確認。


 男がそれを見て、何か言いたそうな顔をした。


 だが、言わなかった。


 ノエルは時刻を書いた。


 二番鐘後。


 封筒は受け取った。


 開けない。


 机の上には置かない。


 ノエルは薄い布を一枚取り、封筒を包んで、棚の空いている段へ置いた。


 昨日、ユルゲンの封筒を置いた木箱より、少し奥。


 すぐ見えるが、うっかり触らない場所。


「クラリス・ヴェイン殿に、本日中の確認を」


「伝えます」


「必ず」


「必ず、と言える立場かどうかも不明ですが、伝える努力はします」


 男は黙ってノエルを見た。


 ノエルも見返した。


 先に目を逸らしたのは、男の方だった。


 扉の鈴が鳴る。


 店内が静かになる。


 ノエルは、棚の封筒を見た。


 中央郵便局監察課。


 その文字は、細く整っていた。


 整いすぎている字だった。


 クラリスが戻ったのは、日暮れ前だった。


 扉の鈴が鳴る。


 ノエルは椅子から立ち上がった。


 クラリスは箒を畳みながら、店の中を見た。


 まず、暖炉。火は入っていない。


 次に机。


 それから棚。


 最後にノエル。


「なぜ、いますか」


「鍵が開いていました」


「不用心ですね」


「どなたの話ですか」


「世の中の話です」


 クラリスは平然と言った。


 それから、冷えたままの暖炉を一瞥する。


「次に来るときは、先に火を入れておきなさい。留守番の礼儀です」


「留守番じゃないと言ったのは、クラリスさんです」


「言葉尻を捉えるのは、たいへんよろしくない」


 ノエルは少しだけ目を細める。


「今日は、封筒を勝手に預かっていません」


「それは結構」


「ただし、店舗宛ての文書を一通、受け取りました」


 クラリスの手が、箒の留め具で止まった。


「どこから」


「中央郵便局監察課です」


 店の中の空気が、少しだけ変わった。


 火の入っていない暖炉のせいだけではなく、部屋の温度が一段下がった気がした。


 クラリスは棚を見た。


 ノエルは先に言う。


「開けていません。本人限定ではないそうですが、開封はクラリスさん宛てでした。受領簿には、私の名前と、留守中受付、権限未確認と書きました」


「余計なことを……」


「分からないものは空欄、と言われました」


「空欄ではありませんね」


「空欄にできなかったので、不明と書きました」


 クラリスは少しだけ黙った。


 叱られるかと思った。


 けれど、クラリスは棚から封筒を取り、布を外した。


「そこは、正しい」


 ノエルは目を瞬かせた。


「褒めていますか」


「さて」


 クラリスは封筒を見下ろした。


 中央郵便局監察課。


 灰色の封筒。


 黒い印。


 赤くはない。


 けれど、ノエルには、昨日の封筒よりも重く見えた。


「開けますか」


「私宛てですから」


 クラリスは封を切った。


 中には、薄い紙が一枚入っていた。


 文面は整っていた。


 整いすぎていた。


 クラリスは黙って目を通す。


 ノエルは訊かなかった。


 訊きたかったが、訊かなかった。


 紙を読むクラリスの顔は、いつもと変わらない。


 変わらないようにしている顔だった。


「何と」


 ノエルは、結局少しだけ訊いた。


「照会です」


「怒られていますか」


「まだ」


 クラリスは紙を机に置いた。


 ノエルにも見える向きではない。


 けれど、上の数行だけは読めた。


 私設郵便屋クラリス・ヴェイン殿。


 貴店による代理確認済み郵便の再取扱いについて、事実確認を求める。


 受領辞退、現地責任者確認済、配達不能、期限経過返送等、既に処理済みとなった郵便物を再度取り扱う行為は、当局の完了記録と齟齬を生じさせるおそれがある。


 ノエルは顔をしかめた。


「難しい言い方ですね」


「簡単に言うと、終わったことにしたものを、勝手に終わっていないことにするな、です」


「終わっていなかったのに?」


「中央局の帳面では、終わっていました」


 クラリスは紙を持ち上げた。


 下の方へ目を落とす。


 その時、ほんのわずかに、指先が止まった。


 ノエルはそれを見た。


 文面の末尾に、一行だけ、手書きの文字がある。


 活字ではない。


 細い筆跡。


 整っているのに、どこか逃げ道を塞ぐような字だった。


 まだ、本人確認にこだわるつもりですか。


 ノエルは、その一文を読んだ。


 読んでしまった。


 意味は分からない。


 けれど、ただの事務文書ではないことだけは分かった。


 クラリスは紙を畳んだ。


 少しだけ、丁寧すぎる手つきだった。


「返事を書くのですか」


「書きます」


「いつ」


「七日以内とありますので、六日目に」


「嫌がらせですか」


「礼儀です」


 いつもの声だった。


 けれど、ノエルはもう、さっきの指先を見ている。


 クラリスは、棚の上に封筒を置いた。


 赤い判は押されていない。


 それでも、その紙は何かを終わらせようとしているように見えた。


「ノエルさん」


「はい」


「今日、他に何か預かりましたか」


「いいえ」


「相談は」


「ありません」


「では、帰って結構です」


 ノエルは依頼票を見た。


 空欄の多い紙。


 何も書かなかった欄。


 不明と書いた受領簿。


 そして、中央局から来た灰色の封筒。


「クラリスさん」


「何ですか」


「空欄って、残しておくと、あとから誰かに勝手に埋められませんか」


 クラリスは答えなかった。


 ノエルは、言ってから、自分でも少し驚いた。


 昨日なら、そんなことは考えなかった。


 空欄は、分からないから空けておくものだと思っていた。


 けれど、今日の封筒を見ていると、そうとも限らない気がした。


 空欄を残すこと。


 勝手に埋めないこと。


 それは、同じようで、たぶん違う。


「だから」


 クラリスはようやく言った。


「本人の前へ戻すのです」


 ノエルは棚の封筒を見た。


 灰色の紙。


 黒い印。


 赤くはない判。


 けれど、終わったことにしたがる手の気配は、そこにもあった。


「店番など、必要ありません」


 クラリスは言った。


 ノエルは、今度はすぐに言い返さなかった。


 机の上の依頼票を揃え、鉛筆を置く。


「はい」


 それから、少しだけ間を置いた。


「でも、閉まっている店よりは、役に立ちました」


 クラリスは答えない。


 答えないまま、鞄の中へ手を入れた。


 取り出したのは、小さな革袋だった。


 机の上に置かれる。


 軽い音がした。


 ノエルは革袋を見る。


「何ですか」


「本日の報酬です」


「店番は必要ないのでは」


「店番ではありません」


 クラリスは平然と言った。


「留守中受付です。権限未確認の」


 ノエルは、答えに詰まった。


 それから、革袋へ手を伸ばしかけて、止める。


「受け取っていいんですか」


「働いたのでしょう」


「たぶん」


「では、たぶん受け取れます」


 ノエルは革袋を持った。


 重さは、それほどない。


 けれど、昨日預かった銅貨三枚とは違った。


 誰かの封筒と一緒に布で包んだ金ではない。


 ノエルの名前で渡された金だった。


「明日も、二番鐘の後に来なさい」


 クラリスは中央局の文書を鞄へしまいながら言った。


「命令ですか」


「依頼です」


「報酬は」


「働けば出ます」


「高いですか」


「さて」


 ノエルは革袋を握った。


 少しだけ笑いそうになって、やめた。


「分かりました」


 ノエルは扉へ向かう。


 外はもう、日暮れ前だった。


 札はまだ、配達中のまま揺れている。


 ノエルはそれを見て、思った。


 閉まっている店は、何も受け取らない。


 けれど、開いている店は、受け取ってしまう。


 赤い判も。


 灰色の封筒も。


 まだ名前のついていない誰かの事情も。


 ノエルは、机の上に残った依頼票を振り返った。


 白い欄が、いくつもある。


 埋めてはいけない欄。


 けれど、誰かが勝手に埋めないよう、見ていなければならない欄。


「……やっぱり、閉まっている店より難しい」


 そう呟いて、ノエルは扉を閉めた。

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更新時間を19時30分ごろに変更予定です。

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