返事の届け方
封筒は、私の目の前に差し出されていた。
リゼ・オルフェン様。
当たり前に書かれているそれに、目が釘付けになる。
何とか、視線を外して、自分の手を見た。
指先には藍が染みている。
爪の端は黒ずみ、掌は水で濡れていた。
その手で封筒に触れれば、紙に色が移る。
濡らしてしまえば、あの美しく書かれた名前が読めなくなってしまうかもしれない。
今までなら、誰かが言うのを待っていた。
親方がいいと言うまで。
年上の職人がどけと言うまで。
見習い三番は、いつでも桶の前で待つものだった。
リゼは息を吸った。
「手を、洗います」
声は小さかった。
けれど、作業場の奥まで落ちた。
親方の眉が動く。
「リゼ」
「手を、洗います」
今度は、少しだけはっきり言った。
私は立ち上がって、桶の横に置かれた清水へ手を入れた。
冷たい水が、指の間を通る。
藍は落ちない。
爪の端の黒ずみも、そのままだ。
けれど、濡れた色だけは薄くなっていく。
布で手を拭いた。
いつもなら作業台の端にかけてある古布を使う。
今日は、腰の前掛けの内側で拭いた。
封筒に、少しでも藍が移らないように。
女は封筒を差し出したまま、ただ、待っていた。
急かさない。
励まさない。
ただ、封筒をまっすぐ、本当にまっすぐ、持っている。
一歩だけ、近づいた。
親方の前を通る時、肩が少しだけすくんだ。
親方は止めなかった。
「受け取る場合は、受領の署名をいただきます」
「はい」
女は鞄から小さな受領票を取り出した。
欄がいくつかに分かれている。
その欄の一つが、空いていた。
「受取人の欄に、お名前を」
筆を受け取る。仕事の帳面に名前を書いたことはある。
見習い登録の時にも書いた。
失敗した布の控えに書かされたこともある。
けれど、今の紙は違った。
ここに名前を書くと、封筒が自分のものになる。
誰かの判断ではなく。
誰かの確認ではなく。
自分が受け取ったことになる。
指が震える。
最初の線が、少し曲がった。
それでも止めなかった。
リゼ・オルフェン。
書き終えると、息が少し遅れて出た。
女は受領票を確かめているようだった。
「確かに」
それだけ言って、封筒をリゼへ渡す。
リゼは両手で受け取った。
紙は思っていたより軽かった。
けれど、掌の上から動かないような気がした。
「開けても」
そこまで言って、途中で言葉を止めた。
誰に許可を求めているのか、自分でも分からなかった。
「あなた宛てです」
女はたった一言、それだけしか言わなかった。
封を切った。紙のこすれる音が、作業場に大きく響く。
中には、一枚の便箋が入っていた。
折り目はきれいだった。
字も、丁寧だった。
飾った字ではない。
『リゼ・オルフェン様。
先日、ユルゲン・モルトから見せてもらった端布のことが、ずっと気にかかっています。
灰を含んだ、あの藍色。
グレイン工房の見本帳を何度めくっても、同じ色は見つかりませんでした。
注文の反物なら、きっと染め直しを命じられます。
揃っていない色ですから。
それでも私は、あの布を失敗とは呼びたくありません。
見慣れない色を、間違いだと決めるのは簡単です。
けれど、あの藍には、もう一度見たくなる何かがありました。
あなたの色には、まだ名前がない。ただ、それだけなのだと思います。』
便箋の端を強くつかんだ。
藍の染みた指先が、紙を汚さないように少し浮く。
文字がにじんで見えた。
泣いているつもりはなかった。
『あなたが望むなら、東町のブラン染織房で見習いとしてではありますが、受け入れる準備がございます。
契約金は当方で立て替えます。
返済は、あなたが自分の給金を持てるようになってからで構いません。
迎えは、更新日翌日の朝、南門の水車小屋前に出します。
来るか残るかは、あなたが決めなさい。
エレナ・ブラン』
作業場が、さっきより遠い。
水車の音も、桶の水音も、誰かの息も、全部が少し遠かった。
名前がついていないだけ。
その一文が、胸の奥でほどけずに残っている。
今まで、灰の混じった藍は余計な揺れで、リゼの癖で、直すべき色だった。
けれど、別の場所では、まだ名前がないだけだと言われた。
失敗ではないと、紙の上に書かれていた。
「うちで覚えた色だ」
親方の声がした。
怒鳴ってはいなかった。
低く、押し殺した声だった。
「うちの水で出した色だ。うちの桶で染めた布だ。うちの飯を食って、うちの仕事を覚えた」
便箋を握ったまま、俯くのをやめた。
親方の言っていることは、嘘ではない。
初めて藍を溶いた日。
桶を倒して叱られた日。
水の温度を間違えた日。
色が浅すぎて、一反を無駄にした日。
全部、この工房で覚えた。
親方に教わったこともある。
年上の職人に助けられたこともある。
ここで過ごした時間は、本当にある。
「ここで覚えました」
親方の目が、ほんの僅かに動いた。
便箋を胸の前で持ち直す。
「でも」
言葉が喉に引っかかる。
それでも、今度は飲み込まなかった。
「これは、私の名前で来た手紙です」
作業場の空気が、少しだけ変わった。
誰かが息を吸う音がした。
親方は何も言わなかった。
「親方」
呼び慣れた呼び方だった。
けれど、その声で頼みごとをしたことは、あまりない。
「昼の契約更新を、待ってください」
親方の口元が硬くなる。
「待って、どうする」
「考えたいんです」
リゼは便箋を見た。
それから、干し場の布を見た。
藍の奥に、淡い灰が沈んでいる。
朝の弱い光の中で、まだ濡れていた。
「私が決めます」
声は大きくなかった。
けれど、さっきよりも遠くまで届いた。
親方は長く黙った。
その沈黙の間、誰も動かなかった。
やがて、親方は目を伏せた。
「昼食終わりまで、だ」
それは許可ではなかった。
譲歩とも少し違う。
けれど、少なくとも、今すぐ帳面を開く声ではなかった。
私は小さく頷いた。
「はい」
女が受領票を畳んだ。
「配達完了です」
あまりにも淡々とした声だった。
今起きたことが、ただの仕事として片づけられるのが、不思議だった。
けれど、その不思議さが、少しだけありがたかった。
大げさに救われたわけではない。
誰かに連れ出されたわけでもない。
ただ、届いていなかったものが、届いた。
その結果、自分で考えなければならなくなった。
「返事は」
鞄を閉じかけた手を止める。
「はい」
「返事は、出せますか」
「承ります、が」
クラリスは即答した。
そして、少しだけ間を置く。
「料金はしっかりいただきます。私はたいへん、高いですよ?」
リゼは瞬きをした。
作業場の隅で、誰かが小さく咳をした。
笑いをこらえたのかもしれない。
自分の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
「いくらですか」
「宛先、重量、緊急性によります」
女は淡々と言った。
「ただ、明日の朝、南門の水車小屋前に迎えが来るのでしたら」
そこで、封筒ではなく私を見た。
「あなたが行って、あなたの口で返事をした方が早いのでは」
一瞬、返事に詰まった。
「私が、ですか」
「はい」
「でも」
「手紙でなければ届かないものもあります」
女は鞄の留め具に指をかけたまま言った。
「手紙にしない方がよく届くものもあります」
改めて、便箋に目を通した。南門の水車小屋前。
明日の朝。たしかに、そこまでなら、歩ける。
それなのに、今まで一度も、自分がそこへ行くことを考えなかった。
「行っても、いいんでしょうか」
「私に訊かれても困ります」
クラリスは少しだけ眉を寄せた。
「私は道案内ではありません。郵便屋です」
少し、残念に思う自分がいた。背中を押してくれてもいいのに、と思う。
それから、女は続けた。
「ただし、宛先はあなたです。受け取った後、その返事をどこへ持っていくかは、受取人が決めることです」
「考えます」
「それがよろしいかと」
郵便屋の女は短く言った。
それから、受領票を鞄へしまう前に、もう一度だけ確認した。
受取人欄には、まだ乾ききらない文字が残っている。
『リゼ・オルフェン』




