↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/64

責任者の署名

 グレイン染織工房では、朝から水車が回っていた。


 リゼ・オルフェンは、桶の前に膝をついて布を絞っていた。


 水は冷たい。


 指先はもう慣れている。


 藍が爪の端に入り、洗っても落ちない。


 見習いになったばかりの頃は、それが少し誇らしかった。


 今は、ただの色だった。


「三番、そっちはまだか」


 年上の職人が言った。


 リゼは顔を上げずに答える。


「もう少しです」


 三番。


 ここでは、たいていそう呼ばれる。


 リゼ、と呼ばれることもある。


 だが、それは布に染みが残った時か、桶を倒した時か、親方に呼ばれる時だった。


 褒められる時は、だいたい名前が消える。


 今朝もそうだった。


 干し場にかけられた布の一枚だけ、藍の奥に淡い灰が沈んでいる。


 昨日、リゼが最後まで水から上げるのを迷った布だ。


 規定の藍より、少しだけ沈んだ色。


 失敗と言われるかもしれないと思って、畳む時には胸が詰まった。


 けれど親方は、その布をしばらく見ていた。


「これは、うちの新しい藍として打ち出すぞ」


 そう言った。


 うちの。


 新しい藍。


 私の名前は、どこにも入らなかった。


 それでも、失敗にはならなかった安堵の方が強いのも、また事実だった。


 そのことだけで、今日は朝から少し呼吸が楽に感じた。


「三番、その端布は片づけろ。余計な揺れは注文に出せん」


「はい」


 桶の脇には、小さな端布が一枚ある。


 同じ藍の奥に、淡い灰が残っている。


 それを濡れた布の下へ隠した。


 見つかれば、いつもの癖だと言われる。


 褒められた布は工房の色になる。


 揃わなかった布は、私の癖になる。


 そういうものだと、もう覚えていた。


 表の方で、箒の降りる音がした。


 作業場の空気が少し変わる。


 客なら門へ回される。


 商人なら親方が出る。


 郵便なら、たいてい事務机へ行く。


 けれど、その女の声は、作業場の入口で止まった。


「郵便です」


 澄んだ声だった。


 冷たい人というより、温度を低く保とうとしている人の声だと、リゼは思った。


「ローデン外れの私設郵便屋、クラリス・ヴェインです。リゼ・オルフェン様宛ての郵便を預かっています」


 手が止まった。


 自分が布を絞っていたことを一瞬忘れた。


 自分の名前が聞こえた。


 工房の外から。


 親方でも、職人でもない声で。


 リゼ・オルフェン。


 作業場では、その名では呼ばれない。


 桶の水が、指の間から落ちる。


 親方の声が低くなった。


「それなら昨日、返した」


 返した? 


 顔を上げられない。


 上げれば、聞いていたことが分かってしまう。


 けれど、耳は勝手に声を拾った。


「はい。戻ってきました」


「なら話は終わりだ」


「いいえ。戻る先が違いました」


 自分の知らないところで、何かが行き来していた。


 女の声は、少しも大きくならない。


「受領辞退で戻すなら、辞退した方の確認が要ります。これは、工房主の確認で差出人へ戻ろうとしている」


 受領辞退。


 その言葉は知っている。届いたものを、受け取らずに返すこと。


 自分は、何も断っていない。そもそも、何が届いたのかも知らない。


「私が確認した。ここでは、住み込み見習いの郵便は工房主が管理する」


 いつもの、少々威圧的に感じる声だ。


 帳簿の前で、商人に値を告げる時の声。


「ならば、管理者として返すべきでしたね」


「何だと」


「あなたの判断なら、リゼさんが断ったことにはなりません」


 私はそこで、初めて顔を上げた。


 入口に、深緑の外套を着た女が立っていた。


 手には封筒。


 その封筒には、赤い判が押されている。


 親方が前へ出て、入口を半分ふさいでいた。


 女は退かなかった。


 怒っているようには見えない。


「リゼはまだ十五だ。契約も借りもある」


「どちらも、手紙を読ませない理由にはなりません」


 親方の肩がわずかに強張る。


 契約や借り、その言葉は、いつもリゼの前に置かれる。


 親方は嘘を言っていない。


 ここで覚えたことは多い。


 ここで過ごした時間も多い。


 けれど、褒められた布に自分の名前がついたことは、一度もなかった。


「ブランのやり口を知らないから、そんなことを言える」


 親方が言った。


「契約金は立て替える。返済は給金が出てからでいい。そういう甘い言葉で、若い見習いを引き抜く」


 ブラン。


 東町の染織房。


 細い模様と、少し変わった色を扱う工房。


 自分には関係のない場所だと思っていた。


「読めば揺れる」


「揺れるでしょうね」


「分かっているなら」


「揺れる権利まで、親方が預かるのですか」


 作業場の誰も、口を開かなかった。


「リゼ・オルフェンさん」


 女が名前を呼んだ。


 大声ではない。


 けれど、作業場の奥まで届く声だった。


 リゼの手が止まる。


 親方が一歩横へ出た。


「勝手に呼ぶな」


「宛名を確認しただけです」


「ここは私の工房だ」


「こちらがどこであろうと、宛名は変わりません」


 女は封筒をこちらへ向けた。


「リゼ・オルフェン様。そう書かれています」


 リゼは、その字を見た。


 赤い判。


 封の切られていない口元。


 その奥に、自分の名前。


 リゼ・オルフェン様。


 見習い三番でもない。


 クレイン工房の見習いでもない。


 封筒の上では、ただ、自分の名前が輝いて見えた。


「リゼ。作業に戻れ」


 親方が言った。


 リゼは動かなかった。


 動けなかった。


 女が、親方ではなくリゼへ向き直る。


「リゼ・オルフェンさんですか」


 リゼは一度、親方を見た。


 それから、女を見る。


 声は小さかった。


「はい」


「あなた宛ての手紙を預かっています」


 なぜ。


 その言葉は、声にならなかった。


 ブラン染織房から、自分へ。


 自分の名前で。


 リゼは、封筒から目を離せなかった。


「私宛ての手紙なんて」


 リゼは言った。


「来ません」


「来ています」


 女は答えた。


 短く。


 断定するように。


 親方が低く、しかし悪びれもなく言う。


「それはもう、断ったことになっている」


「なっている、ですね」


 女は親方を見ないまま言った。


「本人が断った、ではなく」


 指先が、濡れた前掛けを握った。


 藍色の水が一滴、床に落ちる。


 親方は続けた。


「読めば、戻れなくなるぞ」


 戻れなくなる。


 今いるここへ。


 それとも、この手紙を知らなかった朝へ。


 女は、そこでようやく親方を見た。


「まだ読んでいませんが」


 静かな声だった。


「それなのに、戻れなくなると決めたのは、どなたですか」


 親方の顔が止まった。


 ほんの一拍。


 それで十分だった。


 封は切られていない。


 私は読んでいない。


 それでも、親方の署名で結果は先に書かれている。


 女は封筒を見下ろした。


 赤い判が、朝の光に鈍く浮いている。


「リゼさん」


 女は言った。


「受け取るかどうかは、あなたが決めてください」


 私は動けなかった。


 親方も動かない。


 水車だけが回っている。


 昼までは、まだ少しある。


 けれど、長くはない。


 女は封筒を差し出した。


「受取を拒めるのは、受取人だけです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。