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受領辞退

 クラリスは封筒を手に、店の扉を開けた。


「入って」


「いいんですか」


「外で話すと目立ちます。あと、寒い」


「はい」


「靴」


 ノエルは慌てて足元を見た。


 泥がついていた。


「すみません……」


 ノエルが靴の泥を落としている間に、クラリスは机の上へ薄い布を敷いた。


 その上に封筒を置く。


 受領辞退。


 現地責任者確認済。


 封筒の表には、赤い判が押されている。


 だが、封は切られていない。


 紙の角には、薄く藍色の粉がついていた。


 染織工房の机か棚に、一度は置かれたのだろう。


 それでも、宛名本人の手には渡っていない。


 クラリスはその藍色を、指で払わなかった。


「帳面」


 ノエルは差し出した。


 クラリスはゆっくりと舐めるように目を通す。


 字は小さく、行は曲がっていたが、必要なことは一応残っていた。


 依頼人はユルゲン・モルト、差出人はエレナ・ブラン、宛先はリゼ・オルフェン、勤め先はグレイン染織工房。


そして、明日の昼に見習い契約が更新されること。南門の水車小屋前に迎えをやること。


 そこまで読んで、クラリスの指が止まった。


「手紙の内容は本来、聞いていいことではありません」


「すみません」


「ですから、謝るのは後にしてください。明日の昼ですね」


「はい」


「では、あまり時間がありません」


 クラリスは封筒を防水袋へ入れた。


 その手つきで、ノエルにも分かった。この依頼は受けてくれるようだ。


「行くんですか?」


「確認に行きます」


「届けるのではなく、ですか」


 クラリスは鞄の留め具を確かめながら答えた。


「本人が受け取れば、それで完了です。拒めば、拒否として記録します」


「本人に届かない時は、どうなるんですか」


「親方宛ての手紙は、持っていません」


 短い言葉だった。


 ノエルは赤い判を見た。


 さっきまで、判の方が封筒より大きく見えていた。


 だが、クラリスが防水袋へしまうと、判はただの赤い汚れのように感じる。


「ユルゲンさんは、悪い人には見えませんでした」


 ノエルは言った。預かった以上、伝えれることは全て伝えておきたい。


 クラリスは帳面から目を上げる。


「悪い人に見えない人が、正しいとは限りません」


 言葉の意図を考えるが、すぐには答えられそうにない。


「それは、どういう……」


「鵜呑みにするな、ということです」


「依頼人なのに、ですか」


「依頼人だから、です」


 クラリスは帳面を閉じた。


「あなたが聞いたのは、ユルゲンさんの話だけです。リゼさんの話はまだ聞いていない。グレイン工房側の事情も知らない。エレナ・ブランさんの都合も、全部は知らない」


「でも、封は切られていません」


「それは事実です」


「署名もない」


「それも事実です」


「では」


「だから、確かめに行くんです。裁きに行くのではありません。届けに行くのです」


 ノエルは、昼間の自分を思い出した。


 依頼なら預かれます。


 閉まっている店よりは役に立ちます。


 あの時は、うまいことを言ったと思った。


 老人を帰らせずに済んだし、銅貨も受け取った。


 けれど、それだけでは足りなかった。


 誰かの話を聞くことと、その誰かの味方になることは違うんだろう。


 まだ会ってもいないリゼ・オルフェンを、勝手に助ける相手にしてはいけない。


 誰かを悪者にしに行くのではない。


 誰かを助けに行くとも、クラリスは言わない。


 ただ、届いていないものを、届くところまで持っていく。


 それだけのために、あの箒は飛ぶんだ。


 ノエルは木箱の横に置いた布包みを思い出した。


「預かり賃です」


 銅貨三枚を差し出す。


「封筒とは分けました」


「たいへん、よろしい」


「勝手に受け取りましたけど」


「たいへん、よろしくない」


「ですよね」


 クラリスは銅貨を確認し、机の端へ置いた。


「料金は後で計算します」


「高くなりますか」


「高くなります」


「……ユルゲンさんに言っておくんでした」


「本来ならそうしていただきたいですね」


「怒られますか」


「私が怒られます」


「すみません」


「謝るのは後に、と言いました」


「……はい」


 クラリスは外套を脱がず、棚から灰色の紙を一枚出した。


 罫線の入った依頼票だった。


 ノエルの前に置く。


「明日の二番鐘の後、ここに来てください」


「私も工房へ行くんですか」


「いいえ」


 即答だった。


 ノエルは口を閉じる。


「では、私は何を」


「これを写しなさい」


「依頼票?」


「字は大きく。順番通りに。分からないものは空欄。勝手に埋めない」


「店番ですか」


「違います」


「では」


「留守中に来た客の観察です」


 ノエルは依頼票を見下ろした。


 紙はまだ白かった。


 空欄は、思っていたより怖い。


 何も書かれていない場所には、何を書いてもいいわけではない。


 分からないものを勝手に埋めれば、その白さにも誰かの事情が乗る。


「封筒は預かっていいんですか」


「まだ駄目です」


「まだ」


「今日のあなたは封筒を濡らさなかった。銅貨も混ぜなかった。話も残した」


「はい」


「でも、受けて良いものと、そうでないものを判断は出来ない」


 クラリスは防水袋を軽く叩いた。


「封筒は、ただの紙ではありません。持った時点で、誰かの事情に指をかけることがあります」


 ノエルは、防水袋の中の赤い判を思い出した。


 受領辞退。


 現地責任者確認済。


 自分が預かったのは、ただの封筒ではなかった。


 誰かが断ったことにされた紙だった。


 その紙を木箱に入れて、銅貨三枚を受け取った。


 閉まっている店よりは役に立つ。


 そう思った言葉が、少しだけ重くなる。


「明日、また来ます」


 ノエルは言った。


「早すぎない時間に」


「二番鐘の後で」


「よろしい」


 クラリスはようやく外套を脱いだ。


 暖炉には火が入っていない。


 店の中はまだ冷えている。


 だが、机の上には依頼票が一枚置かれた。


 ノエルはそれを両手で持つ。


 白い紙なのに、軽くはなかった。


「店番など、必要ありません」


 クラリスは独り言のように言った。


「……すみませんでした」


 ノエルは素直に返事をした。


 クラリスには、その素直さがどこまで本物か分からなかった。


 扉を開けると、外の風が店の中へ少し入った。


 ノエルは振り返る。


 机の上には帳簿。


 椅子には深緑の外套。


 そして、鞄の中には赤い判の封筒がある。


 明日の昼まで。


 それを過ぎれば、赤い判は本当に本人の意思として扱われる。


 閉まっている店よりは役に立つ。


 昼間に口にしたその言葉が、帰り道では、少しだけ重かった。



 翌朝、ローデンの空は低かった。


 雲が厚い。


 雨にはならないが、陽の色が薄い。


 クラリスは店の扉に、いつもの札を下げた。


 配達中。


 御用の方は、日暮れ前後に再度お越しください。


 昨日と同じ、簡潔で、正確で、ひどく不親切な札である。


 少しだけ、手が止まった。


 閉まっている店よりは役に立ちます。


 昨日の少女の声が、妙に耳に残っている。


 クラリスは札を裏返すことも、書き足すこともしなかった。


 ノエルが来るのは、二番鐘の後だ。


 その頃には、もう空の上にいる。


 店番など必要ない。


 今日は偶々、鍵をかけ忘れてしまった。


 少なくとも、そういうことにしておく。


 クラリスは鍵束を鞄へしまい、札の傾きを直した。


 それから、鞄の留め具を確かめる。


 中には、防水袋に入れた封筒が一通。


 封は切られていない。


 表には、受領辞退の赤い判。


 現地責任者確認済。


 紙の角には、薄い藍色の粉がついている。


 汚れではない。


 工房に触れた痕跡だ。


「さて」


 クラリスは箒を手に取った。


「赤い判が、どなたの声なのか。聞きに行きましょう」


 誰に聞かせるでもなく言って、空へ上がった。

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