5. 澄んだ水と、黒い水
三百十二。殿下の頭の上には、まだそんなに並んでいる。五日目の朝、私は神殿の鑑定の間へ呼ばれた。
白い石の床は、靴の底まで冷たい。高い窓から差す光の下に、銀の水盤が二つ並んでいる。長い白い眉の大神官は、その間で私たちを待っている。
殿下の一歩うしろで、ブリジッドが四つ葉の髪飾りを指先で直している。殿下の腕とのあいだには、手袋一枚ぶんの隙間があった。寄り添っているようで、触れてはいない。
私の後ろには団長がいる。今朝は手を借りるより先に、ここへ呼ばれてしまっている。いつもの温かさがない指先を、そっと握り込む。
「後ろに居ます。何かあれば」
「ありがとうございます。今のところ、転ぶ予定はございませんので」
背中越しに届いた声を、お守りのように胸へしまう。殿下はその間にも、大神官へ向き直った。
「あの女の呪いだと、神殿の名で認めよ。そして、王都から追い出せ」
「承知いたしました。では、殿下もご一緒に、鑑定をお受けくださいませ」
「なぜ俺が!?」
「殿下。わたくしは、お水に手を入れなくてもよろしいのですわよね?」
大神官の白い眉が、ゆっくりと持ち上がる。殿下の大声に、神官たちの手がぴたりと止まる。声の響きだけが、高い天井へ逃げていく。
「呪いの鑑定は、かけた側とかけられた側を、並べて見るのが決まりでございます。かけた側の水には、必ず厄の影が残りますゆえ」
殿下は舌打ちして、水盤の前へ進み出る。かかとの高い長靴の音が、石の間に高く響いた。
「先にあの女を調べろ! 俺の水まで、汚されてはかなわん!」
「かしこまりました。私が先に、手を沈めます」
水盤の前で袖をまくる。むき出しの腕に、ひやりと空気が触れる。ブリジッドが殿下の肩越しに、こちらを覗き込んでいた。
「まあ、フィオネ様。ずいぶん落ち着いていらっしゃいますこと。わたくしなら、怖くて手を入れられませんわ」
「お水は澄んでおりますもの。ブリジッド様にも、後ろからよくご覧いただけます」
私は、そっと手を沈める。指先がきゅっと縮むほど、水は冷たかった。けれど、いくら待っても底まで透き通ったままだ。
水面に、胡桃色の三つ編みの先と、小さな顔が映っていた。きりっとした細い眉の下で、若葉色の目と目が合う。映った私まで、息をひそめている。
十年、割れる物も、転ぶ足も、全部私のせいにされてきた。その私の手が、水の底で、ただ白く光っている。何か言われる前にとすくめかけた肩を、ゆっくり戻す。
「……このお方の水には、影が一つもございません。これほど澄んだ水は、初めて見ました」
神官たちが水盤を覗き込み、顔を見合わせてうなずく。殿下へ向いていた目が、私の手に集まった。誰も、顔をしかめない。
「……本当に、何もないのでございますか?」
「……底のお指まで、はっきり見えております」
大神官は水の底の指を確かめ、深くうなずいた。その目が、ふいに私の左肩で止まる。
肩の上では、ミリャが水盤へ身を乗り出している。ああ、今だけはおとなしくして。
「……肩に、何か」
「埃でございます」
「埃じゃないぞ!」
煤色のお団子が、ぴんと逆立つ。耳元ではっきり抗議されても、大神官は白い眉を揺らすだけだった。
「ごはんは、まだなのかー?」
「静かに。埃がしゃべっては困るわ」
口の端だけで返し、肩を払うふりをする。せめて今くらい、お腹以外の話をしてほしい。神官が隣の水盤へ、殿下を案内していった。
殿下が椅子に腰を下ろし、手を沈める。途端に、水が墨を流したように黒く渦を巻く。銀の底も指も、あっという間に見えなくなった。
「おい! 俺の水だけ、何を入れた!?」
「殿下、私の両手はここにございます。お疑いでしたら、そのままご覧くださいませ」
私は濡れた両手を、水盤の縁へきちんとそろえる。指のあいだまで見えるように、少し開いておく。その間にも、殿下の水盤からは黒い水が溢れ出した。
大神官が二つの水盤を見比べ、黒い渦の縁を指でなぞる。ほかの色の筋は、一本も混じっていない。
「ほかの方の影は混じっておりません。殿下ご自身の厄です」
神官が慌てて桶を差し入れる。黒い水は縁を越え、桶の底までたちまち黒く染めた。殿下の後ろから、砂糖を溶かしたような甘い声が上がる。
「殿下、わたくしの裾にお水がかかりますわ。お手は、そちらでお拭きになって」
「……桶を、もう一つ」
「桶を増やしてどうする!? 俺が訴えている相手は、そこにいるだろう!」
大神官の指は、私の澄んだ水盤をまっすぐ示す。神官たちのざわめきが、殿下の椅子をぐるりと取り囲んだ。
「……お嬢様の水は、ご覧のとおりでございます。王都から追い出すお求めは、お受けできません」
「大神官様。お確かめくださり、ありがとうございます」
「水ごときで、俺の言うことを退けるのか!」
殿下が胸を張り、顎を上げる。見上げる神官たちにその姿を誇るように、椅子から立ち上がりかけた。肩の上で、小さな鼻がひくりと動く。
ぱきん、と長靴のかかとが折れる音。殿下は黒い水の中へ、尻からべしゃりと座り込む。跳ねたしぶきに、神官たちがそろって足を引いた。
「そんなはずはない! 俺は〈幸運の王子〉だぞ!」
怒鳴り声が、途中で泣き声に裏返る。ブリジッドは裾を抱え、もう一歩殿下から離れた。
「だ、誰か! 替えの靴を持て!」
大神官は水盤の脇を通りしな、私にだけ聞こえるほど声を落とす。
「……お嬢様。肩の埃に、よろしくお伝えくださいませ」
「埃じゃないって、言ってるだろー!」
私の水盤には、最後まで影ひとつ浮かばなかった。水から上げた手に、窓の光が細く残る。
神殿を出ると、石段に春の日が差している。白い石はほのかに乾いた匂いを立て、靴の底までやわらかく温めてくれた。
手巾を畳もうとする指が、少しだけ震える。水の冷たさはもう抜けたのに、角と角がうまく合わない。
「コナル様、先ほどの鑑定を、ご覧になりましたか?」
「見ました。俺の手を取ってくれるのも、同じ手です」
団長が隣に立ち、顎の古傷の上の口を開く。私の指は、まだ手巾をきつくつかんでいた。
「あなたのそれは、呪いではありません。才能です」
「……十年、誰も、そんなふうに言ってくれませんでした」
泣くのは、十年ぶりだ。
手巾で隠すより先に、涙が落ちた。石段に、小さな丸い染みが一つ、二つ。団長は手を伸ばさず、ただ隣に立っている。急がせる声も、覗き込む顔もない。
「なら、俺が何度でも言います」
「……ずるいです。そんなふうに言われたら、もっと泣いてしまいます」
団長が顎の古傷を掻いて、目をそらす。大きな体は、石段の途中から一歩も動かなかった。
「大丈夫です。急ぐことはありません」
「お待ちになるのは、お得意でいらっしゃいますね。あの朝も、門の前で一時間」
言い終えるころには、笑いが涙に混じっている。団長の口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「あの朝も、今日も、待つ甲斐があります」
ちょっと、そんなに真面目な顔で言わないで。そんなの、泣き止むより先に顔が熱くなる。
「ふふ。……では、今朝の分を、まだいただいておりませんでした」
私は手巾を持ち替え、手を差し出す。団長の大きな手が、ゆっくりと重なった。包まれた指先から、こわばっていた肩までぬくもりが届く。
「うまー。やっと朝ごはんだぞ」
今朝も私の手は、誰かの役に立てる。重なった手を、今は隠したいと思わない。
石段の下から、王家の紋の外套が駆け上がってきた。使いは私の前で急に足を止め、肩で息を整える。
「王妃陛下が、お戻りになりました。フィオネ様を、お召しです」




