4. 厄神と、額縁の中の殿下
あのひびは、殿下に触れたから? 答えはたぶん、この肩の上にある。
四日目の朝。カーテンの隙間から差す光が、寝具のしわを白く照らしている。私は枕の上の小さいのを、指先でそっとつついた。煤色のお団子が揺れ、丸い体がころんと裏返る。
「それで、あなたはいったい何なの?」
「ミリャは厄神だぞ。お前が生まれたときから、ずっとここにいた」
「……十年、一度も見えなかったわ」
「腹ぺこで寝てたんだぞ。お前の中は、殿下の預かり物でいっぱいだったから」
ミリャが私の肩へよじ登ってくる。小さな足に首筋をくすぐられながら、私は胡桃色の三つ編みをつまんで、足場を空けてやった。
「厄を食べるなら、私の分を食べてくれればよかったのに!」
「誓って預かった物は、食べないぞ。勝手に食べたら、持ち主に返せなくなるだろ」
ミリャは頬をふくらませて、膝を抱える。私は寝間着の袖をまくり、肘の古い擦り傷の痕に指を置いた。とうに痛まなくなった場所なのに、今朝は指を離しがたい。
「……私が転んでいたのも、殿下の分だったのね」
「小さいのは、お前が払った。大きいのは残って、ミリャのごはんの入る場所がなかったんだぞ」
十年間、私の中は満杯で、ほかの人の厄が入る隙間もなかったのだ。それが空になったから、車寄せで騎士の手に触れたとき、この子の食事が始まった。あの雨まで、ようやく話がつながる。
「夜会の帰りの雨と、翌朝の雨は、あなたが食べたから?」
「うまかったぞ。あの大きいの、半日でまた溜まるから、朝には食べごろだなー。きゃははは!」
食べごろって、人に使う言葉じゃないんですけど?
ミリャは私の耳にもたれて、小さな指を折り始めた。その指先を見ているうちに、聞きそびれていたことが喉までせり上がる。
「……あと、いくつ?」
「三百十三個。お前が返した分は、みんなあいつの頭の上で、順番待ちしてるぞ」
十年分の殿下のツケが、殿下の頭の上で、行儀よく列を作っている。
それだけのものを、私は抱えてきたのだ。膝の古い痕を撫でても、数までは見えてこない。転ぶたびに笑われた朝が、一つずつ胸の奥から浮かんでくる。痛いと言うより先に、私も笑ってしまう癖がついていた。あのときの私に、あなたのせいじゃないと教えてやりたい。
「そんなにあるのに、一度に落ちてこないの?」
「人前で威張ると落ちるぞ。あいつ、上へ行くのが好きだなー」
なるほど。大階段も、馬車の窓も、茶会の真ん中も。殿下が胸を張るたび、殿下の顔は下へ消えていった。上へ行きたいのに、忙しいことだ。
「殿下に触れたら、また私に入ってしまうの?」
「入るぞ。ミリャは、預かり物より朝ごはんのほうがいいなー」
ごもっとも。私だって、膝で払う朝はもう要らない。まくった袖を戻し、肘の痕をやわらかな布で覆った。これからは、誰に手を貸すか、私が決めていい。
扉を叩く音がした。隙間から、オーエンの白い口ひげが覗く。
「お嬢様。王宮から衛兵が四人。……殿下のお召しでございます」
「朝からお迎えとは、光栄でございますね。オーエン、薬箱をお願いいたします」
「それと、門の前にまた、あの騎士様がお待ちでございますな」
老家令は薬箱の留め金を確かめてから、私に渡してくれる。肩でミリャが、両手を上げてばんざいをした。ごちそうの名前を呼ばれた子どもの顔は、おやめなさい。
門へ出ると、朝の冷たい空気の中で、団長が大きな手を差し出す。顎の古傷の上の口は、今日も真面目に結ばれていた。
「今朝の分を、お願いできますか?」
十年、毎朝、殿下の手を取りに行った〈朝の御手〉。立場が逆になっただけで、どうしてこんなに可愛いのだろう?
昨日の包帯を大事にしている手を見て、薬箱の持ち手を握り直した。頼られるって、こんなにくすぐったいことだったのか。
「お待たせいたしました、コナル様。昨日の結び目も、きれいなままでございますね」
「ほどけないよう、気をつけました。……今日も、あなたの手を借りに来ています」
私はその手に、指を重ねる。冷えた指先には、包帯越しにもぬくもりが伝わってきた。肩で小さな口がぱかりと開く。
「うまー。朝ごはんだぞ!」
「王宮まで、お供します。呼ばれた先でも、俺の手なら使ってください」
団長が衛兵たちへ向き直る。その隣で裾を整えながら、私はようやく肩の力を抜くことができた。迎えの馬車へ乗り込んでも、指先にはまだぬくもりが残っている。
◇
王太子の居間は、壁一面が殿下の肖像画だ。どちらを向いても殿下と目が合い、逃げ場のなさに足が止まった。
絵の中の殿下は、かかとの高い長靴で岩の上に立ち、勇ましく顎を上げている。油絵の具の匂いが、まだかすかに残っていた。
その絵の下で、本物の殿下は長椅子に沈んでいる。乱れた金髪のまま、肘掛けをどんと打った。乾いた音に肩がすくみかけ、私は薬箱の持ち手を握り直す。
「見ろ、この有様を。全部あの女の呪いだ。今すぐ解け」
「承知いたしました。では、解きます」
私は手を一つ、ぱんと打つ。指先まできちんとそろえ、背筋も伸ばした。侍従と衛兵の目が、いっせいに私の手へ集まる。よし、礼儀作法に抜かりはない。
「はい。解けました」
「……それだけか?」
殿下が長椅子から跳ね起きた。かかとの高い長靴を鳴らして肖像画の真下まで歩き、私を見下ろす。
「もっと何かあるだろう! 床にひざまずくなり、祈るなりしろ!」
「殿下がお求めなのは、呪いを解くことでございますね?」
「そうだ! 俺に不運をよこした分まで、きっちり解け!」
ミリャの鼻が、ひくひくと動く。私は目だけを動かして、そっと額縁を見上げた。あの子の鼻先も、同じほうを向いている。
「来るよー。上だぞ」
「殿下、念のため、一歩お下がりになったほうが」
殿下は侍従と衛兵の前で、肖像画とそっくり同じ角度に顎を上げ、自慢げに腕を広げた。なるほど、絵とおそろいにしたいのね。
「俺に指図するな!」
ぎし、と木の軋む音がした。殿下の顎が下がるより早く、壁から肖像画が外れ――。
バーン! と、額縁はその首へすっぽりとはまった。
破れた絵の、顔の位置に、本物の顔。勇ましい絵の中で、本物の殿下だけが目を白黒させていた。あまりにぴったりで、息を吸う間を見失う。
「と、解けていないではないか!」
「解きました。というより、呪いなど初めからございませんので……ぷくくく」
侍従が唇を噛んだ。衛兵も口を固く結び、肩をすくめて下を向く。
「額縁を外せ! なぜ、誰も手を出さん!?」
「首をお動かしになりませんように。侍従の方が、ただいまそちらへ」
団長は顔を背けて、肩を震わせている。見上げると、顎の古傷の脇まで引きつっていた。あの真面目な口が、ひどく危うい。
「……コナル様、どこかお痛みでも?」
「ありません。……しばらく、こちらを向けないだけです。くっくっく……」
私も手巾を口もとへ寄せる。絵の中の顎と本物の顎は、まだ同じ角度のままだ。隣でかすかに息が漏れ、手巾を押さえる指につい力が入った。
額縁を首にかけたまま、殿下が立ち尽くす。ミリャが指を折って、上機嫌で私の耳へ口を寄せた。
「あと三百十二個。楽しみだなー。くふふふ……」




