3. 二十歩先の、鳩日和
四つ葉の印を押した招待状を持って、私は薔薇園へ来た。行かなければ、逃げたと言われる。それは、もうごめんだ。
午後の陽が、生け垣の薔薇を薄く透かしている。馬車の扉が開くと、甘い香りがいっぺんに流れ込んできた。あまりに穏やかな匂いで、招待状を握る指の力が少し緩む。
扉の外では、団長が手を差し出している。顎の古傷の上には、今日は雨の滴がない。私が手を伸ばすまで、少しも急かさず待ってくれた。
「コナル様も、お茶会にお招きでございますか?」
「俺が茶をこぼすところを、皆で眺めたいのだそうです」
「まあ。お茶を飲むだけで、皆様にお喜びいただけるのですね」
「……あなたの前では、こぼしたくありません」
私はその手に手を重ねる。支える力があんまり優しくて、返す言葉を忘れてしまった。馬車から下りて足元を確かめるより先に、肩の小さいのが身を乗り出す。
「うまー」
「まだお茶も飲んでいないわよ。静かに」
口の端だけで、小さく言い返す。団長は前を向いたまま、何も聞こえていない顔だ。煤色のお団子姿の厄神は、ぴょこぴょこ揺れていた。食べてもいないのに、その満足そうな声は何なの?
私は扇を開いて、つい上がった口角を隠す。胡桃色の三つ編みを左肩の前へ戻して、卓の並ぶ芝生へ進んでいった。
卓の中央で、ブリジッドが四つ葉の髪飾りを揺らして立ち上がる。お茶の湯気の向こうから、甘い声が迎えてくれた。
「まあ、フィオネ様。来てくださったのね」
「お招きいただき、ありがとうございます。よいお天気でございますね」
「わたくしの茶会ですもの。晴れるに決まっていますわ」
「さすが〈幸運の令嬢〉でいらっしゃいます。雨のほうが、ご遠慮なさったのですね」
隣の席では、殿下が座ったまま、卓の脚を爪先でこつんと突く。かかとの高い長靴の硬い音に、客のおしゃべりがぴたりと止まった。向けられた視線が、頬にちくちく刺さる。
「お前が近くにいると、運が逃げる。俺に近寄るな」
「承知いたしました。では、二十歩、下がります」
私は裾をつまみ、一歩ずつ後ろへ下がる。団長が、黙って傍らを空けてくれた。では、きっちりと。近いと叱られる隙も残さない。
「一歩、二歩、三歩」
「まあ、本当に数えていらっしゃるのね。そこまでなさらなくても、よろしいのに」
ブリジッドが扇を閉じる。ぱちん、という音にも足は止めない。客の小声が、いつの間にか私の数を追いかけていた。
「お母さま、あの方、後ろ向きに歩いていらっしゃるわ!」
「殿下のご命令でございますから。お近くと言われぬよう、正確にいたします」
八、九、十。薔薇の香りの中を、私は後ろ向きに進む。十年、前を向いていても転んでいた足が、後ろ向きでもしっかりと芝を踏む。靴底を押し返す土の感触が、歩くたびにうれしかった。
噴水のそばで止まると、扇を持った老侯爵夫人が、白髪を大きく結った頭を傾ける。最後の数は、私より先にその方の口からこぼれた。
「十九、二十。……まあ、ずいぶん遠くまで」
「奥様、お数えいただき、ありがとうございます。そちらのお席から、私が見えますでしょうか?」
「ええ、見えますとも。殿下のお顔も、あなたのお顔も、ちょうどよく」
老侯爵夫人は、扇の陰で目を細める。これだけ下がっても、私を見る目の数は減らないらしい。けれど、さっきほど、その視線が痛くなかった。
団長が茶碗を二つ持って、二十歩を歩いてくる。一つを私へ差し出しながら、顎の古傷の上で、口の端が一瞬だけ上がった。
「二十歩先は、ちょうど日陰ですね」
「殿下の、お心遣いでございます」
「こちらなら、茶をこぼしても殿下にはかかりません」
「コナル様。こぼすご用意は、どうかなさいませんように」
私は温かい茶碗を受け取り、両手を添える。噴水の水音が、背中で涼しく鳴っていた。隣に立つ人がいるだけで、遠ざけられた場所がこんなに居心地よくなる。
「運んでいるあいだ、ずっと待っていました。いつもの、茶碗が割れる音を」
「では、冷める前にご一緒に。割れるのを待っていては、お茶がかわいそうです」
「……割れませんでした」
茶碗を見つめる横顔から、私はそっと日向の卓へ目を移す。私が二十歩先へ退いて、殿下はようやく立ち上がった。
ブリジッドの肩へ手を回しかけて、その手で茶碗を取る。茶碗を高く掲げて、得意げに客をぐるりと見回した。皆の顔が、今度は殿下へ向く。
「見よ。幸運の令嬢だ。この人の隣では、鳥まで歌う」
頭の上で、ばさばさと鳩の羽音がした。白い落とし物が一つ、撫でつけた金髪へ、ぽとり。
「……へっ?!」
殿下が顔を上げると、二つめが肩へ落ちる。三つめは、高く掲げた茶碗の中で、ぽちゃんと小さな音を立てた。
「三つめー! きゃははは!」
肩の小さいのが、指を三本立てて得意げだ。ブリジッドの頭の上だけ、鳩はすいすいと避けて飛んでいく。
「きゃっ、殿下! 御髪に……」
「あの女の呪いだ! 皆も見ただろう!」
「二十歩先から呪いが届くなら、たいしたものですわね。ふふっ」
老侯爵夫人が扇で口もとを隠す。客の目が、私の茶碗と殿下の茶碗を行ったり来たりする。私は自分の茶碗を、そっと胸元へ引き寄せた。
「二十歩では足りん! もっと下がれ!」
「これ以上下がりますと、噴水に入ってしまいますが」
「入れ!」
殿下の声が、噴水の水音より大きく響く。首筋がこわばりかけたとき、隣で衣擦れの音がした。団長は茶碗をそっと縁へ置く。
「お供します」
「コナル様まで、お召し物を濡らしてしまいます!」
「この天気で濡れられるなら、俺らしいです」
「……でしたら、噴水の手前で止まります。私、泳ぎは得意ではございませんので」
真顔のまま、団長が噴水の縁の高さを確かめている。待って。私より先に入らないで。卓から卓へ、扇の陰の笑いがさざ波のように広がった。
「奥様、笑いごとではない! 俺の命令だぞ!」
「ええ、よく聞こえましたわ。次は、お魚にも近寄るなとお命じになるのでしょう?」
「鳥の次は、魚だなー」
肩で楽しそうな声がする。私は扇を閉じて、噴水の縁に足をそろえた。水しぶきが靴の先へ、ひやりと届く。……さすがに、本当に入るつもりはない。
ブリジッドが殿下の腕にすがり、甘い声で席へ戻るよう促す。笑い声を包み込むような、やわらかな響きだった。
「殿下、どうぞお座りくださいませ。わたくしの隣なら、皆様にもよく見えますわ」
「俺はまだ、あの女に命じている!」
ぴしり、と乾いた音がする。その小さな音だけが、妙にはっきり耳に残った。ブリジッドが、殿下の腕を放す。
「……え?」
何も持っていない手を、目の前へ上げる。触れかけた指先が、宙で止まる。それから私のほうへ向き直った。
殿下に触れたから?
四つ葉の髪飾りを揺らして、ブリジッドが二十歩をまっすぐ歩いてくる。扇の陰の笑いが静まり、客の顔が彼女の左手へ集まった。芝を踏む音が近づくのを、私は茶碗を持ったまま聞いている。
「あなた、何をしたの?」
「二十歩先で、お茶をいただいておりました」
ブリジッドが左手を突き出す。薬指の指輪の石に、ひびが一本、走っていた。陽を弾くその細い筋から、目が離せない。
「殿下に触ると……指輪が割れたの」




