2. 雨が避けて通る人と、一行の但し書き
一度も転ばずに、朝が来た。階段を下りるのに、今日は手すりが要らない。伸ばしかけた手を引っ込めると、胸の奥がくすぐったい。
左肩には、ゆうべの小さいのが、ちゃっかり居座っている。
「昨日、いったい何が起きたの?」
「教えなーい」
煤色のお団子が、耳もとをくすぐった。朝食のあいだじゅう、何を訊いてもこの調子だ。
玄関では、オーエンが白い口ひげを撫でていた。閉じた薬箱と傘が、私の手の届くところに用意してある。
「お嬢様。門の前に、ゆうべの騎士様が。もう一時間も、雨の中でございます」
「一時間もですか? お屋敷にご案内くだされば、よろしかったのに」
「ご本人が、ここでよいと。雨宿りより、お嬢様にお目にかかるほうが先だとおっしゃいましてな」
私は傘と薬箱を抱え、門へ急いだ。雨粒の跳ねる道の向こうに、ゆうべと同じ大きな人が立っている。
短く刈り込んだ黒髪の先から、しずくが垂れていた。顎の古傷を伝った雨が、外套の襟へ吸い込まれていく。
「あなたの隣でだけ、雨に降られなかった。理由を聞かせてもらえますか?」
「……まず、どちら様でございましょう?」
「辺境騎士団長の、コナルです」
〈国一番の不運な男〉。その噂なら、王都でも聞いたことがある。
「あの、辺境の……行軍のたびに嵐を連れて歩くと噂の?」
「その噂なら、たぶん、俺のことです」
金色の目が、まっすぐに私を見下ろしている。そのまま団長が一歩、傘から離れようとする。
私は小柄な体ごと前へ出て、傘をうんと高く持ち上げた。胡桃色の三つ編みが、左肩から胸へ滑る。離れられると、こちらの腕が困るんだけど。
「コナル様、どうぞこちらへ。お名前を伺うために、さらに濡れていただくつもりはございません」
「……俺の隣では、あなたまで濡れます」
「ゆうべは、濡れませんでした。まずは傘の下で、お話を伺えますか?」
団長は足を止めたものの、下ろした手を体の後ろへ隠そうとする。その拳に、赤い擦り傷が見えた。
「そのお手を、拝見してもよろしいでしょうか?」
「来る途中で、馬に振り落とされました」
ずぶ濡れで、一時間待ちで、擦り傷つき。聞く順番を、間違えたわ、私。
傘の柄を肩で挟み、薬箱を開ける。十年の生傷で覚えた手は、包帯の端へ勝手に伸びた。薬草の青い匂いが、湿った空気にほどけていく。
「触れた方の厄が、私に移る体質でございます。お手当ての際に、少し、引き受けてしまうかもしれません」
「……俺のために、あなたが転ぶのですか?」
「いつもなら、そのようなこともございます。けれど……ゆうべ、なぜ私まで濡れずに済んだのかは、まだ分からないのです」
団長が拳を引きかける。その手が離れる前に、私は包帯を巻き終えた。結び目を整える指には、力を入れすぎない。
「……手際が、いいですね」
「十年、自分の膝で練習いたしましたので」
団長の金色の目が、包帯から私の顔へ上がった。自分の傷の話なら、いつものように笑って済ませられるはずなのに。
「お痛みは、いかがでございますか?」
「楽になりました。……あなたの手は、冷えていませんか?」
結び目の下に、大きな手の温かさがある。心配されるのは、いつだって私の膝のほうだったのに。今は、手当てをする私の手まで気にかけてくれる。指を離すのが、ほんの少し惜しくなった。
「けぷ」
厄神が満足そうに腹をなでる。
「お行儀悪いわよ?」
小声で肩へ言い返す。せっかくのこの空気を、げっぷで片づけないでほしい。
「だって、うまいんだぞ。ゆうべより、うまいぞ!」
その瞬間、団長の肩を打っていた雨が、またぴたりと止まった。
傘の外では雨音が続いている。団長は包帯の手を、確かめるように空へ向ける。
「……また、雨が俺を避けた」
「私が避けているのではありません。あなたの不運が、今日はお休みなだけです」
「なら、明日も休ませてください」
ちょっと、ちょっと。今の、口説き文句? 真顔のままでは、こちらが困る。包帯の端をしまう指が、薬箱の縁に引っかかった。
「……ご予約まで、いただけるとは。明日は、包帯の巻き直しをいたしましょう」
「門の外で待ちます。今日は、待った甲斐がありました」
「……そう言っていただけますと、薬箱を抱えてきた甲斐があります」
私は傘を傾けて、口もとを隠す。頬が熱いのは、きっと雨のせいではない。
そこへ、金の馬車が水を跳ね上げて止まった。
窓から、殿下が私と団長を見比べる。撫でつけた金髪の下で、口の端がゆっくりと曲がった。
「不運の団長と縁起の悪い女か。似合いだな」
窓枠には、かかとの高い長靴が乗せてある。奥の席では、ブリジッドが四つ葉の髪飾りを指でいじっていた。
「まあ、お手当てですのね。お二人とも、お怪我にはすっかり慣れていらっしゃるのでしょう?」
「今朝のお手当ては、もう済んでおります。ご用件を、伺いましょう」
侍従が雨の中、誓紙を盆に載せて差し出してくる。オーエンが私の後ろへ回り、盆に雨が入らぬよう傘を寄せた。私の肘まで濡れない位置で、傘はぴたりと止まる。
「署名しろ。母上がお戻りになる前に、片を付ける」
紙には〈縁起の悪いフィオネとの婚約を、王太子ローナンの申し出により解く〉とある。はい、紙の上でもその呼び名なのね。胸の奥がちくりとする。けれど、ペンを取る指はもう迷わない。
「承知いたしました。では、一行だけ書き足してもよろしいでしょうか?」
「好きに書け。縁起の悪い女の字など、読む気にもならん」
私は誓紙の余白に、一行を書き足した。『一、フィオネは本日より、殿下の厄を一切お預かりいたしません』
家庭教師に褒められた字で、一画も崩さずに。ここだけは、読めなかったとは言わせない。侍従の目が余白で止まり、オーエンの白い口ひげがぴんと持ち上がる。
「お嬢様。この一行も、殿下のお手もとへお渡しするのでございますな?」
「はい。お許しをいただいた追記でございますから」
殿下は窓から紙をひったくり、読みもせずに署名を走らせた。ブリジッドは、殿下の横顔だけを見ている。
「立会人は、そこの不運の団長でいい」
団長は、もう濡れていない大きな手でペンを取る。私の文字のそばに、立会人の名が一字ずつ丁寧に並んでいく。
「署名しました。フィオネ嬢、これでよいですか?」
「ありがとうございます。これで、記録に残ります」
誓いはゆうべ、もう口で解けている。これは、王家の書庫に残すための一行。私は団長の名の下まで確かめて、誓紙をオーエンに預けた。
殿下が窓から身を乗り出し、雨の空を仰ぐ。ブリジッドのほうへ、ぐいと胸を張った。
「見ろ、ブリジッド。あの女と縁を切った朝は、雨まで上がる」
まだ降ってるけど。
馬車が動き出した、その瞬間だった。後ろの車輪が外れ、坂をころころと転がっていく。
支えを失った馬車が、ぐらりと傾いた。扉がばたんと開き、殿下が泥水の水たまりへ、つるりと滑り落ちる。ばしゃん。水は浅いのに、音だけは立派だ。
水たまりから、長靴の爪先だけが突き出している。奥のブリジッドは吊り革にぶら下がり、四つ葉の髪飾りにまで泥の一滴もついていなかった。
「きゃっ! 殿下、お召し物が!」
「あの女の呪いだ! 誰か、俺を引き上げろ!」
殿下が侍従へ手を伸ばす。侍従は余白の一行と泥水を見比べて、一歩だけ足が遅れた。
「次は何が落ちるかなー? くふふふ……」
肩の小さいのが、お団子を揺らしてはしゃぐ。オーエンは咳払いをひとつして、誓紙を懐へ収めた。
雨は降り続いている。団長の肩にだけ、一粒も落ちてこない。
「今度は、殿下の車輪でございますね」
「あなたの薬箱は、閉じたままでよさそうです」
「ええ。殿下には、侍従の方がいらっしゃいますから」
団長の口の端が、ほんの少しだけ上がって見えた。殿下は泥のまま、傾いた馬車の脇に取り残されている。薬箱を抱える腕から、そっと力が抜ける。
ブリジッドが窓から顔を出す。私へ向けられた声は、雨音の中でも蜜のように甘い。
「明日のお茶会、あなたもいらして。幸運を、おすそ分けしてさしあげますわ」




