1. 縁起の悪い女と、転がる王冠
「お前といると縁起が悪い。婚約は破棄する」
春の夜会の楽が、ぷつりと止まった。音の余韻さえ吸い込む静けさの中、ローナン殿下が燭台の光を背に私を見下ろしている。
「まあ、殿下。そんなにはっきりおっしゃっては……フィオネ様がお気の毒ですわ」
隣で〈幸運の令嬢〉ブリジッドが、甘い声に合わせて四つ葉の髪飾りを揺らす。扇の陰からも杯の向こうからも、広間じゅうの目が私に集まった。
はい、そう来るのね。今夜はカップより先に、婚約のほうが割れるらしい。
私、フィオネはよく転ぶ。よくカップを割る。馬車の車輪はよく外れる。だから〈縁起の悪い女〉と呼ばれてきた。
でも本当は、触れた人の厄を引き受けてしまう体質なだけ。十年間、殿下の厄を全部被ってきたのは私だ。
十年前の婚約の儀で、九歳の私は殿下の手を取り、「殿下の厄は、私がお預かりいたします」と誓った。
王妃様に言われてのことだ。毎朝の〈朝の御手〉で殿下の指を握り、胸の内では〈朝のお手〉と呼んできた。
婚約が解けるなら、あの誓いもここまでのはず。私は左肩から垂れる胡桃色の三つ編みを整え、若葉色の目を伏せる。
「承知いたしました。では、今日から殿下の不運は、殿下ご自身でどうぞ」
言い終えた瞬間、背中から何かが、すうっと抜けていく。重い冬の外套を脱いだように、肩が軽い。息って、こんなに深く吸えるものだったのか。
「……泣かないのか?」
「泣くと、殿下の分の厄まで涙で流れてしまいますので」
「何を訳の分からないことを!」
殿下が地団駄を踏み、かかとの高い長靴が床を鳴らした。たいへんよく響く靴だ。楽が止まった今なら、独奏もできそう。
「涙の代わりに、お辞儀でご挨拶を。十年、お世話をさせていただきました」
「挨拶など要らん! もう俺の前に立つな!」
私は裾を引き、殿下の正面からすっと脇へ退く。もう前に立つな、とのお望みには完璧に応じたい。
「お通りを空けますので、こちらでお見送りを。どうか、足もとにお気をつけくださいませ」
「縁起の悪い女が、俺の足もとを案じるな!」
「殿下、もう参りましょう。縁起の悪い方とお話ししていては、運が逃げますわ」
殿下は私の横を通り過ぎ、靴音も高く王族の席へ続く大階段へ向かった。
ブリジッドは下の段で立ち止まる。殿下だけが数段上ったところで、わざわざ客を振り返り、顎を上げる。
「見ていろ。今宵から俺は、幸運の令嬢と共に上へ行く」
大階段を上りかけた殿下が、足を滑らせた。
「うわっ、わ、わっ!」
殿下は段を一つずつ、尻で滑り降りてくる。デン、ドン、ドン。撫でつけた金髪は、バサバサと乱れた。
転がった王冠が、私の足元で止まる。
今のは、十年分が返っていった……の?
客が息をのみ、侍従が駆け寄る。その隣でブリジッドは一歩下がり、何より大切そうにドレスの裾を持ち上げた。
「殿下! まあ、どうしましょう。わたくし、新しい裾が汚れてしまいますわ」
私の手のほうは、十年の癖で殿下へ伸びかける。助けなければと思うより先に、指が動く。
だめ。触れたら、また引き受けてしまうかもしれない。
私はその手を引っ込め、王冠だけを拾い上げた。手巾で拭うと、金の輪は燭台の光をまっすぐ返す。こちらは磨けば済むので、たいへん助かる。
「殿下、お落とし物でございます」
「お、王冠を……王冠を、落とし物と言ったぞ、あのお嬢様」
客の誰かが漏らしたささやきに、侍従は両手で王冠を受け取ったまま固まった。
「あ、あの女の呪いだ!」
「お体は、侍従の方にお預けくださいませ。私がお持ちしていたのは、お落とし物だけでございますので」
「俺は床にいるんだぞ! 見ていないで、何とかしろ!」
「はい。王冠は、きれいに拭いてお渡しいたしました。お召し物のほうは、侍従の方の手巾でお拭きくださいませ」
殿下が侍従に抱え起こされる。私は裾をつまみ、いつもより深く、最後のお辞儀をした。
車寄せへ出ると、春の雨が石段を黒く濡らしている。夜気に頬を冷やされ、裾の中で膝がこわばる。十年、この石段で転ばなかった夜はない。
足を下ろしかけたところで、横から大きな手が差し出された。濡れた外套の、見上げるほど大柄な騎士。顎の古傷を、雨の滴が伝っている。
「お手を。石段が濡れています」
「ご親切に、ありがとうございます。けれど、私にお触れになると……ご迷惑をおかけするかもしれません」
「迷惑より、あなたがここで転ぶほうが、俺は困ります」
差し出された手は、引っ込まない。その真顔を見ていたら、遠慮を重ねる言葉が見つからなかった。
「……それでは、お言葉に甘えます」
手を取れば、この人の厄が私に移るはず。なのに、体のどこにも重さがない。差し出された手の大きさが、今はただ頼もしい。
私は濡れた手に指を重ねた。その瞬間、騎士の肩を打っていた雨が、ふっと止む。包まれた指先だけが、夜の冷たさから遠い。
「……雨が」
「まあ。お召し物を、これ以上濡らさずに済みますね」
騎士が手の甲を、そっと外へ向ける。雨粒が落ちてこないのを確かめる仕草に、私もつられて空を見た。
「あなたのほうにも、落ちていません」
「私も、そのようでございます。今夜は、変わったことばかりです」
「……変わったこと、ですか?」
手を放しても、騎士は乾いた自分の指をじっと見つめている。私は礼を言い、その手の温かさが消えないうちに、馬車の踏み板に足をかけた。
◇
自室へ戻ると、オーエンが紅茶を運んでくる。老家令の目は、私の膝と肘のあいだを忙しく行き来する。古い擦り傷の痕ならあるけれど、今夜はその上に増えたものがない。
「お嬢様。今宵は、お怪我がひとつもございませんな」
その夜、私の手の中で、紅茶のカップは一度も割れなかった。
私は両手でカップを包んだまま、動けない。手のひらに染みてくるのは、ただお茶の温かさだけ。湯気の向こうで、オーエンの白い口ひげがふるふると震えている。
「十年お仕えして、初めてで……ございます。お膝にも、お肘にも、新しいお傷がない夜は」
「オーエン、泣いているの?」
「……目に、湯気が入っただけでございます。お茶が冷めますぞ。取っ手は、外れておりません」
「本当に……外れておりませんね」
私は小さく笑った。笑っていいのだと気づいたら、取っ手を握る指からも力が抜ける。
「……オーエン。私、今夜、婚約を破棄されたのよ」
「さようでございますか。では今宵は、二重のお祝いでございますな」
「もう、オーエンったら。お祝いのお菓子までは、ねだりませんよ」
私は吹き出して、そっとカップを下ろす。かちん。澄んだ音に肩をすくめかけ、それきり何も起きない静けさに、ゆっくり息を吐いた。割れる音のない部屋って、こんなに静かなのね。
オーエンは目尻を指で押さえて、部屋を出ていく。私は外れていない取っ手を、確かめるように指でなぞった。
「……やっと気づいたか。遅いぞ、お前」
肩の上で、手のひらほどの厄神が、ふんぞり返っている。
煤色のお団子を頭の左右に二つ揺らした女の子が、橙色の目で私を覗き込んだ。厄神――おばあさまの昔話に出てくる、厄を食べる小さな神様だ。
「そのカップ、そんなにうまそうか? ただの紅茶だぞ」
「うまそうなのは中身よ。……いえ、今はそれどころじゃないわ!」
「なんだ、つまんないの。せっかく起きてやったのに!」
「……起きて?」
「十年ぶりにな。おかげで、腹ぺこだぞ!」
私は自分の靴の先へ目を落とした。広間も雨の石段も通ってきた足に、新しい傷が一つもない。探してしまうことのほうが、おかしいはずなのに。
「……私、今日、一度も転んでないわ」




