6. 十年分の請求書
王妃陛下のお召しは翌朝、六日目の朝だった。
玄関で胡桃色の三つ編みを結い直していると、朝の冷気が指先にしみる。オーエンは手帳を抱え、私を待っていた。
「お嬢様。十年分、すべてこちらに書き留めてございます」
「……全部、でございますか?」
白い口ひげが震える。懐から覗いているのは、殿下の署名を頂いた誓紙だ。
「擦り傷が千と二百十四。転んだ日も、割れた日も、一つ残らず」
私は結び目から指を離した。十年分の私の膝と肘が、あの手帳に入っている。こんなに分厚くしてしまったのね。
「私よりも、よく覚えていてくださるのでございますね」
「お嬢様は、お痛みが引くとすぐお忘れになる。それも、私が覚えております」
忘れた傷まで、ここにある。氷の張った池のふちで転んだ冬も、階段を三段すべり落ちた春も。私が笑って済ませたことも、ここでは消えていない。
「そのたびに、必ず薬箱を持ってきてくださいましたね」
「お嬢様がお笑いになる前に、傷を洗うのが私の役目でございました。痛くないふりは、どうにもお上手すぎますからな」
手帳の膨らんだ背を、私はそっと押さえる。指の下で紙の端が鳴り、言いかけたお礼が喉につかえた。
「……今日は、薬箱より先に手帳なのですね」
「はい。お嬢様のお膝へ、もうこれ以上書き足さずに済みますように」
「オーエン。その、手帳に挟んである紙は?」
「ゆうべのうちに、手帳から書き写しました。いざというときの、お守りでございます」
家令の懐へ、手帳が戻る。傷の数よりも、薬箱を持って駆けてきてくれた足音が胸に残った。
門の前には、団長が待っている。顎の古傷の上の口が、私を見て開く。
「今朝も、お願いします」
私は差し出された大きな手に、指を重ねた。手を借りるだけなのに、指先より先に胸が温まる。
「うまー。くふふふ、朝からうまいぞ!」
煤色のお団子が耳に当たった。もう、朝のご挨拶より食事が先なのね。
「王宮まで、お供します」
「ありがとうございます。お待たせするかもしれませんが」
「待つのは、慣れています」
「では、今日はなるべくお待たせしないようにいたします」
「……それは、少し残念です」
そういうことを真顔で言う。お返事の作法は習ったけれど、こんなときの顔までは習っていない。私は薬箱を持ち直して、オーエンと門を出た。
◇
王妃の執務室は、紙とインクの匂いがする。壁一面の書棚に詰まった王家の帳簿は、朝の光の中でも背の間に暗い影をためている。
机から顔を上げた王妃の、銀の筋の黒髪が光った。濃い青の目が、私の指先まで見ている。指を丸めたくなるのをこらえ、私は背筋を伸ばす。
殿下は母の机の脇に立ち、その後ろでは侍従が傾いた襟飾りを直している。団長は扉の脇、オーエンは私の後ろに控えた。
かかとの高い長靴が、静かな部屋の床を硬く鳴らす。
「母上。あの夜からの不運は、全部あの女の呪いだ。母上の名で、罰してください」
「ローナン。下がっていなさい。ほかの者も」
王妃はもう書類へ目を戻している。殿下が舌打ちして控えの間へ下がり、侍従と団長が続いた。
「お嬢様ご自身が、お持ちください」
オーエンは請求書と誓紙を私の手に握らせ、白い口ひげを震わせて出ていく。閉まる扉の音がやけに大きい。王妃と私だけになった。
「あの子は、生まれつき厄の多い子だったの。だから、あなたに預けたのよ」
私は受け取った紙を、懐へ収める。指が縁に引っかかり、離すまでに少しかかる。
九歳の春の儀を、私は覚えている。冷たい広間で、言われるまま差し出した小さな手。その手が何を持つのか、誰も教えてくれなかった。何も知らない私だけが、ちゃんとできたつもりでいたのだ。王妃の目を見たまま、声だけが低くなる。
「……九歳の私には、一言もおっしゃいませんでした」
「知らなくてよかったのよ。知っていたら、誓わなかったでしょう?」
でしょうね。知っていたら、九歳の私は泣いて逃げたはず。あの小さな手を引っ込めるくらい、してよかったはずなのに。
でも、知らずに出した手の傷は、知らないままでは済まなかった。転ぶたび、悪いのは自分の足だと思っていたのだ。
王妃が机の上で指を組む。私の言葉は、机のこちら側に置き去りのままだ。
「戻りなさい。殿下の厄を被るのが、あなたの務めでしょう」
「承知いたしました。では、務めの対価を頂戴いたします」
私は懐から請求書を出し、机に置く。務めと言うなら、お勘定がつくのが筋というもの。紙の角まできちんとそろえて、指を引く。
オーエンから預かった請求書には、十年分の手当て代が、一行ずつ並んでいた。
転んだ日も割れた日も、お勘定には入れていない。これでも、ずいぶん控えめな請求である。
「……擦り傷一つにつき、金貨十枚?」
「王宮の侍医様のお手当て代と、まったく同じお値段でございます」
王妃の指が行をたどり、最後の一万二千百四十枚のところで止まった。
「……桁が、多すぎるわ」
「まけないよー」
ミリャが私の耳へ身を乗り出す。あなたが決めるお値段でもないんだけど。
「静かに。いまはお勘定の最中よ」
笑顔のまま、口の端だけで返した。
王妃は請求書を机に伏せる。見えなくしても、桁は減らない。
「戻ってくるなら、払ってあげます」
「では、こちらもご覧くださいませ」
私は誓紙を机に広げた。雨の朝、泥水のそばで書き足した余白の一行。その下に殿下の署名と、立会人の団長の名が並ぶ。
王妃の薄い唇が結ばれた。控えの間へ向けて、鋭い声が飛ぶ。
「ローナン! これに、署名したの?」
扉が開き、殿下と侍従、団長とオーエンが戻った。
「……しましたとも。それが、何か?」
「読んでから、署名したの?」
「縁起の悪いあの女の字など、いちいち読んでいられません!」
王妃は余白の一行に指を置き、ゆっくりと殿下の署名へ滑らせる。
戻れという命と、預からなくてよいという署名が、同じ机の上にある。侍従の手が、襟元で止まった。
「殿下ご自身のお許しと、立会人のご署名を頂いたものでございます」
殿下は誓紙から目をそらし、母の前で胸を張る。顎まで、いつもの角度だ。
「俺は、あの女などいなくとも〈幸運の王子〉です。母上も、よくご存じでしょう」
書棚が、みしりと鳴る。
書棚の帳簿が、雪崩を打って殿下の上へ崩れ落ちる。かかとの高い長靴だけが、紙の山から突き出ていた。
「へっ、どこだ! 誰か、俺を出せ!」
どさどさ、ばさばさ。紙の山が、長靴ごともぞもぞ動く。侍従は膝をつき、無言で帳簿をどけ始めた。除けた分は、きっちり向きをそろえて積んでいく。
「きゃははは! 紙のお山だぞー!」
長靴を目印に掘るのね。なるほど、今朝はかかとが高くて助かる。
オーエンの白い口ひげが、ふっと緩む。
「お嬢様。薬箱を開ける必要はございませんな。お声もお足も、まことにお元気で」
「はい。お手当ては、侍医の方にお任せいたしましょう。紙のお山のほうは、侍従様に」
私は薬箱の留め金から指を離した。いちばん先に、私が駆け寄らなくてもいい。膝の力まで、そっと抜ける。
王妃の目が、紙の山と誓紙を行き来する。私はその間に、請求書へ目を向けた。
「……この請求は、勘定方を通しなさい」
請求書が、私の手に戻ってくる。端を折らないよう、私はそっと受け取った。
「では、勘定方へお回しいたします」
扉の脇で団長が一歩、前へ出る。私が請求書をしまうより、早い。
「その請求書、俺が勘定方まで届けます」




