第9話
三十五歳になった初夏。
ロストックで暮らし始めて十一年、マティアスと所帯を持って九年が過ぎていた。
町外れの苗場はすっかりこの土地の風景の一部になり、春先から初夏にかけては、毎日のように近隣の農家や町の住人が苗を求めてやってくる。
朝一番、温室の前の敷板に水を打っていると、街道の方から賑やかな足音が近づいてきた。
「クラウディアさん、おはよう!」
生垣の隙間から元気よく顔を出したのは、広場のパン屋の孫息子のハンスと、近所の農家の娘リーナだった。二人とも十歳くらいで、手には小さな麻袋と手桶を抱えている。
「おはよう、二人とも。今日は学校がお休みだったかしら?」
「うん! 教会の花壇に植える花をね、神父様に頼まれて買いに来たんだ!」
「マティアスのおじちゃんはいる?」
ハンスが温室の奥を覗き込む。
「いるぞ。朝から騒ぐな、苗が驚く」
奥の棚からぬっと姿を現したマティアスに、子供たちは一瞬だけびくっと身を竦ませた。相変わらず無精髭に泥の前掛けという厳つい風貌だけれど、子供たちはもう彼を怖がったりはしない。不愛想な大男が、絶対に理不尽に怒ったりしないことを知っているからだ。
「神父様からは何の花を頼まれたの?」
私が屈み込んで尋ねると、リーナが懐から小さく折りたたんだ紙を取り出した。
「ええとね、日当たりが悪くても咲く、青い花だって!」
「それなら、紫蘭か勿忘草がいいわね。裏の半日陰の棚にあるから、一緒においで」
私は二人を裏の苗床へ案内した。
素焼きの小鉢にぎっしりと青い花芽をつけた勿忘草の苗を見せると、子供たちは「わあ、可愛い!」と歓声を上げた。
「これにする! ねえ、今すぐ植え替える練習をしてもいい?」
「いいわよ。じゃあ、空いている鉢を使ってやってみましょうか」
作業台の前に子供たちを並ばせ、腐葉土と小粒の赤土を混ぜた土を用意した。
ハンスが勢いよく苗の茎を掴んで引き抜こうとしたので、私は慌ててその手を止めた。
「待って待って、茎を引っ張っちゃだめよ。根元が千切れちゃうわ」
「えっ、でも抜けないよ?」
「こうするのよ。ほら、見ててね」
私は鉢を逆さにし、指の間に苗の根元を挟んでから、鉢の底の縁を手のひらの付け根でトントンと軽く叩いた。
「こうして振動を与えると……ほら、すぽっと抜けるでしょう?」
「うわあ、本当だ! 土が崩れてない!」
「苗の根はね、赤ちゃんの指と同じくらい繊細なの。無理に引っ張らないで、優しく押し出してあげるのよ」
感心する子供たちの前で、リーナが新しい素焼き鉢を手に取り、そのまま土をざばっと放り込もうとした。
「あ、リーナちゃん、ちょっとストップ!」
「えっ、何か違う?」
「底をよく見てごらん。穴が開いているでしょう? そのまま土を入れたら、水やりのたびに泥が流れ出ちゃうの。それに、一番下にはこれを入れるのよ」
私は木箱から、割れた素焼き鉢の小さな破片を取り出して見せた。マティアスが日頃から割れた鉢を金槌で砕いて取っておいてくれる、大事な底石だ。
「この破片をね、丸く反った方を上にして穴を塞ぐように置くの。こうすると土はこぼれないし、余分なお水だけが外へ逃げてくれるのよ。お水が底に溜まったままだと、根っこが息できなくなって腐っちゃうからね」
「へえー! お水の出口を作るんだね」
リーナが納得して器用に破片を敷いた。
次は苗の据え付けだ。ハンスが苗を鉢の底深くに押し込み、上から土を山盛りに被せようとした。
「ハンス、ちょっと待った」
横から低い声が響いた。いつの間にか作業台の脇に来ていたマティアスが、太い指先で苗の生え際を指した。
「埋めすぎだ。葉の根元まで土に埋めたら、茎が腐る。……深さは元の鉢と同じ高さに揃えろ」
「う、うん……!」
マティアスに言われて慌てたハンスは、苗を引き上げて土を足したが、今度は両手で上から土をぎゅうぎゅうと力任せに押し固め始めた。
「息が詰まるぞ」
マティアスが眉をひそめると、ハンスが困ったように手を止めた。私は思わず苦笑して、ハンスの泥だらけの手を優しく包んだ。
「土はね、力いっぱいつぶしちゃだめなの。根っこが伸びるための隙間と空気がなくなっちゃうから。ふんわりとお布団を掛けるみたいに土を入れて、鉢の周りを指先で軽く押さえるだけでいいのよ」
私が手本を見せながら、鉢の縁をコンコンと作業台に軽く打ち付けて土を落ち着かせた。
「ほら、土が沈んだでしょう? それとね、土は鉢の縁ぎりぎりまで入れちゃだめよ。指一本分くらい、上の縁を空けておくの」
「どうして? いっぱい入れた方が良くない?」
「お水をあげた時、縁まで土が入ってると水が泥ごと溢れ出ちゃうでしょう? この隙間は『お水のお部屋』なの。ここに溜まった水が、じわじわと時間をかけて底まで染み込んでいくのよ」
「なるほど! お部屋を作ってあげるんだ!」
ハンスが目を輝かせて土の量を調節した。
「よくできたわ!二人とも筋がいいわね」
「へへっ、簡単だね!」
得意げに笑うハンスを見て、マティアスがぽつりと呟いた。
「最初から上手い奴はいない。……クラウディアも昔、土を山盛りに盛って水を溢れさせ、作業小屋中を泥だらけにした」
「ちょ、ちょっとマティアスさん!? 子供たちの前で十年前の失敗を暴露しないでください!」
私が真っ赤になって抗議すると、ハンスとリーナが大笑いした。
「クラウディアさんでも失敗したんだ!」
「そうよ、失敗ばっかりだったわ。だから大丈夫、二人ともすごく上手よ」
マティアスはそっぽを向いて口元を緩め、作業台の隅に小さな如雨露を二つ置いてくれた。
「最後に水をやれ。蓮口を上に向けて、土が掘れないように優しくやれよ」
「はーい!」
如雨露の先から落ちる細かな水が、ふんわりとした土に吸い込まれ、やがて鉢の底から澄んだ水がちょろちょろと流れ出てきた。教えた通りの完璧な仕上がりだった。
子供たちが満足そうに青い花の鉢を抱えて帰っていった後、私たちは作業小屋の丸テーブルで昼食をとった。
パン屋の親父さんから差し入れでもらった焼き立てのチーズパンに、庭のミントを浮かべた冷たい井戸水。
「ふふ、ハンスくんたち、本当に楽しそうでしたね」
パンをちぎりながら言うと、マティアスは少し決まり悪そうに眉を寄せた。
「……落ち着きのない小僧だ。道具を振り回すんじゃないかと冷や冷やした」
「でも、ちゃんと見てあげてたじゃないですか。お水のお部屋の話、昔マティアスさんが私に教えてくれたことなんですよ」
「忘れた」
「嘘ばっかり。教え方が上手でしたよ、マティアス先生」
「お前の真似をしただけだ。クラウディア先生の方が、よっぽど手慣れてる」
「まあ、クラウディア先生だなんて! マティアス先生が無口すぎるから、私が喋るしかないんですよ」
「……悪かったな」
肩をすくめてパンを口に放り込む彼を見て、思わず吹き出してしまった。
夫婦になって九年。
私たちには子供がいない。最初の数年は、町の世話好きな人から「まだ子供はできないのかい」と悪気なく聞かれることもあった。けれどマティアスはいつも、
「俺たちの手には、この苗場と妻だけで手一杯だ」
と平然とした顔で言い返してくれた。
何かを諦めたわけでも、欠落を抱えて俯いているわけでもない。
二人で汗を流して土を耕し、町の子供たちが花を買いに来て、巣立っていく苗を見送る。この穏やかで満ち足りた日常のすべてが、私たちが選び取った、私たちの家族の形だった。
昼食を終え、温室の風通しをよくするために天窓を開けていると、マティアスが丸テーブルを片付けながら言った。
「来週、広場の教会の生垣を刈り直す。神父から頼まれた」
「あそこの柊ですね。手伝います、鋏を研いでおきますね」
「いや、刈り込みは俺がやる。お前は足元で切り落とした枝を集めてくれ。刺さると痛いからな」
「もう、私だって厚手の革手袋を持ってるんですから、枝払いぐらい平気ですよ」
「駄目だ。お前の手は苗の手入れ用だ」
ぶっきらぼうにそう言って、彼は私の指先を軽くつついた。
硬くなった私の手のひらを、彼はいつだって、あの出会った日のように気遣ってくれている。
「じゃあ、お言葉に甘えて箒係にしますね」
私が笑うと、マティアスも満足そうに頷いた。
温室を渡る初夏の風が、若葉の青い香りを運んでくる。
二人で並んで土をいじり、時折顔を見合わせて笑い合う。
劇的な事件など何もない、けれど何ひとつ欠けていないこの日々が、三十五歳の私にとって、かけがえのない宝物だった。




