第10話
四十二歳の春。
夫婦になって十六年が経ち、互いの体にも少しずつ年齢の影が落ち始めていた。
若い頃のように徹夜で寒波を見張るような無茶は効かなくなり、重い腐葉土の樽を運んだ翌日には、二人して腰をさすりながら苦笑いするのが日常になっていた。
その異変が起きたのは、町外れの古い屋敷の庭木を剪定していた日の夕方だった。
伸び放題になっていた大ナラの枝を落としていたマティアスが、梯子の上でふいに動きを止め、そのまま右腕を押さえて顔を歪めたのだ。
「マティアスさん!?」
慌てて梯子の下へ駆け寄ると、彼は青ざめた顔で梯子を降りてきたが、右腕がだらりと垂れ下がったまま上がらなくなっていた。
「……すまん。昔の古傷のところを、少し捻ったらしい」
彼が指さした右肩から鎖骨にかけては、あの軍隊時代に負ったという深い傷跡がある場所だった。普段はどんなに重い荷物を持っても眉ひとつ動かさない男が、脂汗を流して荒い息を吐いていた。
ただの筋違いではないと直感し、私は彼に肩を貸して、町医者の診療所へ引きずっていくように連れて行った。
「骨は折れちゃいないがね、関節の奥の筋がひどく炎症を起こしているよ」
老医師はマティアスの肩に触れながら、厳しく眉をひそめた。
「昔の傷痕が引き攣れて、無理な力がかかったんだ。いいかい、最低でも二週間は絶対安静だ。右腕を肩より上に上げちゃいけない。重いものを持つなんてもってのほかだ。無理をして筋が切れたら、一生右腕が使えなくなるぞ」
一生使えなくなる、という宣告に、マティアスは唇を噛み締めて黙り込んだ。
春の芽吹きのこの時期に、庭師が二週間も腕を動かせない。それは温室の仕事にとって、致命傷になりかねない事態だった。
処方されたヤナギの樹皮の粉薬と湿布薬を抱えて家に帰り着くと、マティアスは作業小屋の丸テーブルに腰を下ろし、悔しそうに拳を握りしめた。
「……明日から、教会の生垣の刈り込みが入ってる。予約をもらってる苗の引き渡しも山ほどあるんだ。二週間も寝込んでられるか」
「寝込んでください!」
私は彼の前に立ちふさがり、両手を腰に当てて言った。
「お医者様の言葉を聞いたでしょう? 一生腕が動かなくなったらどうするんですか! 仕事なら、私がやります!」
「お前一人で生垣を刈り込めるわけがない。大鋏は重いし、枝を揃えるのは力任せじゃできないんだぞ」
「十六年間、あなたの隣で何を見てきたと思っているんですか!」
私は一歩も引かずに言い返した。
「苗の仕分けも、水やりも、剪定だって全部見てきました。力仕事はマティアスさんには敵わないけれど、枝の落とし方なら頭に入っています。私に任せてください!」
マティアスは反論しようと口を開けたが、私の険しい顔を見て、ふっと息を抜いて視線を落とした。
「……だが、俺が何もしないわけにはいかない」
「何もしないなんて言っていません。役割を分けるんです」
私は彼の左手を両手で包み込んだ。
「マティアスさんには、座ってできる一番大事な仕事をお願いしたいんです。剪定鋏を完璧に研ぎ上げて、苗の出荷札を書いて、私に指示を出してください。あなたが研いでくれた鋭い鋏がなければ、私の力じゃ太い枝なんて切れませんから」
私の言葉に、マティアスは少しの間瞬きを繰り返し、やがて小さく頷いた。
「……分かった。頼む」
翌朝から、私たちの新しい共同作業が始まった。
私は朝食を手早く済ませると、マティアスが丁寧に左手と膝を使って固定し、砥石で研ぎ上げてくれた長柄の大鋏を抱えて、教会の広場へ向かった。
大人の背丈ほどもあるヒイラギの生垣が、冬の間に伸び放題になって待っていた。
私はマティアスから教わった手順を一つずつ思い出した。
まずは生垣の両端に木の杭を打ち、水糸をピンと張って水平の高さを決める。当てずっぽうに刈り込むのではなく、糸の高さを目印にして、外側に飛び出た枝だけを落としていくのだ。
「よし……いきます!」
大鋏の柄を両手でしっかりと握り、刃を開いて枝を挟み込む。
シャキン、と澄んだ金属音が響き、硬いヒイラギの枝が抵抗なく滑らかに切り落とされた。
「すごい……!」
思わず声が出た。
マティアスが研いでくれた刃は、恐ろしいほど吸い付きがよく、余分な力を込めなくても刃先の噛み合わせだけで枝をスパッと断ち切ってくれたのだ。彼の技術が、私の非力さを完璧に補ってくれていた。
節のすぐ上で斜めに刃を入れ、雨水が溜まって腐らないように切り口を整える。足元に落ちた枝を熊手で集め、箕に放り込む。
昼過ぎには腕が棒のようになり、背中が鉛のように重くなったけれど、水糸に沿って真っ直ぐに刈り揃えられた生垣を見た時、胸の奥から熱い達成感が込み上げてきた。
「クラウディアさん、見事な腕前だね! マティアスにそっくりだ」
教会の老神父様が温かい麦茶を持って労いに来てくれた時、私は泥にまみれた顔で誇らしげに笑った。
夕方、作業小屋へ戻ると、部屋の中には香ばしいスープの匂いが立ち込めていた。
丸テーブルの上には、マティアスが不自由な左手を使ってちぎったキャベツと干し肉の鍋が湯気を立てていた。テーブルの端には、綺麗に油を引かれた小鋏と、角が整えられた木札が几帳面に並べられている。
「おかえり。……生垣、どうだった」
マティアスが心配そうに私を迎えた。
「完璧です! 神父様にも褒められましたよ。ほら、見てください、真っ直ぐに揃いました!」
私は誇らしげに両手を広げてみせた。けれど、泥と樹液で汚れ、豆が擦れて赤くなった私の手のひらを見て、マティアスは眉を寄せて私の手首をそっと取った。
「……無理をさせたな。手が腫れてる」
「無理なんてしてません。あなたの鋏が切れ味抜群だったから、全然疲れませんでしたよ」
強がりを言ってみせたけれど、座り込んだ途端に体の節々が痛んで動けなくなった。
マティアスは苦笑しながら、左手で器用に木匙を持ち、温かいスープを私の前の皿によそってくれた。
「食え。今夜は俺が給仕係だ」
「ふふ、旦那様の手料理ですね。いただきます」
大雑把にちぎられたキャベツは少し芯が残っていたけれど、熱い煮汁が疲れた体にじんわりと染み渡った。
食後、私は煎じて冷ましておいたヤナギの樹皮の湿布を取り出し、マティアスの右肩に当てて麻布でしっかりと巻き留めた。
「冷たくて気持ちいいな」
「明日も大人しくしていてくださいね。まだ温室の林檎の枝落としが残ってるんですから」
「ああ。……明日の鋏も、しっかり研いでおく」
マティアスは左手で私の手の上に自分の手を重ねた。
「クラウディア」
「はい?」
「……お前が妻で、本当によかった」
ぽつりと言われたその言葉に、胸がきゅうと締め付けられた。
「何を今さら言ってるんですか。十六年前、私が足に怪我をした時のこと、覚えてますか?」
「……ああ。お前が泣きながらスープを飲んで、木靴を履いた日だな」
「あの時、マティアスさんが私の足になってくれたんです。だから今度は、私がマティアスさんの右腕になる番なんですよ」
私が微笑むと、マティアスは照れくさそうにそっぽを向き、それから握った手に少しだけ力を込めた。
外は静かな春の夜。
お互いにできることを持ち寄り、足りないところを補い合って生きていく。
重ね合わされた手と手の間に、十六年の歳月が育んだ、揺るぎない夫婦の絆が静かに息づいていた。




