第11話
五十一歳の初夏、私たちは銀婚式を迎えた。
あの日、町の小さな教会で一輪の野薔薇を手渡されてから、丸二十五年。
鏡を覗き込めば、私のこめかみには銀色の髪が混じり、目尻には笑い皺が深く刻まれている。マティアスも五十四歳になり、無精髭にも白髪が目立つようになっていた。
毎朝、身支度をする時に手に取るのは、あの二十六歳の春に彼が削ってくれたツゲの櫛だ。
二十五年という歳月の中で、櫛の角は私の手の形に合わせて丸くなり、艶やかな深い飴色へと育っていた。今でも一本も歯が欠けることなく、私の髪を滑らかに梳き通してくれる。この櫛で髪を整えるたびに、夜なべをしてナイフを振るってくれたあの不器用な男の温もりが、指先から伝わってくるようだった。
銀婚の当日の昼下がり、温室の前の庭は思いがけない賑わいに包まれた。
「マティアスのおじちゃん、クラウディアさん、おめでとう!」
生垣をくぐってやってきたのは、すっかり立派な青年になったハンスとリーナだった。ハンスはパン屋の跡を継ぎ、リーナも近所の農家に嫁いでいた。その後ろから、近所の農夫たちや老神父様までが、手料理や差し入れを抱えて次々と現れたのだ。
「二十五年もあの無口な男と連れ添ったんだ、クラウディアさんには町長から表彰状を出してもいいくらいだよ!」
パン屋の親父さんがそう言って笑うと、集まった町の人たちからどっと笑い声が上がった。
庭先に並べた作業台の上には、ハンスが焼いてくれた特大の祝いパン、樽出しの林檎酒、熟成した山羊のチーズ、それに近所の畑で採れたばかりの甘い若豆が所狭しと並べられた。
マティアスは相変わらず居心地悪そうに鼻先をかいていたけれど、注がれた林檎酒の木椀を掲げて、
「……みんな、ありがとう」
と短く礼を言った。それだけで十分、彼の感謝は町の人たちに伝わっていた。
かつて泥だらけの靴で逃げ込んできたこの町で、私たちはいつの間にか、こんなにも温かい輪の中に迎え入れられていたのだ。
宴が終わり、夕暮れの風が庭を吹き抜ける頃、人々は笑顔で帰っていった。
静けさを取り戻した作業小屋で、私たちは二人並んで後片付けをした。
丸テーブルの上には、温室の鉢植えから切り取ったばかりの、淡い黄色の冬薔薇が一輪、素焼きの小瓶に挿して飾られている。二十五年前のあの野薔薇と同じ色をした花が、ランプの温かい灯りに照らされていた。
器を洗い終え、お茶を淹れて席に着くと、マティアスがふうと深く息を吐いた。
「……賑やかだったな」
「本当に。嬉しかったですね、みんなが覚えていてくれて」
「ああ。だが、少し疲れた」
彼が肩を回す仕草を見て、私は手の中の湯呑みを見つめた。
数年前に痛めた右肩は、重い荷物を持ったり冷え込んだりすると、今でも鈍く痛むらしい。私自身も、一日中しゃがんで草引きを続けると、翌朝には腰が固まってすぐに立ち上がれないことが増えていた。
「マティアスさん」
「ん?」
「これからの仕事のこと、少し相談したいんです」
私が改まって言うと、マティアスは湯呑みを置き、じっと私の顔を見た。
「私たち、もう五十を過ぎました。若い頃と同じようには動けません。だから……苗場の規模を、少し縮小しませんか?」
「縮小か」
「はい。遠くのお屋敷の出張剪定や、重い丸太の伐採みたいな危険な仕事は、町に新しく入ってきた若い庭師さんたちに譲りましょう。大きな苗木の大量納品も減らして、この温室で、私たちの手だけで無理なく世話しきれる分だけにしたいんです」
かつてなら、「まだやれる」と頑固に言い張ったかもしれない。
けれどマティアスは、否定することなく静かに私の言葉に耳を傾けていた。
「冬薔薇の鉢植えや、寒さに強いハーブの苗、それから家庭菜園用の野菜苗……一本一本にしっかり目が届く仕事に絞りたいの。広げることばかり考えるんじゃなくて、二人で元気で、長く土に触っていられるペースにしたいんです」
言い終えてマティアスを見つめると、彼は腕を組み、ゆっくりと息を吐き出した。
「……実を言うと、俺も同じことを考えてた」
「えっ、そうだったんですか?」
「ああ。春の仕込みの時、お前の腰が痛そうにしてるのを見てな。もう無理をさせる年じゃないと思ってたんだ。庭を広げて稼ぎを増やすより、お前と二人で、目の届く花を丁寧に咲かせていく方が、ずっと性に合ってる」
マティアスはそう言って、日焼けした顔を綻ばせた。
四十余年前、あのマイヤー氏の破格の誘いを断った夜と同じだった。私たちはいつだって、見栄や欲ではなく、二人で顔を見合わせながら自分たちの分相応な暮らしを選び取ってきたのだ。
「よかった! じゃあ、来週から苗床の配置を見直しましょうね。通路を広く取って、車輪付きの台車で鉢を運べるように工夫しましょう」
「ああ。棚の高さも、腰をかがめずに作業できるよう少し上げよう」
これからの暮らしの工夫を語り合う時間は、若い頃の計画を立てていた時と同じくらい胸が弾んだ。
ひとしきり話し終えた後、マティアスがふとテーブルの上の薔薇に視線を移した。
「二十五年か。……早いもんだな」
「本当に、あっという間でしたね」
「苦労ばかりさせた」
「またそんなことを言うんですか?」
私が苦笑すると、マティアスは立ち上がり、私の隣の椅子へ移ってきた。
そして、私の手をそっと取った。
硬くて、節くれだって、ところどころに小さな傷のある大きな手。二十五年前に教会で一輪の野薔薇を握らせてくれた、あの手だ。
「クラウディア」
「はい?」
「……今でも、お前が好きだ」
飾り気のない、けれど低く真っ直ぐな声だった。
心臓が二十代の頃のようにトクンと跳ね、頬に熱が集まった。
「二十五年前よりも、昨日よりも、今のお前が一番大事だ。俺の妻でいてくれて、ありがとう」
五十を過ぎた大人の男が、耳の先を赤くしながら伝えてくれる言葉の重みに、胸がいっぱいになって涙が溢れそうになった。
私は彼の手の上に、自分の両手を重ねた。
「私だって、同じです。マティアスさん」
彼の目を見つめて、微笑んだ。
「あの冬の日にあなたに出会えて、夫婦になれて、本当に幸せです。世界一頑固で、世界一優しい私の旦那様。……私も、今でもあなたが大好きですよ」
重ね合わされた手と手の間に、二十五年の月日が紡ぎ出した温もりが静かに満ちていた。
窓の外では、初夏の夜風が温室のガラスを優しく撫でている。
若い頃の情熱とは違う、けれど枯れることのない確かな愛が、私たちの丸テーブルの上で、一輪の薔薇のように静かに咲き誇っていた。




