第12話
七十歳の春を迎えた頃、マティアスの体調が目に見えて崩れ始めた。
七十三歳になった彼は、春先の寒の戻りの頃から空咳が抜けなくなっていた。朝、丸テーブルで麦粥をすすりながら、胸を押さえて小さく咳き込む。温室へ出る時間も少しずつ短くなり、昼前には作業小屋の丸太椅子に腰掛けて、ぼんやりと庭を眺めていることが増えた。
苗場は銀婚式の後に縮小していたから、無理な力仕事はなかった。それでも、土の入った鉢を運ぶ足取りはおぼつかなくなり、彼の手から剪定鋏がぽとりと落ちるのを、私は何度も目にするようになった。
「マティアスさん、今日はもう部屋に入りましょう。風が冷たいわ」
「……ん。少し、腰が重いな」
彼が素直に私の肩に手を置いて立ち上がった時、胸の奥が冷たく引き締まるのを感じた。あの頑固で、痛みを口にしなかった男が弱音を吐く。それだけで、事態が冗談ではないことが分かった。
夏を過ぎ、秋風が吹く頃には、彼は一日の大半をベッドの上で過ごすようになった。
往診に来てくれた町の医師は、マティアスの胸の音を聞き、私の前で静かに首を横に振った。
「長年の土埃と、昔の戦傷が胸の奥で悪さをしているね。それに、心臓も弱っている。……奥さん、こればかりは薬で治せるものじゃない。できるだけ暖かくして、楽な姿勢で過ごさせてやりなさい」
覚悟はしていた。人は誰しも老いて、いつかは土に還る。
けれど、いざその時が足音を立てて近づいてくると、言いようのない恐怖が足元から這い上がってきた。
七十歳の私にとっても、看病は想像以上に過酷だった。
大柄な夫の体を抱え起こして寝返りを打たせ、汚れた麻布を取り替えるだけで、私の腰と膝は悲鳴を上げた。夜中に彼が激しく咳き込むたびに跳び起き、背中を擦りながら「このまま息が止まってしまうんじゃないか」と暗闇の中で一人、恐怖に震えた。
私は強い人間でも、聖女でもない。
疲れ果てて台所の床にへたり込み、冷めた薬草茶を握りしめながら、情けなくて涙をこぼした夜も一度や二度ではなかった。
だから、私は助けを求めた。一人で抱え込むのはやめようと、自分に言い聞かせた。
「ハンスくん、すまないけれど、薪を小屋まで運ぶのを手伝ってくれる?」
「もちろんですよ、クラウディアさん! 任せてください!」
パン屋のハンスは二日に一度、太い薪を抱えてやってきては井戸水を汲み上げてくれた。リーナも「おじちゃんに食べさせてあげて」と、柔らかく煮込んだ野菜のポタージュを鍋ごと届けてくれた。
近所の人たちの温かい手がなければ、私の体はとっくに参っていただろう。施しを受けることを恥じるのではなく、感謝して手を受け取る。それは、四十四年前にこの町でマティアスと暮らし始めた時から、私たちが学んできた生き方そのものだった。
初雪がちらつき始めた冬の初め、マティアスはほとんど声を出せなくなっていた。
私は彼のベッドの脇にある小机に、温室から持ってきた小さな冬薔薇の鉢植えを置いた。まだ青い小さな蕾をつけた、淡い黄色の冬薔薇。
「マティアスさん、見て。今年もちゃんと蕾がついたわよ。あなたが秋に剪定してくれたおかげね」
話しかけると、マティアスはゆっくりと瞼を開け、濁りのない穏やかな目で私を見た。
節くれだった大きな手は、すっかり痩せて骨の形が浮き出ていた。私はその手を両手で包み込み、自分の頬に当てた。あの泥だらけの温室で、私の腕を引っ張り上げてくれた、世界で一番強くて優しい手。
「クラウディア……」
かすれそうな、けれど確かな声が、彼の唇からこぼれた。
「はい、ここにいますよ」
「……苦労ばかり、させたな」
四十余年前、あの作業小屋の土間でスープをくれた日から、彼が節目ごとに口にしてきた言葉だった。
私は泣き笑いのような顔で、大きく首を振った。
「何をおっしゃっているんですか。苦労なんて、一度も思ったことはありません」
彼の手の甲に、そっと口づけを落とした。
「あなたと出会えて、夫婦になれて、世界一幸せでした。私を妻にしてくれて、四十余年も守ってくれて、本当にありがとう」
マティアスは満足そうに、ふっと口元を緩めた。
それから私の指先を、微かな力で握り返してくれた。
「……ああ。お前と、一緒で……よかった」
それが、彼がこの世に残した最後の言葉だった。
翌朝、冷え込みがひときわ厳しくなった夜明け前。
マティアスは布団の中で、静かに息を引き取っていた。
苦しむ様子もなく、ただ眠りに落ちたまま、穏やかな顔をしていた。
私は彼の胸の上に手を置き、心臓の鼓動が止まっているのを確かめた。冷たくなっていく頬を撫でながら、涙がとめどなく溢れ落ちた。けれど、声を上げて取り乱すことはなかった。
彼は生き切ったのだ。私のために、苗場のために、誠実に、不器用に、この土地の土と共に命を全うしたのだと、誰よりも私自身が知っていたからだ。
葬儀には、町中の人たちが集まってくれた。
老神父様の祈りのもと、かつて父のために白い薔薇を手向けた、あの丘の上の樫の木のそばに、マティアスは埋葬された。ハンスやリーナたちが土をかぶせ、近所の人たちがそれぞれ庭の花を供えてくれた。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、私は墓標の前に立ち、静かに手を合わせた。
「さようなら、マティアスさん。また後でね」
それから、半月が過ぎた。
お悔やみに来てくれた人たちが去り、平屋は再び静まり返った。
私は台所で湯を沸かし、厚手のウールのショールを肩に巻いて、庭の作業小屋へ向かった。
春が来れば、温室の苗床を動かさなければならない。私が座り込んでいたら、彼が遺してくれた苗木たちがみんな凍えてしまうから。
作業台の上の剪定鋏を研ぎ、作業台の下からあのブナ材の頑丈な道具箱を引きずり出す。
古い麻布を持ち上げた時、底板がことりと外れ、中から油紙に包まれた革の束が現れた。
青と金の王家の紋章が押された、分厚い羊皮紙。
そして、夫の角ばった不器用な筆跡で書かれた、私宛ての手紙。
『クラウディアへ。
お前にこれを読ませる時は、俺が先に死んだ時だ。驚かせてすまない。
俺は最初から、お前がどこの誰かを知っていた』
七十歳の私は、冷え切った小屋の中で立ち尽くし、震える手でその手紙を見つめていた。




